◆1. バッハの生涯◆
アイゼナハ時代 (1685-1695)
ヨーハン・セバスティアン・バッハは1685年、テューリンゲン地方の小邑[しょうゆう]アイゼナハで町楽師の末子として生まれた。バッハ家は200年にわたって50人以上の音楽家を輩出した大家系で、セバスティアン以前の最大のバッハとされるヨーハン・クリストフも、当時アイゼナハでJ. S. バッハが洗礼を受けた教会のオルガニストをしていた。音楽に囲まれて育ったセバスティアンが将来音楽家になることは規定の事実だったともいえよう。
オールドルフ時代 (1695-1700)
9~10歳のとき相次いで両親が没したため、すでに教会オルガニストとして自立していた長兄に引き取られ、近くのオールドルフに移った。ここではすでにアイゼナハで始まっていた学業を続けるとともに、かつて
ヨーハン・パッヘルベルに師事した兄から本格的な音楽教育を受けた。兄からあたえられた教材に満足できず、兄秘蔵の楽譜を持ち出して夜毎秘かに書き写した、という逸話はよく知られている。
リューネブルク時代 (1700~1703)
15歳のバッハは自立の道を選んで北ドイツの町リューネブルクへ移り、ミカエル教会付属学校の給費生となる。聖歌隊で歌うと同時に、 ヨハネ教会のオルガニスト、ゲオルク・ベームに師事し, またハンブルクを訪れて老大家ヨーハン・アーダム・ラインケンのオルガン演奏から大きな刺激を受けた。最初期のオルガン曲はこの時代の作と思われる。この時代にはまた、近隣のツェレ宮廷でフランス音楽にも接した。この時代にバッハが筆写したブクステフーデとラインケンの楽譜が2006年に発見されている。
アルンシュタット時代 (1703~1707)
短期間ヴァイマル宮廷で楽師兼従僕を務めたのち、故郷テューリンゲン地方のアルンシュタットで新教会(現在のバッハ教会)オルガニストに就任。1705年には北ドイツのリューベックを訪れ、マリア教会の大オルガニスト、ディートリヒ・ブクステフーデから大きな刺激を受けた。オルガン曲とクラヴィーア曲のほか、教会カンタータの作曲もこの時代に始まった。
ミュールハウゼン時代 (1707~1708)
同じくテューリンゲン地方のミュールハウゼンでブラジウス教会オルガニストに就任し、主にオルガン曲と『神はわが王』(BWV 71) をはじめとする教会カンタータを作曲。1707年、又従姉のマリア・バルバラと結婚し、やがて7人の子供をもうけた。
ヴァイマル時代 (1708~1717)
ザクセン=ヴァイマル公の宮廷オルガニストとなり、『オルガン小曲集』(BWV 599~644) をはじめ、現存するオルガン曲の大半を作曲したが、その中にはのちのライプツィヒ時代に改訂されたものも少なくない。1714年からは宮廷楽団の楽師長も兼ね、教会カンタータの作曲も職務となった。またヴィヴァルディをはじめとするイタリアの協奏曲を知り、その多くをオルガンやクラヴィーア独奏用に編曲し、そこから決定的な影響を受けた。ケーテン時代に完成された室内楽やクラヴィーア曲のいくつかは、すでにヴァイマルで書き始められた可能性もある。のちのドレースデンやハレの教会でオルガニストを務めた長男ヴィルヘルム・フリーデマン (1710~1784)、フリードリヒ大王のチェンバロ奏者やハンブルク市の音楽監督となる次男カール・フィーリプ・エマーヌエル (1714~1786) が生まれたのもこの時代であった。
ケーテン時代 (1717~1723)
アンハルト=ケーテン候の宮廷楽長時代で、職務として『ブランデンブルク』(BWV 1046~1051) をはじめとする多数の協奏曲、『無伴奏のヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』(BWV 1001~1006) 曲と『無伴奏チェロのための組曲』(BWV 1007~1012) をはじめとするさまざまな室内楽を作曲した。また主に弟子の教育や家庭での演奏を目的として2声と3声の『インヴェンション』(BWV772~801)、『平均律クラヴィーア曲集第1巻』(BWV 846~869)、『イギリス組曲』(BWV806~811)、『フランス組曲』(BWV812~817) など、クラヴィーア作品が集中的に書かれた。最初の妻と死別して1721年に再婚し、新妻に『アンナ・マクダレーナ・バッハのためのクラヴィーア小曲集』2巻を贈った。やがて2人のあいだからは、モーツァルトに大きな影響をあたえた末子ヨーハン・クリスティアン (1735~1782) を含む13人の子供が生まれる。 ヴァイマル時代をバッハのオルガン曲の時代とすれば、ケーテンでの7年間は世俗器楽曲の時代と呼ぶことができよう。
ライプツィヒ時代 (1723~1750)
ザクセン地方の大都市ライプツィヒでトーマス教会カントルという要職に就任し、現存するものだけでも約160曲の教会カンタータ、『マタイ』(BWV 244) と『ヨハネ』(BWV 245) などの受難曲や『クリスマス・オラトリオ』(BWV 248) など、教会声楽曲の作曲と演奏が活動の中心となった。またのちには大学生の演奏団体コレーギウム・ムージクムの指揮も引き受けて、『コーヒー・カンタータ』(BWV 211) などの世俗カンタータ、室内楽やクラヴィーア協奏曲 (BWV 1052~1965) などの器楽も数多く作曲した。この時代にはまた自作品の出版にも意欲を見せ、 4巻の『クラヴィーア練習曲集』を出した。その中には6曲の『パルティータ』(BWV 825~830)、『イタリア協奏曲』(BWV 971)、『ゴルトベルク変奏曲』(BWV 988) などが含まれている。死の前年に『ロ短調ミサ曲』(BWV 232)を完成後、最後は視力を失い、手術の後遺症も災いして、『フーガの技法』(BWV 1080)を完成することなく65歳で他界した。1750年7月28日、午後8時15分であった。
◆2. 作品の概要◆
BWV番号
広く使われているBWV番号は、1950年に初めて出版されたW. シュミーダーの『バッハ作品目録』(BWV 1080まで) によるもので、現在は1990年の改訂第2版 (BWV 1120まで) と1998年の第2版簡略版 (BWV 1126まで) が用いられている。その後、2005年と2008年に発見された2曲を加えて、2008年12月現在、BWV 1128までの番号が付けられている。ただしこの中には偽作と判定されたものも約60曲ある。 BWV番号はジャンル別の整理番号で、作曲年代とは関係がない。
声楽曲
教会カンタータ
[BWV 1~52, 54~117, 119~140, 143~159, 161~188, 190~200]
