19世紀の出版譜(ライプツィヒのペータース社によるバッハ鍵盤作品全集、グリーペンケルル校訂、1847年刊)より古い資料がいっさい失われているため、真贋が疑われる作品。初版となった校訂譜は、フォルケル所蔵の手稿譜に基づいて作られた。
資料状況からバッハの真作であることを証明するのはきわめて困難である。が、様式や書法が単純である、ということは偽作の決定的な証拠にはならない。「フーガ」というタイトルをはずしてみれば、《カプリッチョ》BWV993などと構造上の類似点が見出せるからである。また、八分音符の連打で上行する主題はオルガン用の《幻想曲》BWV571ときわめてよく似ており、曲の後半で平進行や伴奏風の和音が多用されるところも、共通している。
この曲には対比的な3種の動機が見出せる。主題の始まりを確実に知らせる八分音符の同音連打、回音を連ねて徐々に上行・下行する十六分音符、そしてダイナミックな分散和音である。分散和音は曲の終盤にようやく現れる。すると、それまで足踏みしながら少しずつ進んできた音楽が一挙に広がりを持って流れ出す。やがて伴奏も、それまでの楔のトゲのような前打音を吸収して、滑らかな四分音符の連結に昇華される。(このとき特に現代のピアノでは、和音が鋭く、あるいは重くならないよう注意しなければならない。)
フーガとしてみればこのような構成はあまりに単純に過ぎるのだが、闊達なリズムをよく生かした簡潔で愛らしい作品である。