1-1.神童時代
ヴォルフガンク・アマデウス・モーツァルトは、1756年1月27日、ザルツブルクで生まれた。ザルツブルクは、カトリックの大司教が世俗の世界も支配する宗教国家で、モーツァルトの父レオポルトは、ザルツブルクの宮廷楽団の副楽長、ヴァイオリン奏者だった。レオポルトの情熱はまもなく娘と息子の音楽教育に惜しげもなく注がれるようになり、今日ナンネルの楽譜帳」として知られている練習曲集などを編んだり、チェンバロのレッスンを施した。とりわけヴォルフガンクの進境はめざましく、ほどなくザルツブルクの大司教シュラッテンバッハの前でチェンバロの腕前を披露したり、大聖堂でオルガンに触れることを許されるようになった。
1762年1月、レオポルトは、ナンネルとヴォルフガンクをミュンヘンに連れていき、バイエルン選帝侯マクシミリアン・ヨーゼフ3世の前で演奏させた。さらに同じ年の秋、ウィーンを訪問、モーツァルトと姉ナンネルは、シェーンブルン宮殿で女帝マリア・テレジアと夫君フランツ一世の御前で演奏した。
モーツァルトの名を広くザルツブルクの外の世界に知らせることになったのは、1763年6月から1766年11月までの約3年半にも及ぶ大旅行だった。ヴァッサーブルク、ミュンヘンで演奏を披露した後、一家はレオポルトの故郷アウグスブルクを訪れる。アウグスブルクには旧知の鍵盤楽器制作者、ヨハン・アンドレアス・シュタインがおり、レオポルトは早速彼から旅行用のクラヴィコードを購入している。シュヴェッツィンゲン、フランクフルトなどを経て、パリに到着。モーツァルト一家は、1764年の元日にはヴェルサイユ宮殿に招かれ、国王ルイ15世夫妻と晩餐をともにしたという。パリにはショーベルト、エッカルトなどのドイツ系音楽家たち活躍しており、その作風から大きな影響を受け、ショーベルトの作品を模倣したソナタ集が出版されている。
ドーバー海峡をわたってロンドンに着いたモーツァルト一家は、息つく暇もなくバッキンガム宮殿を訪ね、国王ジョージ3世と王妃シャーロット・ソフィアの前で演奏した。ロンドン滞在は1年以上にも及び、この間に43曲からなる「ロンドンの楽譜帳」が生まれている。8歳のモーツァルトの語法がよく表れ、同時に後年のモーツァルトの作風が垣間見える曲もある。
1-2.ザルツブルクでの活躍と決別
モーツァルトの名声をさらに高めたのは、オペラの本場イタリアへの旅だった。モーツァルトと父レオポルトのイタリア旅行は三回にわたり、モーツァルトにとって13歳から17歳までのかなりの部分を占める。この多感な時期にイタリアの音楽そして風物に触れたことは、モーツァルトに大きな影響を与えた。
モーツァルトは、チェンバロの名人芸をイタリアの各都市で披露しただけでなく、古い大学都市ボローニャでは対位法の権威マルティーニ神父から指導を受け、『アッカデミア・フィラルモニカ(楽友協会)』に最年少で入会を認められた。ローマでは教皇クレメンス14世から『黄金の軍騎士勲章』を授かるなど大いに面目を施した。またミラノではマリア・テレジアの皇子であるロンバルディア総督フェルディナント大公の結婚のための祝典劇《アルバのアスカーニョ》を作曲、上演し、成功を収めている。
モーツァルト父子が第2回のイタリア旅行からザルツブルクに帰った翌日の1771年12月16日、大司教シュラッテンバッハが亡くなり翌1772年3月、コロレド伯爵が大司教に選出された。3回のイタリア旅行を終えたモーツァルト父子は、4ヵ月後ウィーンに赴く。おそらくはウィーンの宮廷への就職運動と考えられ、マリア・テレジア女帝にも拝謁するが、女帝は父子をただうわべ愛想良く迎えただけだった。
ザルツブルクの新しい大司教コロレドは、モーツァルトをすでにコンサート・マスターに任命していた。第3回のイタリア旅行やウィーン旅行もあっさり許可しており、コロレド大司教が前任者よりもモーツァルト父子にすぐに辛くあたったという形跡はない。ザルツブルクに戻ったモーツァルトは、イタリアやウィーンで仕入れた知識を生かしながら、シンフォニー、カルテット、ディヴェルティメントなどの器楽作品のほか、ミサ曲などの宗教作品を次々に生み出していった。ウィーンから帰った直後には、最初のオリジナルのピアノ・コンチェルトであるニ長調KV175が作曲されている。1774年暮れから翌年の春にかけてモーツァルト父子はミュンヘンに滞在し、オペラ《偽りの女庭師》とともに、最初のピアノ・ソナタのグループ6曲が作曲されている。このほか、ザルツブルクで書かれたピアノ・コンチェルト、ヴァイオリン・コンチェルト、シンフォニー、ディヴェルティメントなどはモーツァルトの作品群の中でも青春の息吹あふれる名作となっている。