教会カンタータは日曜日その他の祝祭日に礼拝の一環として演奏された音楽だが、少数ながら、教会で行なわれた結婚式や葬式用の作品などもある。オーケストラの序曲、合唱、独唱、重唱という編成が大部分だが、なかには終曲の4声コラール以外はすべて独唱または重唱という曲もあって、それらは「独唱カンタータ」と呼ばれる。またコラール(ルター派の賛美歌)の歌詞を中心とするタイプを特に「コラール・カンタータ」という。バッハが教会カンタータを集中的に書いたのはライプツィヒのトーマスカントル時代で、第1番『暁の星はなんと美しいことか』、第80番『われらの神はかたい砦』、第140番『目覚めよと呼ぶ声がする』、初期の第106番『神の時は最良の時』などが特に有名である。(慣用のカンタータ番号はBWV番号と一致する。)
世俗カンタータ
[BWV 30a, 36c, 134a, 198, 201~216]
音楽のスタイルは教会カンタータと大差ないが、誕生日の祝賀や貴人への表敬など特別な機会のために作曲され、多くはライプツィヒ時代に学生の演奏団体コレーギウム・ムージクムによって演奏された。 『狩りのカンタータ』(BWV 208)、『結婚カンタータ』(BWV 202)、『コーヒー・カンタータ』(BWV 211) 、『農民カンタータ』(BWV 212) などが有名である。
モテット
[BWV 118, 225~230, 1083, Anh. 159]
モテットは長い歴史をもつジャンルだが、バッハの時代になると新たに作曲されることは少なくなった。バッハの少数のモテットも葬式など特別な機会に作られたものである。対位法の技巧をこらした合唱が中心で、高度な演奏能力が要求されるため、バッハの死後も聖歌隊の訓練用に使われ続けた。『主に向かって歌え、新しい歌を』(BWV 225) や『イエス、わが喜び』(BWV 227) が特によく知られている。
ミサ曲 | ミサ楽章 |マニフィカト
ミサ曲 [BWV 232~236]
ミサ楽章 [BWV 237~242, 1081]
マニフィカト [BWV 243]
バッハの声楽曲の歌詞は大部分がドイツ語だが、ミサ曲とマニフィカトだけは古来の伝統に従ってラテン語で書かれている。バッハが属していたルター派の教会で用いられてミサ曲はミサ通常文の最初の2章、つまり「キリエ」と「グローリア」だけから成っていた (BWV 233~236)。死の前年に完成された『ロ短調ミサ曲』 (BWV 232) だけが通常文の全章を用いている。これは『マタイ受難曲』と並んでバッハ最高の教会音楽だが、生前に演奏されたことはないし、その用途もいまだ明らかでない。
『マニフィカト』(BWV 243) の歌詞はルカ福音書にある聖母マリアの賛歌で、5声部の合唱と独唱、重唱、オーケストラから成り、洗練された書法が特徴である。
受難曲
[BWV 244, 245]
受難曲は新約聖書の4つの福音書にあるイエス・キリストの受難物語に基づいた教会音楽で、復活祭直前の受難週間(聖週間)に演奏された。バッハの受難曲はオラトリオ型受難曲と呼ばれるタイプで、歌詞は聖書の言葉を中心とし、それに自由詩とコラールが加わる。聖書の言葉を朗唱する福音朗読者(エヴァンゲリスト)のレチタティーヴォを中心として、それに大小の合唱と4声コラール、独唱、重唱とオーケストラが加わる。現存するバッハの受難曲はいずれもライプツィヒで書かれた『マタイ』(BWV 244) と『ヨハネ』(BWV 245) の2曲だけで、『マルコ』(BWV 247) は歌詞のみが現存し、音楽は消失した。旧バッハ全集 (BGA) にある『ルカ受難曲』(BWV 246) は明らかに偽作だが、その一部をバッハが編曲した自筆譜 (BWV 246/40a) が1966年に日本で発見された (前田育徳会所蔵)。
オラトリオ
[BWV 11, 248, 249]
バッハのオラトリオは教会歴の特別の日の礼拝で演奏されたもので、『クリスマス・オラトリオ』(BWV 248) は『マタイ』と『ヨハネ』の両受難曲および『ロ短調ミサ曲』(BWV 232) とともにバッハの4大教会音楽に数えられる。6部から成る大曲だが、各部が独立したカンタータという形態をもち、元来はクリスマスとそれにつづく時期に1部ずつ演奏された。ほかにいっそう小規模な『昇天祭オラトリオ』(BWV 11) と『復活祭オラトリオ』(BWV 249) がある。
4声コラール, 歌曲とアリア
4声コラール [BWV 250~507, 1084, 1089, 1122~1127]
歌曲とアリア [BWV 508~523]
コラールとはルター派の賛美歌で、旋律自体は古くから教会で歌い継がれてきたものだが、バッハのコラールというときには、彼がそれらに和声を付けたものを指している。そのような4声コラールをバッハは教会カンタータや受難曲などの中で数多く用いたが、ここで挙げたものはそれ以外の曲である。コラールの歌詞は複数の詩節から成る有節詩なので、同じ旋律でも題名が違っているものも多い。その詩節の内容にしたがって工夫された和声の豊かさはまさに驚異的で、しばしば和声法の教材としても用いられている。
歌曲とアリアの大半は妻に贈った『アンナ・マクダレーナ・バッハのためのクラヴィーア小曲集』に記入された小品だが、2005年にヴァイマルで発見された有節アリア『すべてを神とともに』(BWV 1127) は、これまで知られていなかったタイプの作品として注目に値する。
オルガン曲
[BWV 525~552, 561~566, 568~575, 577~579, 582, 583, 585~596, 598~691, 694~745, 747, 749~758, 762~770, 957, 1085, 1090~1121, 1128]
バロック時代のドイツはまだ後進国で、その音楽もイタリアとフランスの影響から出発した。しかしオルガン音楽だけは例外で、すでにバッハ以前から他国にまさる豊かな伝統を誇っていた。当時最大のオルガニストと評されたバッハも、ハンブルクのヨーハン・アーダム・ラインケン (1623~1722)、リューベックのディートリヒ・ブクステフーデ (ca.1637~1707)、エアフルト/ニュルンベルクのヨーハン・パッヘルベル (1653~1706)、リューネブルクのゲオルク・ベーム (1661~1733) など、偉大な先人の作品を学ぶことから出発し、やがてイタリア音楽の要素も吸収して独自のスタイルを確立していった。
バッハのオルガン作品はコラールに基づく「オルガン・コラール」と、コラールと関係のない「自由オルガン曲」に大別される。前者にはコラール前奏曲、コラール幻想曲、コラール・パルティータ(変奏曲)などのタイプがあり、『オルガン小曲集』(BWV 599~644)、『シューブラー・コラール集』(BWV 645~650)、『18のコラール集』(BWV 651~668)、晩年の『カノン変奏曲』(BWV 769) などが含まれる。1984年にアメリカで発見された『ノイマイスター・コラール集』(BWV 1090~1120。BWV 1096は偽作)、2008年春にハレで発見された『コラール幻想曲』 (BWV 1128) も、ごく初期のオルガン・コラールである。
