1.ベートーヴェンの生涯
1-1.ボン時代(1770 - 1792)
1770年にドイツのボンに生まれる(12月17日に受洗)。同名の祖父ルートヴィヒは、ボンに居城を構えていたケルン選帝侯の宮廷楽長を務めており、父ヨハンも同宮廷のテノール歌手だった。ヨハンは、1767年に結婚したマリア・マクダレーナ・ケーヴェリヒとの間に7子をもうけたが、無事に成人を迎えることができた3人のうちで最も年長だった第2子が作曲家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンである。残りの二人は、カスパル・カール(1774-1815)とニコラウス・ヨハン(1776-1848)で、いずれものちに兄のいたヴィーンへ移住した。
幼少時より父から音楽の手ほどきを受け、すでに7歳でクラヴィーア奏者として公開演奏会を開いた。やがて1779年にボンに移住してきたクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事するようになり、師が宮廷オルガニストに着任すると、助奏者に引き立てられた。1782年には、最初の出版作品である鍵盤楽器のための《ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲》WoO 63が出版されている。ネーフェが寄稿した1783年の雑誌記事では、ベートーヴェンは「最も将来を嘱望される才能の持ち主である」と紹介され、順調に才能が伸びてゆけば「第2のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトとなることは間違いない」という最高の賛辞を得ている。この記事では、ベートーヴェンがJ.S. バッハの《平均律クラヴィーア曲集》の手ほどきを受けていたことも明らかにされている。同じ頃、初期の重要作品とされる3つのピアノ・ソナタWoO 47も出版された。
1787年春、ベートーヴェンはヴィーンへ旅する機会を得たが、母の病状が悪化したためにボンに引き返すこととなり、ヴィーンには2週間と滞在することはできなかった。この時のモーツァルトとの接点については、具体的な証拠に乏しいが、少なくともモーツァルトの演奏には接したものと考えられている。同年7月の母の死を境に、ベートーヴェンは、酒浸りだった父に代わって、若くして一家の大黒柱の役割を担うことになった。しかし、家庭内での重責の一方で、ボン時代の最後の4年間は音楽的に充実しており、鍵盤奏者としてばかりでなく、ヴィオラ奏者としても宮廷礼拝堂や劇場オーケストラで経験を積んだ。こうした活動によって優れた演奏家たちと親交を深めたほか、進歩的な貴族たちとの交友関係や読書サークルへの参加などを通じて、啓蒙的な思想とフランス革命への共感をも育んでいった。2つのカンタータ《皇帝ヨーゼフ2世の死を悼むカンタータ》WoO 87、《皇帝レーオポルト2世の即位を祝うカンタータ》が作曲されたのも、こうした時期のことである。
1-2.ヴィーン時代初期(1793 - 1802)
2度目のヴィーン行きのきっかけとなったのは、第1回目のロンドン旅行からの帰路にあったJ.ハイドンが1792年7月にボンに立ち寄ったことだった。上記のカンタータのいずれかに接したハイドンは、それを高く評価し、弟子としての受け入れを承諾した。早くも出発は同年11月初旬に設定され、同月の第2週には第2の故郷となるヴィーンに到着した。ベートーヴェンは、その後ナポレオン軍に占領されることとなった故郷ボンに、ふたたび帰ることはなかった。
ヴィーンでの学習の中心となったのは作曲技術の基礎を成す対位法だったが、ベートーヴェンはハイドンの指導に飽きたらず、並行してヨハン・シェンクの指導を受けたり、ハイドンが第2回目のロンドン旅行に旅立ったあとには、ヴィーンで最も有名な対位法の大家であった聖シュテファン大聖堂楽長ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーに師事したりした。のちには帝室楽長アントーニオ・サリエーリからイタリア様式の声楽の作曲法も学んでいる。
