「メラー手稿譜」に伝えられる。「メラー手稿譜」の通称は、表紙に所有者メラーの名が記されていることに由来するが、幼少のバッハを引き取ったオールドルーフのオルガニスト、ヨハン・クリストフがその大部分を作成した。北ドイツのみならず、イタリア、フランスの作品が断片を含めて54曲収められている。その中にヨハン・ゼバスティアン・バッハの作品が12曲、バッハ自身が書きつけた部分も含まれ、バッハの筆跡を知る上でも貴重な資料である。(なお、これと同時期ほとんど同様の成り立ちをしたものに、「アンドレーアス・バッハ本」がある。この2冊は直系の弟子から弟子へと引き継がれていった。)
〈フーガ〉イ短調BWV949は、一部の文献で今も疑作とされているが、メラー手稿譜にははっきりとヨハン・ゼバスティアン・バッハの名が冠されている。典型的な初期のスタイルで、すなわち主題提示を行わない自由な展開部分(エピソード)がほとんどなく、曲の終わりは主題とあまり関連のない走句によって締めくくられる。しかし、対位法技法に関しては意欲的で、主題の素材から作られた対位主題が2つ用意されている。対位主題の使用は、バッハの創作史においてこの曲がほぼ初の試みである。主題はひじょうによく際立つ同音連打で始まり、刺繍音(例えば第2小節の最初の16分音符の h 音や第2拍の cis 音のように、凹型ないし凸型に音を飾る非和声音)を伴う動機で緩やかに5度上行する。この刺繍音の動機はいたるところに散りばめられ、全曲を通じてつねにどこかでこの音型が聴こえている、といっても過言ではない。その所為でいささか単調になっているのは否定できない。が、主題の導入は音域やテクスチュアを工夫していつも周到に準備される。とりわけ、コーダの直前のバスにおける提示(第74小節)は劇的ですらある。コーダ部分には「ペダル」と記された低音があり、第80小節の dis 音に関しては移高ないしソステヌート・ペダルが必要だが、最終4小節は両手のみで演奏可能である。全体が明澄で、演奏効果の高い作品といえる。