「自由オルガン曲」の中で最も多いのが「前奏曲(幻想曲、トッカータ)とフーガ」というタイプで、『トッカータ、アダージョとフーガ ハ長調』(BWV 564)、「ドリア調の」『前奏曲とフーガ』(BWV 538)など、ヴィルトゥオーソとしてのバッハを偲ばせる作品群である。最も名高いニ短調の『トッカータとフーガ』(BWV 565) には偽作説もある。単独の前奏曲やフーガも多く、『ト短調の小フーガ』(BWV 578) は特に有名。ハ短調の『パッサカリア』(BWV 582) も初期の傑作である。6曲の『オルガン・ソナタ』(BWV 525~530) は室内楽のトリオ・ソナタの形式を用いたもので、オルガニストの教育に欠かせない教材となっている。
クラヴィーア曲
[BWV 772~823, 825~833, 836, 837, 841~844, 846~919, 921~944, 946~956, 958, 959, 961, 963~994]
バッハはごく初期から晩年までクラヴィーア曲を書きつづけ、当時のあらゆるタイプの形式に挑戦して、その後のピアノ音楽の出発点を築いた。また没後のバッハ受容史においても、『平均律クラヴィーア曲集』を中心として、クラヴィーア曲が最も重要な位置を占めることになる。
初期の作品は正確な作曲年代を知ることが困難だが、フーガ部分が組み込まれている7曲の『トッカータ』(BWV 910~916)、バッハには珍しく各楽章に標題的な説明をもつ『最愛の兄の旅立ちに寄せるカプリッチョ』 (BWV 992)、『アリアと変奏』 (BWV 989) などが含まれる。
ヴァイマル時代 (1708~1714) にはヴィヴァルディやアレッサンドロ・マルチェッロ、ジュゼッペ・トレッリなどの協奏曲をクラヴィーア独奏用に編曲し (BWV 972~987)、その様式を吸収してその後の創作のために新しい基盤を築いた。
バッハのクラヴィーア曲が集中的に書かれたのが次のケーテン時代 (1717~1723) で、主として弟子たちの教育を目的に2声と3声の『インヴェンション』(BWV 772~801)、 24の長調と短調を用いて音楽の新しい地平を拓いた『平均律クラヴィーア曲集第1巻』(BWV 846~869)、フランス・クラヴサン音楽のスタイルを消化し発展させた『イギリス組曲』(BWV 806~811) と『フランス組曲』(BWV 812~817) が生まれた。大胆な和声と名技的な表現で知られる『半音階的幻想曲とフーガ』(BWV 903) も、初稿は明らかにこの時代のものである。
ライプツィヒ時代 (1723~1750) には『平均律クラヴィーア曲集第2巻』(BWV 870~893) がまとめられただけでなく、4巻から成る『クラヴィーア練習曲集』を「愛好家の楽しみのために」出版した(第3巻はオルガン曲集)。第1巻を成す6曲の『パルティータ』(BWV825~830) はバロック鍵盤組曲の総決算というべき作品群であり。第2巻の『フランス序曲』(BWV 831) と『イタリア協奏曲』(BWV 971) は当時の代表的なオーケストラ音楽の形式をクラヴィーア独奏曲として理想化した作品といえる。第4巻が一般に『ゴルトベルク変奏曲』と呼ばれている『アリアと種々の変奏』(BWV 988) で、これは規模においてバッハ最大のクラヴィーア曲であるだけでなく、技法と表現の多様性、また斬新な奏法においても、バッハのクラヴィーア曲の集大成ということができよう。
<b>エディション</b> バッハのクラヴィーア曲のエディションは枚挙にいとまがないが、現在もっとも標準的な原典版は2007年に完結した「新バッハ全集版」 (NBA) で、これに基づいた個別的なクラヴィーア作品の楽譜がベーレンライター社から出つつある(日本版は全音楽譜出版社)。
※バッハ時代の鍵盤楽器について
バッハ自身はオルガンを含む鍵盤楽器の総称として「クラヴィーア」という言葉を用いたが、現在「クラヴィーア」というときには、オルガン以外の鍵盤楽器を指すのが普通である。その意味での「クラヴィーア」にはチェンバロ(=ハープシコード、クラヴサン)とクラヴィコードが含まれる(スピネットとヴァージナルは原理的にチェンバロの亜種である)。両者は形状も構造も演奏効果もまったく別種の楽器だが、バッハ自身は楽譜に楽器を明示しなかったので、作品の音域や様式から推測するしかない。ただし『フランス序曲』(BWV 831)、『イタリア協奏曲』(BWV 971)、『ゴルトベルク変奏曲』(BWV 988) のように、バッハ自身が「2つの手鍵盤」を指定した作品は明らかにチェンバロ用である。バッハはタッチに敏感なクラヴィコードを愛好したが、音量の小さいこの楽器はあくまで学習用・家庭用のもので、アンサンブルや広い場所での演奏には適していない。クラヴィコードはオルガニストの教育と練習にも用いられたので、ペダル鍵盤をもつものもあった。初期のピアノはバッハの生前にもう存在し、バッハもそれらを知っていたことは事実だが、彼がピアノのために書いた作品は確認されていない。
※偽作
バッハのクラヴィーア曲のなかには偽作と判明したものも少なくない。たとえば『アンナ・マクダレーナ・バッハのためのクラヴィーア小曲集第2巻』に含まれる有名なト長調とト短調の『メヌエット』(BWV Anh. 114. 115)も、真の作曲者はドレースデンの宮廷オルガニストを務めたクリスティアン・ペッツォルト (1677~1733) であることが明らかになった (1979年)。
※後世のピアノ用編曲
19世紀のバッハ復活以後、多くの作曲家や演奏家がバッハの作品をさまざまに編曲してきた。ここではピアノ独奏用編曲の代表的なものを挙げておこう。括弧内は編曲者名で、有名な曲には複数の編曲がある。
◆『イエス、人の望みの喜びよ(イエスはいつもわが喜び)』 BWV 147/10 (M.ヘス、W. ケンプフ)
◆前奏曲とフーガ ニ長調 BWV 532 (M. レーガー、E.ダルベール、F.ブゾーニ)
◆前奏曲とフーガ ト長調 BWV 541 (F. リスト、M. レーガー)
◆幻想曲とフーガ ト短調 BWV 542 (F. リスト、M. レーガー)
◆前奏曲とフーガ イ短調 BWV 543 (F. リスト、M. レーガー)
◆前奏曲とフーガ ロ短調 BWV 544 (F. リスト、E. ザウアー)
◆前奏曲とフーガ ハ長調 BWV 545 (F. リスト、E. ザウアー)
◆前奏曲とフーガ ハ短調 BWV 546 (F. リスト、E. ザウアー)