ベートーヴェンを送り出したボンの選帝侯マクシミリアン・フランツがマリア・テレジアの末子であり、ときの神聖ローマ皇帝フランツ二世の叔父にあたることからも容易に想像がつく通り、ベートーヴェンはヴィーン到着当初から貴族の間で知られており、音楽への愛着がことさらに強いヴィーンの貴族サークルとの関係もすぐに築くことができた。ボンからの俸給は1794年3月に打ち切られたが、ヴィーン時代最初期から最晩年に至るまで、ベートーヴェンは多くの貴族の後援を受け、生涯の大半を固定された職務を持たない自由な芸術家として生きることのできた最初の大作曲家となった。しかし、経済的な援助が不可欠でありながら、精神的には完全な自立を渇望していたため、ベートーヴェンの貴族に対する態度・心境は絶えず矛盾を孕んでいた。
ピアニストとしてのベートーヴェンは、とりわけ即興演奏に卓抜な才能を見せ、貴族のサロンで瞬く間に名声を広めていった。1795年3月29日には、ブルク劇場における慈善演奏会で公式にデビューを飾り、同年に3つのピアノ三重奏曲によって記念すべき「Op. 1」を世に問うて、ピアニストとしても作曲家としても注目を集めるところとなった。翌年2月、この作品の献呈を受けたリヒノフスキー侯爵は、7年前のモーツァルトにしたのと同じように、ベートーヴェンと連れだってプラハに向かった。その後作曲家は、一人でドレスデン、ライプツィヒ、ベルリンを歴訪し、初めての本格的な演奏旅行を成し遂げると同時に、各地で優れた演奏家たちと知り合う機会に恵まれた。同年3月に出版されたOp.2は、3曲のピアノ・ソナタ(1番、第2番、第3番)からなり、師ハイドンに献呈された。
聴覚障害の兆候は1798年頃に現れたと考えられているが、そのことによる絶望が昂じて1802年10月に「ハイリゲンシュタットの遺書」が起草された。ベートーヴェンは、この手紙を没するまで保管していたが、おそらく誰の目にもさらしたことはなかったと考えられる。「遺書」とは呼ばれるものの、その内容は、聴覚障害とそれにまつわる苦悩とを告白し、自殺の衝動に打ち勝って芸術家としての運命をまっとうする決意を表明したものと解釈されるのが一般的である。
1-3.ヴィーン時代中期(1803 - 1812)
「ハイリゲンシュタットの遺書」に象徴される危機の頃、創作力に衰えの徴候が見られないことは、この文書の解釈に際しての重要な要素となるだろうし、生涯と作品との関係を考える上でも興味深い視座を提供している。「ハイリゲンシュタットの遺書」の直後の1802年10月18日に出版社に書き送った書簡の中ではOp. 34、35の2つの変奏曲に関して「本当に全く新しい手法で、またそれぞれが違ったやり方で仕上げられている」ことが主張されている。同じ頃に「私はこれまでの自分の仕事にあまり満足していません。今後は新しい道を歩むつもりです」と述べたことも、Op. 31の3つのピアノ・ソナタ(第16番、第17番、第18番)との関連性を示唆するような形で伝えられている。これらの言葉の意味をどのように解釈するか、また具体的な楽曲の特徴との関連性をどのように読み解くか等には議論の余地もあろう。しかし、ここで挙げたような作品に新しい手法が見られるのは確かであり、ベートーヴェンがそれを自覚的に行い、他者にも言葉で伝えたということを疑う理由はない。危機の時代は、同時に大きな転換点ともなり、その中でピアノ独奏作品が少なからず牽引車の役割を果たしたと考えられる。これ以後、さらに旺盛な創作力が発揮されてゆく。
この時期の革新的な様式は、その代表格ともいえる交響曲第3番《英雄》に因んで、しばしば「英雄的様式」と呼ばれる。主題の断片化と動機の徹底的な労作によって、ソナタ形式をはじめとする形式の拡大が行われ、フィナーレへの志向性をもった統一感のある大規模な作品が次々に生み出された。交響曲第3-6番、ピアノ協奏曲第3-5番、ヴァイオリン協奏曲、ゲーテの悲劇《エグモント》のための音楽、序曲《コリオラン》、オペラ《フィデリオ》(第1・2稿)といった作品は、いずれもこの時期の作品である。
