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バッハ:半音階的幻想曲とフーガニ短調

Bach, Johann Sebastian:Chromatische Fantasie und Fuge d-moll BWV 903

作品概要

作曲年:1720年 
出版年:1802年 
初出版社:Hoffmeister & Kühnel
楽器編成:ピアノ独奏曲 
ジャンル:フーガ
総演奏時間:12分00秒

解説 (1)

執筆者 : 朝山 奈津子 (1057文字)

更新日:2007年6月22日
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作品の成立時期は現在でもよく判っていない。自筆譜も失われている。が、バッハ自身がレッスンの必修教材として用い、多くの弟子たちが筆写したこと、息子フリーデマンが後年も好んで演奏したことなどから、きわめて多様な資料が残された。これらはタイトルやフーガの有無だけでなく、特に幻想曲の前半のアルペジオにこまかな違いがある。19世紀前半すでに出版においてさかんに取り上げられるようになり、1819年にはフリーデマンの筆写譜に残る強弱やアーティキュレーション、装飾を含んだ稿が刊行された。(後年ビショフは、資料批判を経た上で、この稿を異稿として収載した。フリーデマン自身が施したものであるかどうかは装飾の様式からみると疑わしい。)異稿がきわめて多いことに加え、19世紀中葉にはハンス・フォン・ビューローなど音楽家が改変を加えた校訂譜を出し、資料状況は錯綜した。旧バッハ全集でさえ出所不明の強弱記号やスラーを残したまま出された。その後、ダーデルゼン校訂により G.ヘンレ社から出された「原典版」がもっとも信頼性のある楽譜として長らく用いられたが、新バッハ全集がようやく1999年にこの作品を収載した(V/9.2)。

筆写譜の異稿やさまざまの実用版の存在は、作品がつねに実践の中で伝承されたことを意味する。幻想曲の即興的パッセージに鑑みれば、数多くの異稿が生まれるのも不思議はないように思われる。だが、半音階のいっけん恣意的な走句や細かな音型のめまぐるしい変奏といった表層部から一歩踏み込んで、和声進行と調展開に目を移してみれば、楽曲構成におけるバッハの計算の緻密さに驚かされる。不協和音、偽終止、変終止、異名同音転換を駆使し、シャープ系、フラット系、時に長調の片鱗すら覗く多様な調がきわめて自然に隣り合い、結び合わされている。バッハが弟子に教材としてこれを与えたのは、作曲の規範たりうる高い完成度を持っていたからである。

ベートーヴェンはこの曲をよく研究したという。古典派を完成しロマン派を先駆したこの巨匠は、《半音階的幻想曲》のなかに厳格な形式と主観性の表現の高度な融合をみたのだろう。《幻想曲》にフーガが続くことも、二つの相反するものの対置と止揚として作用する。もっとも、いっけん冷静に開始するフーガは、加速度的に荘重さを増し、最後は幅広い音域で堂々と主題を提示し、半音階で鍵盤を駆け上がって終止する。即興的な《幻想曲》で表現された苦悩や絶望は、《フーガ》という厳格な書法に引き継がれていっそう高められ、濃縮されるようにみえる。

執筆者: 朝山 奈津子

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