◆前奏曲とフーガ ハ長調 BWV 547 (F. リスト、E. ザウアー)
◆前奏曲とフーガ ホ短調 BWV 548 (F. リスト、E. ザウアー、M. レーガー)
◆前奏曲とフーガ 変ホ長調 BWV 552 (M. レーガー、F. ブゾーニ)
◆小前奏曲とフーガ BWV 553-560 (D. カバレフスキー)
◆トッカータ、アダージョとフーガ ハ長調 BWV 564 (F. ブゾーニ、M.ヘス)
◆トッカータとフーガ ニ短調 BWV 565 (M. レーガー、F. ブゾーニ、C. タウジヒ)
◆前奏曲とフーガ ホ長調 BWV 566 (F. ブゾーニ、M. レーガー)
◆パッサカリア ハ短調 BWV 582 (E. ダルベール、M.レーガー)
◆パストレッラ ヘ長調 BWV 590 (D. リパッティ)
◆コラール前奏曲 多数 (M.レーガー、F. ブゾーニ、W.ケンプフ、M.ヘス)
◆無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第1番のボレア ロ短調 BWV 1002/2, 3 (C. サンサーンス)
◆無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番のシャコンヌ ニ短調 BWV1004/5 (C.ライネッケ、F. ブゾーニ、左手用J. ブラームス)
◆無伴奏ヴァイオリン・パルティータの前奏曲 ホ長調 BWV 1006/1 (S.ラフマニノフ、C. サンサーンス)
その他の器楽曲
リュート曲
[BWV 995~1000, 1006a]
リュートは梨形の胴をもつ6弦の撥弦楽器で、その起源は日本の琵琶と同根である。最盛期は16~17世紀だが、バッハの周辺にもすぐれた演奏家がいた。バッハの数少ないリュート曲も彼らのために書かれたのであろう。それらのうち、『前奏曲、フーガとアレグロ』(BWV 998) と『組曲』(BWV 1006a) の自筆譜は、それぞれ上野学園大学と武蔵野音楽大学が所蔵している。
室内楽
[BWV 1001~1019, 1021~1023, 1025~1035, 1038, 1039]
バロック時代の室内楽はトリオ・ソナタ(3声部ソナタ)と通奏低音つき独奏ソナタが主流だったが、バッハはそのほかに旋律楽器(ヴァイオリンやフルートやヴィオラ・ダ・ガンバ)とクラヴィーア用の2重奏ソナタという新しいジャンルに挑戦した。さらに特筆すべきことは、『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』 (BWV 1001~1006) や『無伴奏チェロのための組曲』 (BWV 1007~1012) という、ほとんど前人未踏のジャンルを開拓したことで、それらは表現の豊かさと卓越した作曲技法によってバッハのもっとも重要な作品に数えられる。いずれもケーテンの宮廷楽長時代に書かれた。
協奏曲
[BWV 1041~1065]
バッハはヴァイマル時代 (1708~1717) にヴィヴァルディやアルビノーニなどイタリアの協奏曲から大きな影響を受け、ケーテンの宮廷楽長時代 (1717~1723) に多数の協奏曲を作曲したが、この時代の作品で現存するのは6曲の『ブランデンブルク協奏曲』(BWV 1046~1051) と3曲のヴァイオリン協奏曲 (BWV 1041~1043) のみである。それらはイタリアの範例に従いながらもバッハらしい対位法的な書法も駆使して、密度の濃い、活力に溢れた作品となっている。通奏低音楽器という従来の役割からクラヴィーアを解放して、アンサンブルにおいてそれをはじめて独奏楽器の位置に高めたのが、『ブランデンブルク協奏曲第5番』 (BWV 1050) である。さらにライプツィヒ時代 (1723~1750) になると、編曲ではあるが、1台から4台までのクラヴィーアとオーケストラのための協奏曲 (BWV 1052~1065) を書いて、古典派以後のピアノ協奏曲の基礎を築いた。
管弦楽組曲
[BWV 1066~1069]
バッハ自身はただ『序曲』(ウヴェルチュール)と名付けた4曲の管弦楽組曲はフランスのバレエ組曲の系統をひくもので、フランスのオペラやバレエで用いられた長大なフランス型序曲のあとにギャラント様式のさまざまな舞曲がつづく。独奏フルートが活躍する第2番 (BWV 1067) が特に有名である。
16. カノン
[BWV 1072~1078, 1086, 1087]
カノンという技法はバッハの作品のいたるところに見られるが、独立した作品は少ない。その多くは知人の記念帳などに記入されたもので、冒頭の主題だけが書かれている。いずれも謎カノンで、次の声部が主題をどこから、何度の音程で模倣するかは自分で判断しなければならない。楽器の指定はなく、演奏のためというよりも知的な音楽パズルというべきものである。そのなかでもっとも重要な作品が『14のカノン』 (BWV 1087) で、『ゴルトベルク変奏曲』(BWV 998) の低音主題(最初の8音)に基づいている。この作品は1976年にフランスのストラスブールで発見され、現在はパリの国立図書館が所蔵している。
特殊な作品
音楽史の流れがバロックから古典派の様式へと転換しつつあった中で、晩年のバッハはその流れに逆らうかのように、あるいは失われかけていたポリフォニーの伝統を保持しようとするかのように、意識的に高度な対位法技法を駆使した作品を書きつづけた。たとえば『ゴルトベルク変奏曲』(BWV 988) 中の9曲のカノン、オルガンのための『カノン変奏曲』(BWV 769)、『ロ短調ミサ曲』(BWV 232) のなかの「クレード」などがそうである。そして対位法技法の総決算というべきものが『音楽の捧げもの』(BWV 1079) と『フーガの技法』(BWV 1080) で、いずれも単一の主題によって対位法書法の多用な可能性を追求している。
『音楽の捧げもの』は3声と6声の「リチェルカーレ」(古風なカノン)、10曲の多様な「カノン」、そして1曲の「トリオ・ソナタ」から成り、トリオ・ソナタ以外には楽器の指定がない。主題は1747年にポツダムの宮殿を訪れた際にフリードリヒ大王から与えられたもので、のちに完成した作品も大王に献呈された。
『フーガの技法』は自筆稿と没後の印刷稿で曲数も曲順も異なるが、10数曲のフーガと種々の難解なカノンから成っている。「2台のクラヴィーア用」と記された1曲を除いて楽器の指定はないが、バッハ自身はクラヴィーアによる演奏を想定していたと思われる。最後のフーガは、おそらく視力の低下によって第239小節で中断され、バッハの「白鳥の歌」となった。全曲がはじめて演奏されたのは作曲者の死後180年近くが過ぎた1927年のことである(オーケストラ用編曲)。