「英雄的様式」のもつ劇的なダイナミズムには、時代や思想の反映を読み取ることもできる。《フィデリオ》に取り組むにあたっては、パリから輸入されて大人気となっていた「救出オペラ」の影響が色濃い。「救出オペラ」では、苦境にある英雄を「救出する」点が筋の中心となっており、登場人物たちが自分たちの手で困難を克服して幸せな結末を勝ち取るという点に新しい時代が求めるリアリズムがあった。一部には最新の史実に基づいた作品もあり、《フィデリオ》の原作もまた実話に題材を得ていると言われている。台本のようなテクストを伴わない作品に関しては、筋書きのようなものを具体的に指摘することは困難であるが、《フィデリオ》に端的に指摘できるような劇的なものの理念が交響曲第3番《英雄》やピアノ・ソナタ《ヴァルトシュタイン》のような純粋器楽作品の背後にも通底していると考えることは許されるであろう。
ベートーヴェンより僅かに1歳半年長で完全な同世代人だったナポレオンは、ある時期まではヨーロッパの未来を指し示す希望の星と目されていた。無限の向上を夢見るベートーヴェンが、音楽の世界における「ナポレオン」を志向していたとしても不思議はないだろう。ナポレオンの存在が、この時期を代表する交響曲第3番《英雄》の創作と関わりを持ったことは、よく知られている。ある証言によれば、ベートーヴェンはナポレオンが皇帝になったことを聞き、「暴君になろうとしている」と言って激怒し、「ボナパルト」と題されていた交響曲の表紙を「真っ二つに引き裂き、床の上に投げ捨てた」のだという。自筆譜が残っていない現在、この話を裏付けることはできないが、現存する筆写譜のタイトル・ページには、「ボナパルトに献呈された」という言葉に対し、上から紙に穴が空くほど激しく消された跡が残っている。ベートーヴェンが激怒したという話には信憑性があるが、ベートーヴェンの「英雄」に関する感情には複雑な面もあったようである。現存する《英雄》の筆写譜のタイトル・ページには、ベートーヴェンの名前の下に彼自身の筆跡で「ボナパルトのために書かれた」と走り書きされてもいる。また、少しあとになってからも、出版社に宛てた手紙の中では「この交響曲の表題は本当はボナパルトです」と述べている。1824年に至ってもなお、弟子のチェルニーに「以前はあの男を許しかねていたのだが、今はすっかり考えが変わった」と述べたと伝えられている。
この時期のベートーヴェンには、幾つかの重要な女性関係があったようである。1804年から07年にかけては、4人の幼子を抱えて未亡人となっていたヨゼフィーネ・フォン・ダイム(旧姓ブルンスヴィク)に熱烈な愛情を抱いていたことが、残存する書簡などによって推察される。ヨゼフィーネは、友情を越える親密な関係を避けたようで、おそらくそれが原因となって二人の関係は破局を迎えたが、作曲家の感情に大きな起伏が生じていたことは確かだろう。1810年頃には、主治医の姪テレーゼ・マルファッティに求婚したと言われているが、22歳という年の差も少なからず影響したものと見られ、申し出は断られたようである。ベートーヴェンの生涯を通じて、おそらくは最も深刻な恋愛関係であり、最も有名であることには疑いの余地がないのが、1812年7月の書簡によって知られるいわゆる「不滅の恋人」との関係である。作曲家自身の遺品の中から発見された書簡は、それ自体では相手も執筆年代・場所も分からないものであるが、研究の積み重ねによって年代と場所が判明し、現在最有力の説では、相手はアントーニエ・ブレンターノであったとされている。
1-4.ヴィーン時代後期(1813 - 1827)
1813-18年頃には、1815-16年頃をピークとして、ベートーヴェンの創作に停滞が見られる。そのきっかけの一つとして、「不滅の恋人への手紙」を一つの指標とすることはできよう。関係の終焉は、大きな精神的打撃となっただろうし、日記等からは、芸術のみに生きることへの強い決意が窺われる。ちょうど10年前に書かれた「ハイリゲンシュタットの遺書」が創作力の爆発と時期を同じくしていたのに対し、「不滅の恋人への手紙」は創作の停滞と時期を重ねている。しかし、「停滞」は必ずしも一括りにして捉えられるものではないし、その要因を失恋とのみ結びつけるのは早計である。