オペラ劇場もないザルツブルクに物足りなさを感じ始めたモーツァルトは、1777年9月大司教に辞表を提出、母マリア・アンナとともに、新天地を求めて旅に出た。旅行中には、アウグスブルクで鍵盤楽器制作者シュタインの工房で最先端のフォルテピアノを知ることができたほか、マンハイム、パリで、数多くの作品を作曲したが、結果的には、パリで母を亡くし、就職活動に完全に失敗するなど、失意の旅となった。パリで作曲されたイ短調KV310のピアノ・ソナタは、悲劇的な緊張感を孕んでいる。
やむなくザルツブルクに戻ったモーツァルトは、レオポルトの復職運動のかいあってか、大聖堂のオルガニストに任命された。しかしオペラ《クレタ島の王イドメネオ》を作曲、上演するためにミュンヘンに滞在していたモーツァルトは、コロレド大司教にウィーンに召還され、1781年5月、すさまじい口論の末に大司教の館を追い出された。
1-3.ウィーンでの成功
ウィーンの街にひとり放り出されたモーツァルトは、マンハイムで知り合ったウェーバー家に転がり込む。ウィーンで最ももてはやされていたサロンの女主人、トゥーン伯爵夫人はシュタイン制作のフォルテピアノを持っていて、モーツァルトのためにこの楽器を貸してくれた。トゥーン夫人の計らいもあり、皇帝ヨーゼフ2世はモーツァルトの才能に着目。この年のクリスマス・イブにモーツァルトを呼び、ロシア大公夫妻の前で、ロンドン在住のイタリア人音楽家ムティオ・クレメンティと競演させた。
1782年7月16日、かねてから作曲を進めてきたジングシュピール《後宮からの誘拐》がブルク劇場で初演され、モーツァルトの名声は不動のものとなった。翌月モーツァルトは、ウェーバー家の三女コンスタンツェと聖シュテファン大聖堂で結婚式を挙げる。ザルツブルクの父レオポルトの反対を押し切っての結婚だった。
明けて1783年3月23日にブルク劇場で開催されたコンサートには、皇帝ヨーゼフ2世が臨席。その成功はウィーンにおける輝かしい活動の幕開けとなった。同時にモーツァルトは華やかで多忙な日々を送る一方、有力な後援者ヴァン・スヴィーテン男爵の膨大なバロック音楽のコレクションに触れて大バッハやヘンデルの作品を研究するが、このことは、その後におけるモーツァルトの作風に深みを与えることになった。
1783年の夏から秋にかけてモーツァルトは、妻コンスタンツェを伴ってザルツブルクに里帰りしている。父や姉とは打ち解けなかったようで、モーツァルトはこの後、亡くなるまで故郷を訪れることはなかった。帰路のリンツでは、《リンツ・シンフォニー》、変ロ長調KV333のピアノ・ソナタが作曲されている。
ザルツブルクからウィーンに戻ったモーツァルトは、旺盛な作曲、演奏活動を開始する。1785年秋には《フィガロの結婚》の作曲が始まり、翌年このオペラはウィーンで初演。そしてその上演のため、1787年1月にプラハに招かれるが、この約3年間が、モーツァルトの最も輝かしい絶頂期に当たっている。
演奏活動の中心は予約コンサートで、モーツァルトは次々にピアノ・コンチェルトの名作を作曲し、自らの演奏で披露していった。売れっ子になったモーツァルトのスケジュールは過密で、午前中は弟子たちのレッスンに費やされ、夜はほとんど毎晩のように方々のサロンで演奏した。この輝かしい頂点の時期にあたる1784年12月、モーツァルトはフリーメイスンに入会している。
1-4.モーツァルトの没落と死
1787年3月に作曲された、ピアノのためのイ短調のロンドKV511は、憂いに満ち、澄み切った美しさを湛えた名作である。このロンドを書いた直後、レオポルトが重い病に伏していることを知ったモーツァルトは、「死は最善の友」と書き記している。1787年11月、ウィーンで最高の名声を誇っていたグルックが世を去り、ヨーゼフ2世はグルックの死によって空いた宮廷作曲家のポストにモーツァルトを任命した。モーツァルトはそれなりに安定した収入を得ることになったが、不思議なことにこの頃からフリーメイスンの友人プフベルクあてにたびたび借金を申し込むようになる。そのような中でハ長調KV515、ト短調KV516の弦楽五重奏曲、三大シンフォニー(変ホ長調KV543、ト短調KV550、ハ長調KV541《ジュピター》)などの名曲が次々に作曲されていった。