◆1. バッハの生涯◆
アイゼナハ時代 (1685-1695)
ヨーハン・セバスティアン・バッハは1685年、テューリンゲン地方の小邑[しょうゆう]アイゼナハで町楽師の末子として生まれた。バッハ家は200年にわたって50人以上の音楽家を輩出した大家系で、セバスティアン以前の最大のバッハとされるヨーハン・クリストフも、当時アイゼナハでJ. S. バッハが洗礼を受けた教会のオルガニストをしていた。音楽に囲まれて育ったセバスティアンが将来音楽家になることは規定の事実だったともいえよう。
オールドルフ時代 (1695-1700)
9~10歳のとき相次いで両親が没したため、すでに教会オルガニストとして自立していた長兄に引き取られ、近くのオールドルフに移った。ここではすでにアイゼナハで始まっていた学業を続けるとともに、かつて
ヨーハン・パッヘルベルに師事した兄から本格的な音楽教育を受けた。兄からあたえられた教材に満足できず、兄秘蔵の楽譜を持ち出して夜毎秘かに書き写した、という逸話はよく知られている。
リューネブルク時代 (1700~1703)
15歳のバッハは自立の道を選んで北ドイツの町リューネブルクへ移り、ミカエル教会付属学校の給費生となる。聖歌隊で歌うと同時に、 ヨハネ教会のオルガニスト、ゲオルク・ベームに師事し, またハンブルクを訪れて老大家ヨーハン・アーダム・ラインケンのオルガン演奏から大きな刺激を受けた。最初期のオルガン曲はこの時代の作と思われる。この時代にはまた、近隣のツェレ宮廷でフランス音楽にも接した。この時代にバッハが筆写したブクステフーデとラインケンの楽譜が2006年に発見されている。
アルンシュタット時代 (1703~1707)
短期間ヴァイマル宮廷で楽師兼従僕を務めたのち、故郷テューリンゲン地方のアルンシュタットで新教会(現在のバッハ教会)オルガニストに就任。1705年には北ドイツのリューベックを訪れ、マリア教会の大オルガニスト、ディートリヒ・ブクステフーデから大きな刺激を受けた。オルガン曲とクラヴィーア曲のほか、教会カンタータの作曲もこの時代に始まった。
ミュールハウゼン時代 (1707~1708)
同じくテューリンゲン地方のミュールハウゼンでブラジウス教会オルガニストに就任し、主にオルガン曲と『神はわが王』(BWV 71) をはじめとする教会カンタータを作曲。1707年、又従姉のマリア・バルバラと結婚し、やがて7人の子供をもうけた。
ヴァイマル時代 (1708~1717)
ザクセン=ヴァイマル公の宮廷オルガニストとなり、『オルガン小曲集』(BWV 599~644) をはじめ、現存するオルガン曲の大半を作曲したが、その中にはのちのライプツィヒ時代に改訂されたものも少なくない。1714年からは宮廷楽団の楽師長も兼ね、教会カンタータの作曲も職務となった。またヴィヴァルディをはじめとするイタリアの協奏曲を知り、その多くをオルガンやクラヴィーア独奏用に編曲し、そこから決定的な影響を受けた。ケーテン時代に完成された室内楽やクラヴィーア曲のいくつかは、すでにヴァイマルで書き始められた可能性もある。のちのドレースデンやハレの教会でオルガニストを務めた長男ヴィルヘルム・フリーデマン (1710~1784)、フリードリヒ大王のチェンバロ奏者やハンブルク市の音楽監督となる次男カール・フィーリプ・エマーヌエル (1714~1786) が生まれたのもこの時代であった。
ケーテン時代 (1717~1723)
アンハルト=ケーテン候の宮廷楽長時代で、職務として『ブランデンブルク』(BWV 1046~1051) をはじめとする多数の協奏曲、『無伴奏のヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』(BWV 1001~1006) 曲と『無伴奏チェロのための組曲』(BWV 1007~1012) をはじめとするさまざまな室内楽を作曲した。また主に弟子の教育や家庭での演奏を目的として2声と3声の『インヴェンション』(BWV772~801)、『平均律クラヴィーア曲集第1巻』(BWV 846~869)、『イギリス組曲』(BWV806~811)、『フランス組曲』(BWV812~817) など、クラヴィーア作品が集中的に書かれた。最初の妻と死別して1721年に再婚し、新妻に『アンナ・マクダレーナ・バッハのためのクラヴィーア小曲集』2巻を贈った。やがて2人のあいだからは、モーツァルトに大きな影響をあたえた末子ヨーハン・クリスティアン (1735~1782) を含む13人の子供が生まれる。 ヴァイマル時代をバッハのオルガン曲の時代とすれば、ケーテンでの7年間は世俗器楽曲の時代と呼ぶことができよう。
ライプツィヒ時代 (1723~1750)
ザクセン地方の大都市ライプツィヒでトーマス教会カントルという要職に就任し、現存するものだけでも約160曲の教会カンタータ、『マタイ』(BWV 244) と『ヨハネ』(BWV 245) などの受難曲や『クリスマス・オラトリオ』(BWV 248) など、教会声楽曲の作曲と演奏が活動の中心となった。またのちには大学生の演奏団体コレーギウム・ムージクムの指揮も引き受けて、『コーヒー・カンタータ』(BWV 211) などの世俗カンタータ、室内楽やクラヴィーア協奏曲 (BWV 1052~1965) などの器楽も数多く作曲した。この時代にはまた自作品の出版にも意欲を見せ、 4巻の『クラヴィーア練習曲集』を出した。その中には6曲の『パルティータ』(BWV 825~830)、『イタリア協奏曲』(BWV 971)、『ゴルトベルク変奏曲』(BWV 988) などが含まれている。死の前年に『ロ短調ミサ曲』(BWV 232)を完成後、最後は視力を失い、手術の後遺症も災いして、『フーガの技法』(BWV 1080)を完成することなく65歳で他界した。1750年7月28日、午後8時15分であった。
◆2. 作品の概要◆
BWV番号
広く使われているBWV番号は、1950年に初めて出版されたW. シュミーダーの『バッハ作品目録』(BWV 1080まで) によるもので、現在は1990年の改訂第2版 (BWV 1120まで) と1998年の第2版簡略版 (BWV 1126まで) が用いられている。その後、2005年と2008年に発見された2曲を加えて、2008年12月現在、BWV 1128までの番号が付けられている。ただしこの中には偽作と判定されたものも約60曲ある。 BWV番号はジャンル別の整理番号で、作曲年代とは関係がない。
声楽曲
教会カンタータ
[BWV 1~52, 54~117, 119~140, 143~159, 161~188, 190~200]