1811年2月には、ナポレオン戦争の影響で下落していたオーストリア通貨の切り下げが行われ、1809年以降に貴族3人の合同によって支払われていた年金も大幅に目減りしたこともあって、ベートーヴェンは経済的に厳しい状況に置かれ、演奏活動に時間を費やすことが多くなっていた。そうした中、1813年には「戦争交響曲」の異名も持つ《ウェリントンの勝利》作品91を作曲し、前年に完成していた《交響曲第7番》などとともに初演して大成功を収めている。ナポレオンが失脚した1814年は、ヴィーン会議の恩恵を被り、ベートーヴェンにとって賞賛と名声からすれば「生涯最良の年」と言われるほどにまでなった。研究において「創作力の減退」を強調する立場の背後には、「戦争交響曲」をはじめ《連合君主に寄せる合唱曲》WoO 95やカンタータ《栄光の時》Op. 136のような作品を評価しない姿勢がある。しかし、当時においては、こうした作品を歓迎する雰囲気が満ちあふれており、ベートーヴェンも進んでそれに取り組んだことは、正面から受け止められなければならないだろう。ちなみに1814年末に作曲されロシア皇后エリザベート・アレクセエヴナに献呈された《ポロネーズ》Op. 89は、ベートーヴェンには異色のピアノ小品であり、ヴィーン会議関連の機会作品の最後に位置している。
一方で、難聴の悪化という問題もあった。1814年5月に《大公》三重奏曲を演奏したのが、(伴奏をべつとすれば)ピアニストとして公の場に現れた最後の機会となったし、1818年には、日常会話にも支障をきたすようになったようで、会話の補助となるいわゆる「会話帳」が使われるようになった。聴覚を失うことに対しては、すでに覚悟は決まっていたにせよ、現実の悪化が精神に何も影響を与えなかったはずはあるまい。
また、1815年11月の弟カスパル・カールの死後、その息子カールの後見人指名を巡る義妹との闘争も深刻なものであった。ベートーヴェンは、未亡人ヨハンナとそもそも折り合いが悪く、彼女が母親として不適格であると頭から信じてもいたので、排他的な単独後見権を手に入れようと懸命になった。詳細はさておき、1820年7月にベートーヴェンが最終的な勝利を収めるまでの約4年半、訴訟や書状作成などの手続きをはじめとして、莫大な時間が費やされたことは確かである。人間関係に深刻な問題と不安を抱えていたベートーヴェンにとって、甥への感情や、義理の妹との闘争は、心理的にも大きな重荷だったに違いない。また、法廷闘争ののち、さらに6年にわたって甥の教育と世話に心血を注いだこともまた、創作活動に多大な障害となったはずである。
音楽面に話題を絞っても、「停滞」の要因を論ずることはできる。1809年あたりから新しい徴候が生じてくることは、ピアノ・ソナタOp. 78などに端的に見て取ることができる。ソナタ形式の主要主題にもカンタービレな性質が表出し、それによって主題の断片化や徹底した動機労作が困難となり、全体の規模も際だって小さくなっている。同ジャンルの前作は4年前の《熱情》Op. 57であるが、両者の間にある大きな性質の違いと、4年というピアノ・ソナタ創作においては長めの「空白」は、もっとも随意に扱えたピアノという手段において、一方では一つの様式の可能性を早々と限界近くまで開拓し、他方ではその様式がまだ続いている中でも新たな可能性を模索し始めていたことを示していると解釈できよう。ピアノ・ソナタにおいては、Op. 81a以降さらに4年の「空白」があるが、機会作品の創作に追われていた1814年にそうした作品とは全く趣を異にするOp. 90を作曲し、創作量が際だって減った1816年にもOp. 101を残している。こうしたことは、同時期に創作された2つのチェロ・ソナタOp. 102や連作歌曲集《遙かなる恋人に》などと併せて、この長期間に亘る様式の移り変わりを考える上でも極めて重要な意味を持っている。1817年秋に着手された「ハンマークラヴィーア」の通称を持つOp. 106のピアノ・ソナタは、あらゆる意味で既存の枠組みを打ち破った記念碑的な作品であり、これによって一連の後期作品への道が押し開かれたと言っても良いであろう。
その後には、《ミサ・ソレムニス》、3つのピアノ・ソナタ第30番、第31番、第32番)、《ディアベッリ変奏曲》、「第九」交響曲、それに最晩年の5曲の弦楽四重奏曲などが成立した。1817年頃以後の後期様式は、伝統的な要素と革新性、大規模と小規模、複雑さと単純さ、厳格さと抒情性など、相矛盾するような要素が介在するものを持たずに直接ぶつかり合う点を特徴とし、極度なまでの対照性は、後期作品が「難解」「秘教的」などと形容されること一因となっている。