この頃皇帝ヨーゼフ2世はトルコとの戦争を始め、またヨーゼフ2世の妹マリー・アントワネットが嫁いでいたフランスでは革命が勃発し、世相は暗いものになっていった。1789年には初めてドレスデン、ポツダム、ベルリンを訪問するが、成果は少なかった。ウィーンに戻ったモーツァルトは、戦線で病を得てウィーンに戻っていた皇帝ヨーゼフ2世のためにオペラ《コシ・ファン・トゥッテ》を作曲するが、ブルク劇場で初演されたときにはヨーゼフ2世の姿はそこにはなく、病床にあった皇帝は、暗く騒然とした世相の中で、49歳の生涯を終えた。ヨーゼフ2世の後を継いだ弟でトスカナ大公レオポルトがレオポルト2世として即位し、神聖ローマ皇帝としての戴冠式がフランクフルトで行われることになった。モーツァルトはフランクフルトに赴き、《戴冠式》KV537のピアノ・コンチェルトなどを弾いたが、得られたものは少なかった。
最後の年となる1791年は、めまぐるしい年となった。1月には最後のピアノ・コンチェルト変ロ長調KV595が完成され、3月のコンサートで弾いている。直後、エマヌエル・シカネーダーとともに《魔笛》の構想を練り上げ、作曲を始めるが、作曲の途中で宮廷から、皇帝レオポルト2世のボヘミア国王としての戴冠式のための祝賀オペラを注文され、急いでオペラ・セリア《皇帝ティトの慈悲》を作曲し、プラハで初演した。とって返して再び《魔笛》の作曲に戻るという、もう命がいくばくも残されていない人とは思えないようなエネルギッシュな仕事ぶりで、《魔笛》は9月30日に初演され、たちまち好評を博し、繰り返し上演されることになった。
《魔笛》の成功はモーツァルトに多くの収入をもたらしたが、皮肉なことにモーツァルトの体調は急激に悪化する。モーツァルトの病気とその突然の死については夥しい数の著作が書かれているが、その真相は今日なお解明されておらず、近年になっても毎年のように新説が発表されるほどである。
1791年11月20日、死の床についたモーツァルトは、病床でレクイエムの作曲を続けたが、病状はますます悪化し、1791年12月5日未明、36年に満たない短い生涯を閉じた。モーツァルトの葬儀は聖シュテファン教会で行われたが、誰が出席したのかは明らかではない。コンスタンツェを含め誰もマルクス墓地での埋葬に立ち会うことはなく、埋葬を見届けたのは墓堀人だけだったと伝えられる。
このエピソードは、モーツァルトの最期についての悲劇を物語っているとされるが、当時、埋葬に多くの関係者が立ち会う習慣はなかったのではないかという説、また、伝染病の蔓延を恐れたウィーン市当局が埋葬への立ち会いを制限したという説もあり、モーツァルトが困窮のうちに亡くなったのかどうかは、今日なお謎に包まれている。
◆2.モーツァルトと鍵盤楽器◆
モーツァルトが生きた時代は、ちょうど鍵盤楽器の交替の時期に当たっていた。18世紀後半の短期間のうちに、専らチェンバロだけが使われていた時代から、ピアノの前身であるフォルテピアノが使われ始め、そしてチェンバロよりもフォルテピアノが使われる時代を経て、現代の「ピアノ」に近い楽器がもっぱら使われる時代へと移り変わっていった。モーツァルトは、この移り変わりの時代を生きたが、本格的な「ピアノ」の時代を見ることなく、その途中で亡くなった。
このようにモーツァルトの時代には、タイプとしては、チェンバロとフォルテピアノ、そして別のタイプの楽器であるクラヴィコードの三種類の鍵盤楽器が使われていた。この三種類の鍵盤楽器は、ドイツやオーストリアでは「クラヴィーア」(Clavier)と総称される。モーツァルトの鍵盤作品は、多くの場合、この3種類の楽器のいずれでも弾くことができたと考えられ、おおざっぱに言えば、初期の作品はチェンバロを、そして時代が下るにつれ、フォルテピアノを想定して作曲していったと考えられる。
よく知られているように、今日のピアノの前身である楽器は、1700年頃にフィレンツェのメディチ家に仕えるクラヴィーア制作者、バルトロメオ・クリストーフォリによって発明された。そしてクリストーフォリの発明を発展させ、改良を加え、さらにこの新しい楽器を普及させていったのは、ドイツの鍵盤楽器制作家たちだった。その最も重要な人物が、モーツァルト父子と深い関わりを持ったヨハン・アンドレアス・シュタインで、モーツァルトがシュタインと懇意であったことは、モーツァルトがこの新しい楽器をいち早く知り、この楽器を想定して作品をつくっていく背景となった。