教会カンタータは日曜日その他の祝祭日に礼拝の一環として演奏された音楽だが、少数ながら、教会で行なわれた結婚式や葬式用の作品などもある。オーケストラの序曲、合唱、独唱、重唱という編成が大部分だが、なかには終曲の4声コラール以外はすべて独唱または重唱という曲もあって、それらは「独唱カンタータ」と呼ばれる。またコラール(ルター派の賛美歌)の歌詞を中心とするタイプを特に「コラール・カンタータ」という。バッハが教会カンタータを集中的に書いたのはライプツィヒのトーマスカントル時代で、第1番『暁の星はなんと美しいことか』、第80番『われらの神はかたい砦』、第140番『目覚めよと呼ぶ声がする』、初期の第106番『神の時は最良の時』などが特に有名である。(慣用のカンタータ番号はBWV番号と一致する。)
世俗カンタータ
[BWV 30a, 36c, 134a, 198, 201~216]
音楽のスタイルは教会カンタータと大差ないが、誕生日の祝賀や貴人への表敬など特別な機会のために作曲され、多くはライプツィヒ時代に学生の演奏団体コレーギウム・ムージクムによって演奏された。 『狩りのカンタータ』(BWV 208)、『結婚カンタータ』(BWV 202)、『コーヒー・カンタータ』(BWV 211) 、『農民カンタータ』(BWV 212) などが有名である。
モテット
[BWV 118, 225~230, 1083, Anh. 159]
モテットは長い歴史をもつジャンルだが、バッハの時代になると新たに作曲されることは少なくなった。バッハの少数のモテットも葬式など特別な機会に作られたものである。対位法の技巧をこらした合唱が中心で、高度な演奏能力が要求されるため、バッハの死後も聖歌隊の訓練用に使われ続けた。『主に向かって歌え、新しい歌を』(BWV 225) や『イエス、わが喜び』(BWV 227) が特によく知られている。
ミサ曲 | ミサ楽章 |マニフィカト
ミサ曲 [BWV 232~236]
ミサ楽章 [BWV 237~242, 1081]
マニフィカト [BWV 243]
バッハの声楽曲の歌詞は大部分がドイツ語だが、ミサ曲とマニフィカトだけは古来の伝統に従ってラテン語で書かれている。バッハが属していたルター派の教会で用いられてミサ曲はミサ通常文の最初の2章、つまり「キリエ」と「グローリア」だけから成っていた (BWV 233~236)。死の前年に完成された『ロ短調ミサ曲』 (BWV 232) だけが通常文の全章を用いている。これは『マタイ受難曲』と並んでバッハ最高の教会音楽だが、生前に演奏されたことはないし、その用途もいまだ明らかでない。
『マニフィカト』(BWV 243) の歌詞はルカ福音書にある聖母マリアの賛歌で、5声部の合唱と独唱、重唱、オーケストラから成り、洗練された書法が特徴である。
受難曲
[BWV 244, 245]
受難曲は新約聖書の4つの福音書にあるイエス・キリストの受難物語に基づいた教会音楽で、復活祭直前の受難週間(聖週間)に演奏された。バッハの受難曲はオラトリオ型受難曲と呼ばれるタイプで、歌詞は聖書の言葉を中心とし、それに自由詩とコラールが加わる。聖書の言葉を朗唱する福音朗読者(エヴァンゲリスト)のレチタティーヴォを中心として、それに大小の合唱と4声コラール、独唱、重唱とオーケストラが加わる。現存するバッハの受難曲はいずれもライプツィヒで書かれた『マタイ』(BWV 244) と『ヨハネ』(BWV 245) の2曲だけで、『マルコ』(BWV 247) は歌詞のみが現存し、音楽は消失した。旧バッハ全集 (BGA) にある『ルカ受難曲』(BWV 246) は明らかに偽作だが、その一部をバッハが編曲した自筆譜 (BWV 246/40a) が1966年に日本で発見された (前田育徳会所蔵)。
オラトリオ
[BWV 11, 248, 249]
バッハのオラトリオは教会歴の特別の日の礼拝で演奏されたもので、『クリスマス・オラトリオ』(BWV 248) は『マタイ』と『ヨハネ』の両受難曲および『ロ短調ミサ曲』(BWV 232) とともにバッハの4大教会音楽に数えられる。6部から成る大曲だが、各部が独立したカンタータという形態をもち、元来はクリスマスとそれにつづく時期に1部ずつ演奏された。ほかにいっそう小規模な『昇天祭オラトリオ』(BWV 11) と『復活祭オラトリオ』(BWV 249) がある。
4声コラール, 歌曲とアリア
4声コラール [BWV 250~507, 1084, 1089, 1122~1127]
歌曲とアリア [BWV 508~523]
コラールとはルター派の賛美歌で、旋律自体は古くから教会で歌い継がれてきたものだが、バッハのコラールというときには、彼がそれらに和声を付けたものを指している。そのような4声コラールをバッハは教会カンタータや受難曲などの中で数多く用いたが、ここで挙げたものはそれ以外の曲である。コラールの歌詞は複数の詩節から成る有節詩なので、同じ旋律でも題名が違っているものも多い。その詩節の内容にしたがって工夫された和声の豊かさはまさに驚異的で、しばしば和声法の教材としても用いられている。
歌曲とアリアの大半は妻に贈った『アンナ・マクダレーナ・バッハのためのクラヴィーア小曲集』に記入された小品だが、2005年にヴァイマルで発見された有節アリア『すべてを神とともに』(BWV 1127) は、これまで知られていなかったタイプの作品として注目に値する。
オルガン曲
[BWV 525~552, 561~566, 568~575, 577~579, 582, 583, 585~596, 598~691, 694~745, 747, 749~758, 762~770, 957, 1085, 1090~1121, 1128]
バロック時代のドイツはまだ後進国で、その音楽もイタリアとフランスの影響から出発した。しかしオルガン音楽だけは例外で、すでにバッハ以前から他国にまさる豊かな伝統を誇っていた。当時最大のオルガニストと評されたバッハも、ハンブルクのヨーハン・アーダム・ラインケン (1623~1722)、リューベックのディートリヒ・ブクステフーデ (ca.1637~1707)、エアフルト/ニュルンベルクのヨーハン・パッヘルベル (1653~1706)、リューネブルクのゲオルク・ベーム (1661~1733) など、偉大な先人の作品を学ぶことから出発し、やがてイタリア音楽の要素も吸収して独自のスタイルを確立していった。
バッハのオルガン作品はコラールに基づく「オルガン・コラール」と、コラールと関係のない「自由オルガン曲」に大別される。前者にはコラール前奏曲、コラール幻想曲、コラール・パルティータ(変奏曲)などのタイプがあり、『オルガン小曲集』(BWV 599~644)、『シューブラー・コラール集』(BWV 645~650)、『18のコラール集』(BWV 651~668)、晩年の『カノン変奏曲』(BWV 769) などが含まれる。1984年にアメリカで発見された『ノイマイスター・コラール集』(BWV 1090~1120。BWV 1096は偽作)、2008年春にハレで発見された『コラール幻想曲』 (BWV 1128) も、ごく初期のオルガン・コラールである。