1821年頃からは、肝臓病、眼炎、肺炎、大腸炎などを患い、最後の数カ月はほとんど寝たきりとなり、1827年3月26日に56歳3ヶ月の生涯を閉じた。葬儀には、1万人もの群衆が詰めかけ、社会的な事件となった。
2.作品について
※作品番号
作曲家ごとに、その諸作品に付けられる一連の番号を、作品番号と呼ぶ。通常、ラテン語で「作品」を意味する「opus」という言葉やその略号である「op.」によって示す。もともとは、楽譜の出版にあたって出版社が付けたもので、同じ作品が複数の出版社から刊行されることも多かった時代には、同じ作品に異なる番号が付けられることもあった。ベートーヴェンは、作品番号を一貫して自らの管理下に置いた最初の作曲家だとされる。自らが重要だと認めた作品にのみ番号を付け、番号の連続性も重視した。作品番号が出版を前提としていることに変わりはなく、2つのピアノ・ソナタOp. 49(第19番、第20番)のように、作曲年代が早くても出版時期が遅いために作品番号が大きくなっている作品もある。ちなみに、ベートーヴェン自身の番号管理も完全ではなく、Op. 41、42、63、64には、ベートーヴェンの作品を第三者が編曲したものが入り込んでいる。
出版されてもベートーヴェンがそれほど重要だと見なしていなかった作品や、彼の生前に出版されなかった作品には、作品番号が付いていない。こうした作品は、「作品番号のない作品(Werke ohne Opuszahl)」の略である「WoO」という略号を付けて整理されている。全体は、まず器楽作品と声楽作品に大別されていて、それぞれが編成の大きいものから小さいものへと順に並べられており、声楽曲は「WoO 87」から始まっている。編者2人の名前から「キンスキー=ハルム」の名で呼ばれるベートーヴェンの作品目録には、138の作品番号のある作品と、205の作品番号なしの作品、それに18の偽疑作が掲載されている。
基本的に「旧全集」に収められた作品の情報を網羅していた「キンスキー=ハルム」に対し、『旧全集に含まれていない作品の目録』が編纂され、やはり編者の名を冠して「ヘス目録」と呼ばれている。ただし、「キンスキー=ハルム」も「旧全集」の刊行後に明らかになった情報を掲載しているため、「ヘス目録」には、すでに「キンスキー=ハルム」で明らかにされていた情報も多く含まれている。Hessという語とともに整理番号が付けられているものは、基本的には「ヘス目録」にしか掲載されていない作品であるが、「WoO」として整理されている作品であっても「ヘス目録」で大幅に情報が追加されている場合には「WoO」と「Hess」を併記する場合もある。また、「ヘス目録」には、何らかの資料の中で言及されているのみで、作品の所在そのものは全く分かっていない作品も含まれている。
1.ピアノ・ソナタの概要
32曲の作品番号付きのピアノ・ソナタは、西洋芸術音楽の中でも中核を成すレパートリーである。そのほかに、ボン時代に作曲されたピアノ・ソナタが数曲ある。
ピアノ・ソナタは、ベートーヴェンの作品を通じて交響曲にも比肩しうる規模と芸術的な重みを与えられた。モーツァルトやハイドンのピアノ・ソナタと比較すれば、社会にとっても作曲家自身にとっても、このジャンルが持っていた意味が変化したことが見て取れるだろう。また、ボン時代の作品をべつとすれば、クラヴィコードやチェンバロを念頭に置かずに一貫してピアノのために作曲したことも重要である。ピアノは、まさにベートーヴェンが生きた時代に飛躍的な発展を遂げた。彼はその時々の最新鋭の楽器の能力を反映させて創作し、楽器の音域や音量の拡大が作品に反映されていると考えられる。
ベートーヴェンにとってのピアノ・ソナタは、もっとも身近で、しかも重要度が高く、作曲技法上の様々な実験を行うのに都合の良い手段だったようである。ボン時代に出版された2番目の作品は、選帝侯マクシミリアン・フランツに献呈されたことから「選帝侯ソナタ」の異名をとる3つのピアノ・ソナタWoO 47であったし、作品番号付きで出版された2番目の作品も師ハイドンに献呈された3つのピアノ・ソナタ、作品2であった。いずれもその時に有していた最高水準の作曲技術を凝縮させた作品だと見て良いであろう。また、ピアノ・ソナタは、ベートーヴェンの創作期全体をほぼ満遍なく覆い尽くしているため、様式の変遷を見る上でも重要な手がかりとなっている。
2.ピアノ変奏曲の概要
最初の出版作品となったボン時代の《ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲》から晩年の《ディアベッリ変奏曲》に至るまで、ベートーヴェンのピアノ変奏曲は、2曲の4手用作品(WoO 67、74)を含めて、全22曲を数える。流行の旋律を主題にとった一連の変奏曲は、多分に即興演奏とも結びついたものであり、当時広く愛好されていたジャンルである。こうした作品の大半が、ベートーヴェンがピアニストとして活躍していたヴィーン時代初期に集中しているのも当然といえるだろう。
大きな転機となっているのは、Op. 34、35の2曲で、いずれも自作主題に基づく変奏曲であり、ベートーヴェンはここで変奏曲に初めて作品番号を与えている。前者の大きな特徴は、各変奏の調性が3度下行の関係で移り変わる点であり、テンポや拍子にも大胆な変化が加えられている。基本的には主題に装飾を施して変形させるだけの「装飾変奏」の枠組みは、この作品をもって本質的に拡張されている。Op. 35は、交響曲第3番《英雄(エロイカ)》の第4楽章と同じ主題を有することから「エロイカ変奏曲」の異名を持つ有名な作品だが、成立したのは交響曲よりも先である。主題と主題のバスを分離させ、両者をともに主題として自在に変奏させる手法は、新境地を大胆に切り開いている。《ディアベッリ変奏曲》になると、もはや全く新しい変奏曲のジャンルを確立したと言ってよい。敢えてドイツ語を用いた「変容」という標題が示す通り、従来の変奏技法を疑いもなく超越した手法は、主題の持つ個々の属性に焦点を絞って自由自在に拡大・発展・展開させるというもので、まさに「性格変奏」の名にふさわしい。
3. その他のピアノ独奏作品の概要
舞曲を含むベートーヴェンの小品には、習作らしきものや他の楽曲の編曲も含まれており、それ自体として傑出した作品は必ずしも多くはないが、《エリーゼのために》WoO 59のような有名作品もある。幻想曲Op. 77は、1808年12月22日の演奏会における即興演奏がもとになっているとも考えられる作品で、即興演奏で名高かったベートーヴェンの即興の片鱗を窺わせるものと見ることもできよう。《6つのバガテル》Op. 126は、最後の5つの弦楽四重奏曲に取り掛かる頃の作品で、後期様式の特性が表れたものとして注目に値する。
4.4手用作品
2台ピアノのための作品は、大フーガOp. 133を作曲者自身が編曲したもの(Op. 134)のほか、教育目的と考えられるソナタOp. 6、交響曲第3番《英雄》の頃に書かれた3曲の行進曲Op. 45がある。連弾は、ともに作品番号を持たない2つの変奏曲のみであるが、WoO 67は規模・技巧ともに充実した作品である。
5.ピアノを伴う室内楽曲の概要
ピアノを伴う管楽器のための室内楽は、他の管楽器を含む小編成の音楽と同様に、当時の慣例にしたがって基本的に娯楽的な機会音楽である。ボン時代に書かれた3つのピアノ四重奏曲WoO 36(36-1、36-2、36-3)をべつとすれば、ベートーヴェンが弦楽器と鍵盤楽器のために書き下ろした室内楽作品は、ヴァイオリンかチェロとの二重奏、ないしはヴァイオリンとチェロとの三重奏曲である。
6.ベートーヴェンのピアノ協奏曲の概要
ピアノ協奏曲は5曲あり、第1、2番は出版順の関係で順番が入れ替わっているものの、最初に着手されたのは2番であることが知られている。そのほかに、《クラヴサンまたはピアノフォルテのための協奏曲》と題された1784年の作品(WoO 4)があるが、独奏パートのみが筆写譜を通じて完全に残存し、管弦楽パートはピアノ編曲を通じて部分的に知られているに過ぎない。ちなみに、これがボン時代に手がけた最初の管弦楽作品である。そのほかに、自作のヴァイオリン協奏曲を自らの手で編曲したOp. 61がある。《合唱幻想曲》Op. 80もまた、特異な作品ではあるが、ピアノの果たす役割から考えれば、ここに加えることができよう。また、ピアノが独奏を務める管弦楽曲としては、《三重協奏曲》Op. 56もある。