「自由オルガン曲」の中で最も多いのが「前奏曲(幻想曲、トッカータ)とフーガ」というタイプで、『トッカータ、アダージョとフーガ ハ長調』(BWV 564)、「ドリア調の」『前奏曲とフーガ』(BWV 538)など、ヴィルトゥオーソとしてのバッハを偲ばせる作品群である。最も名高いニ短調の『トッカータとフーガ』(BWV 565) には偽作説もある。単独の前奏曲やフーガも多く、『ト短調の小フーガ』(BWV 578) は特に有名。ハ短調の『パッサカリア』(BWV 582) も初期の傑作である。6曲の『オルガン・ソナタ』(BWV 525~530) は室内楽のトリオ・ソナタの形式を用いたもので、オルガニストの教育に欠かせない教材となっている。
クラヴィーア曲
[BWV 772~823, 825~833, 836, 837, 841~844, 846~919, 921~944, 946~956, 958, 959, 961, 963~994]
バッハはごく初期から晩年までクラヴィーア曲を書きつづけ、当時のあらゆるタイプの形式に挑戦して、その後のピアノ音楽の出発点を築いた。また没後のバッハ受容史においても、『平均律クラヴィーア曲集』を中心として、クラヴィーア曲が最も重要な位置を占めることになる。
初期の作品は正確な作曲年代を知ることが困難だが、フーガ部分が組み込まれている7曲の『トッカータ』(BWV 910~916)、バッハには珍しく各楽章に標題的な説明をもつ『最愛の兄の旅立ちに寄せるカプリッチョ』 (BWV 992)、『アリアと変奏』 (BWV 989) などが含まれる。
ヴァイマル時代 (1708~1714) にはヴィヴァルディやアレッサンドロ・マルチェッロ、ジュゼッペ・トレッリなどの協奏曲をクラヴィーア独奏用に編曲し (BWV 972~987)、その様式を吸収してその後の創作のために新しい基盤を築いた。
バッハのクラヴィーア曲が集中的に書かれたのが次のケーテン時代 (1717~1723) で、主として弟子たちの教育を目的に2声と3声の『インヴェンション』(BWV 772~801)、 24の長調と短調を用いて音楽の新しい地平を拓いた『平均律クラヴィーア曲集第1巻』(BWV 846~869)、フランス・クラヴサン音楽のスタイルを消化し発展させた『イギリス組曲』(BWV 806~811) と『フランス組曲』(BWV 812~817) が生まれた。大胆な和声と名技的な表現で知られる『半音階的幻想曲とフーガ』(BWV 903) も、初稿は明らかにこの時代のものである。
ライプツィヒ時代 (1723~1750) には『平均律クラヴィーア曲集第2巻』(BWV 870~893) がまとめられただけでなく、4巻から成る『クラヴィーア練習曲集』を「愛好家の楽しみのために」出版した(第3巻はオルガン曲集)。第1巻を成す6曲の『パルティータ』(BWV825~830) はバロック鍵盤組曲の総決算というべき作品群であり。第2巻の『フランス序曲』(BWV 831) と『イタリア協奏曲』(BWV 971) は当時の代表的なオーケストラ音楽の形式をクラヴィーア独奏曲として理想化した作品といえる。第4巻が一般に『ゴルトベルク変奏曲』と呼ばれている『アリアと種々の変奏』(BWV 988) で、これは規模においてバッハ最大のクラヴィーア曲であるだけでなく、技法と表現の多様性、また斬新な奏法においても、バッハのクラヴィーア曲の集大成ということができよう。
<b>エディション</b> バッハのクラヴィーア曲のエディションは枚挙にいとまがないが、現在もっとも標準的な原典版は2007年に完結した「新バッハ全集版」 (NBA) で、これに基づいた個別的なクラヴィーア作品の楽譜がベーレンライター社から出つつある(日本版は全音楽譜出版社)。
※バッハ時代の鍵盤楽器について
バッハ自身はオルガンを含む鍵盤楽器の総称として「クラヴィーア」という言葉を用いたが、現在「クラヴィーア」というときには、オルガン以外の鍵盤楽器を指すのが普通である。その意味での「クラヴィーア」にはチェンバロ(=ハープシコード、クラヴサン)とクラヴィコードが含まれる(スピネットとヴァージナルは原理的にチェンバロの亜種である)。両者は形状も構造も演奏効果もまったく別種の楽器だが、バッハ自身は楽譜に楽器を明示しなかったので、作品の音域や様式から推測するしかない。ただし『フランス序曲』(BWV 831)、『イタリア協奏曲』(BWV 971)、『ゴルトベルク変奏曲』(BWV 988) のように、バッハ自身が「2つの手鍵盤」を指定した作品は明らかにチェンバロ用である。バッハはタッチに敏感なクラヴィコードを愛好したが、音量の小さいこの楽器はあくまで学習用・家庭用のもので、アンサンブルや広い場所での演奏には適していない。クラヴィコードはオルガニストの教育と練習にも用いられたので、ペダル鍵盤をもつものもあった。初期のピアノはバッハの生前にもう存在し、バッハもそれらを知っていたことは事実だが、彼がピアノのために書いた作品は確認されていない。
※偽作
バッハのクラヴィーア曲のなかには偽作と判明したものも少なくない。たとえば『アンナ・マクダレーナ・バッハのためのクラヴィーア小曲集第2巻』に含まれる有名なト長調とト短調の『メヌエット』(BWV Anh. 114. 115)も、真の作曲者はドレースデンの宮廷オルガニストを務めたクリスティアン・ペッツォルト (1677~1733) であることが明らかになった (1979年)。
※後世のピアノ用編曲
19世紀のバッハ復活以後、多くの作曲家や演奏家がバッハの作品をさまざまに編曲してきた。ここではピアノ独奏用編曲の代表的なものを挙げておこう。括弧内は編曲者名で、有名な曲には複数の編曲がある。
◆『イエス、人の望みの喜びよ(イエスはいつもわが喜び)』 BWV 147/10 (M.ヘス、W. ケンプフ)
◆前奏曲とフーガ ニ長調 BWV 532 (M. レーガー、E.ダルベール、F.ブゾーニ)
◆前奏曲とフーガ ト長調 BWV 541 (F. リスト、M. レーガー)
◆幻想曲とフーガ ト短調 BWV 542 (F. リスト、M. レーガー)
◆前奏曲とフーガ イ短調 BWV 543 (F. リスト、M. レーガー)
◆前奏曲とフーガ ロ短調 BWV 544 (F. リスト、E. ザウアー)
◆前奏曲とフーガ ハ長調 BWV 545 (F. リスト、E. ザウアー)
◆前奏曲とフーガ ハ短調 BWV 546 (F. リスト、E. ザウアー)
◆前奏曲とフーガ ハ長調 BWV 547 (F. リスト、E. ザウアー)
◆前奏曲とフーガ ホ短調 BWV 548 (F. リスト、E. ザウアー、M. レーガー)
◆前奏曲とフーガ 変ホ長調 BWV 552 (M. レーガー、F. ブゾーニ)
◆小前奏曲とフーガ BWV 553-560 (D. カバレフスキー)
◆トッカータ、アダージョとフーガ ハ長調 BWV 564 (F. ブゾーニ、M.ヘス)
◆トッカータとフーガ ニ短調 BWV 565 (M. レーガー、F. ブゾーニ、C. タウジヒ)
◆前奏曲とフーガ ホ長調 BWV 566 (F. ブゾーニ、M. レーガー)
◆パッサカリア ハ短調 BWV 582 (E. ダルベール、M.レーガー)
◆パストレッラ ヘ長調 BWV 590 (D. リパッティ)
◆コラール前奏曲 多数 (M.レーガー、F. ブゾーニ、W.ケンプフ、M.ヘス)
◆無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第1番のボレア ロ短調 BWV 1002/2, 3 (C. サンサーンス)
◆無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番のシャコンヌ ニ短調 BWV1004/5 (C.ライネッケ、F. ブゾーニ、左手用J. ブラームス)
◆無伴奏ヴァイオリン・パルティータの前奏曲 ホ長調 BWV 1006/1 (S.ラフマニノフ、C. サンサーンス)
その他の器楽曲
リュート曲
[BWV 995~1000, 1006a]
リュートは梨形の胴をもつ6弦の撥弦楽器で、その起源は日本の琵琶と同根である。最盛期は16~17世紀だが、バッハの周辺にもすぐれた演奏家がいた。バッハの数少ないリュート曲も彼らのために書かれたのであろう。それらのうち、『前奏曲、フーガとアレグロ』(BWV 998) と『組曲』(BWV 1006a) の自筆譜は、それぞれ上野学園大学と武蔵野音楽大学が所蔵している。
室内楽
[BWV 1001~1019, 1021~1023, 1025~1035, 1038, 1039]
バロック時代の室内楽はトリオ・ソナタ(3声部ソナタ)と通奏低音つき独奏ソナタが主流だったが、バッハはそのほかに旋律楽器(ヴァイオリンやフルートやヴィオラ・ダ・ガンバ)とクラヴィーア用の2重奏ソナタという新しいジャンルに挑戦した。さらに特筆すべきことは、『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』 (BWV 1001~1006) や『無伴奏チェロのための組曲』 (BWV 1007~1012) という、ほとんど前人未踏のジャンルを開拓したことで、それらは表現の豊かさと卓越した作曲技法によってバッハのもっとも重要な作品に数えられる。いずれもケーテンの宮廷楽長時代に書かれた。
協奏曲
[BWV 1041~1065]
バッハはヴァイマル時代 (1708~1717) にヴィヴァルディやアルビノーニなどイタリアの協奏曲から大きな影響を受け、ケーテンの宮廷楽長時代 (1717~1723) に多数の協奏曲を作曲したが、この時代の作品で現存するのは6曲の『ブランデンブルク協奏曲』(BWV 1046~1051) と3曲のヴァイオリン協奏曲 (BWV 1041~1043) のみである。それらはイタリアの範例に従いながらもバッハらしい対位法的な書法も駆使して、密度の濃い、活力に溢れた作品となっている。通奏低音楽器という従来の役割からクラヴィーアを解放して、アンサンブルにおいてそれをはじめて独奏楽器の位置に高めたのが、『ブランデンブルク協奏曲第5番』 (BWV 1050) である。さらにライプツィヒ時代 (1723~1750) になると、編曲ではあるが、1台から4台までのクラヴィーアとオーケストラのための協奏曲 (BWV 1052~1065) を書いて、古典派以後のピアノ協奏曲の基礎を築いた。
管弦楽組曲
[BWV 1066~1069]
バッハ自身はただ『序曲』(ウヴェルチュール)と名付けた4曲の管弦楽組曲はフランスのバレエ組曲の系統をひくもので、フランスのオペラやバレエで用いられた長大なフランス型序曲のあとにギャラント様式のさまざまな舞曲がつづく。独奏フルートが活躍する第2番 (BWV 1067) が特に有名である。
16. カノン
[BWV 1072~1078, 1086, 1087]
カノンという技法はバッハの作品のいたるところに見られるが、独立した作品は少ない。その多くは知人の記念帳などに記入されたもので、冒頭の主題だけが書かれている。いずれも謎カノンで、次の声部が主題をどこから、何度の音程で模倣するかは自分で判断しなければならない。楽器の指定はなく、演奏のためというよりも知的な音楽パズルというべきものである。そのなかでもっとも重要な作品が『14のカノン』 (BWV 1087) で、『ゴルトベルク変奏曲』(BWV 998) の低音主題(最初の8音)に基づいている。この作品は1976年にフランスのストラスブールで発見され、現在はパリの国立図書館が所蔵している。
特殊な作品
音楽史の流れがバロックから古典派の様式へと転換しつつあった中で、晩年のバッハはその流れに逆らうかのように、あるいは失われかけていたポリフォニーの伝統を保持しようとするかのように、意識的に高度な対位法技法を駆使した作品を書きつづけた。たとえば『ゴルトベルク変奏曲』(BWV 988) 中の9曲のカノン、オルガンのための『カノン変奏曲』(BWV 769)、『ロ短調ミサ曲』(BWV 232) のなかの「クレード」などがそうである。そして対位法技法の総決算というべきものが『音楽の捧げもの』(BWV 1079) と『フーガの技法』(BWV 1080) で、いずれも単一の主題によって対位法書法の多用な可能性を追求している。
『音楽の捧げもの』は3声と6声の「リチェルカーレ」(古風なカノン)、10曲の多様な「カノン」、そして1曲の「トリオ・ソナタ」から成り、トリオ・ソナタ以外には楽器の指定がない。主題は1747年にポツダムの宮殿を訪れた際にフリードリヒ大王から与えられたもので、のちに完成した作品も大王に献呈された。
『フーガの技法』は自筆稿と没後の印刷稿で曲数も曲順も異なるが、10数曲のフーガと種々の難解なカノンから成っている。「2台のクラヴィーア用」と記された1曲を除いて楽器の指定はないが、バッハ自身はクラヴィーアによる演奏を想定していたと思われる。最後のフーガは、おそらく視力の低下によって第239小節で中断され、バッハの「白鳥の歌」となった。全曲がはじめて演奏されたのは作曲者の死後180年近くが過ぎた1927年のことである(オーケストラ用編曲)。