モーツァルトはウィーンに着いて間もない頃、モーツァルトはシュタインのフォルテピアノを弾いていたが、ほどなくアントン・ヴァルターのフォルテピアノを手に入れた。ヴァルターは1780年代のウィーンで突然姿を現したクラヴィーア制作者で、シュタインなどと比べて無名の存在だった。モーツァルトが使っていたヴァルターの楽器は、死後コンスタンツェから息子の手に渡り、現在はザルツブルクのモーツアルト博物館に保存されている。
シュタインの楽器にしろヴァルターの楽器にしろ、この時代のフォルテピアノは、楽器そのものがとても軽かった。現代のグランドピアノはかなり重く、人から借りてまたすぐに返すなどということはまず考えられないが、モーツァルトをはじめ当時のウィーンの演奏家たちは、楽器を頻繁に運んでいた。このように楽器が軽かったのは、フレームが現代のグランドピアノと違って木で出来ていたからで、弦もずっと細く、ハンマーもはるかに軽く、フェルトではなく皮で覆われていた。このような楽器のタッチはとても軽く、鍵盤の深さも半分以下しかないから、おもしろいほど指が回ってしまう。重いタッチの現代のピアノでは四苦八苦するような速いパッセージも、この種の楽器では調子に乗って鍵盤上を指が自在に駆け巡ることになる。演奏に没入すると、どうしても細かいパッセージの箇所を中心にテンポは動きがちになり、好き放題の演奏になりやすい。フォルテピアノのリサイタルに行くとそのような演奏に出会うこともあるが、フォルテピアノでとくにモーツァルトを弾くときに自戒しなければいけないポイントであろう。
モーツァルトが幼少から親しんでいた別のタイプの楽器‐それがクラヴィコードだった。クラヴィコードの発音原理は、鍵を押すと木片が持ち上がり、端に取り付けられているタンジェントと呼ばれる真鍮の金属片が弦を打つ、という単純なものである。この単純なしかけで弦を「打つ」とき、振動は鍵に直接伝わり、演奏者は「直接弦に触れている」という実感を持つことができる。指を振わせるとたちまちヴィブラートがかった音が出る。
モーツァルトは早くからクラヴィコードになじみ、その後もクラヴィコードを手元に置き、しばしばこの楽器を使って作曲した。またそのような記録のない作品であっても、たとえば、ウィーンでつくられた有名な「やさしいソナタ」ハ長調(KV545)をクラヴィコードで弾くと、現代のグランドピアノでは表現できない微妙なニュアンスを表現できるような気がしてとても楽しい。私にはこの名作は、もしかしたら主としてクラヴィコードを想定して創られたのではないかとすら思えるときがある。
◆3.ピアノ作品のジャンル◆
モーツァルトのピアノ作品を一定のジャンルに分ければ、ピアノのための独奏曲(ピアノ・ソナタ、ピアノのための変奏曲、ピアノのための小品(ロンド、アダージョ、メヌエット、ジーク、プレリュード、フーガなど)、2台のための、あるいは4手のためのピアノ曲(ピアノ・ソナタなど)、ピアノとヴァイオリンのためのソナタ、同じ組み合わせによる変奏曲と小品、ピアノを含む室内楽(トリオ、カルテット、ピアノと管楽器などほかの楽器との組み合わせによる室内楽)、ピアノ・コンチェルトに分けられよう。
モーツァルトの作品は、長年の研究により『新モーツァルト全集』(Neue Mozart-Ausgabe)として集大成され、分類されるとともに、国際モーツァルティウム財団のサイトからは、モーツァルトの作品のスコアをダウンロードすることもできる。上記の分類は、基本的には、この新全集と同じである。
また、モーツァルトの作品には年代順に付番されたケッヘル番号が使われており、ケッヘル番号については、作品リストの説明を参照されたい。
なお、専門書の中には、モーツァルトの鍵盤音楽作品を説明する際に「ピアノ」という語を使わず、たとえば、ピアノ・ソナタのことを「クラヴィーア・ソナタ」と表記しているものもあり、厳密にはそれが正しいと思われるが、モーツァルトの作品が、初期の作品を含め、現代のピアノで弾かれることは否定されるべきではなく、本稿でも、モーツァルトの鍵盤音楽作品は、ピアノ○○と表記している。
3-1.ピアノ・ソナタ
ピアノのための独奏曲の中心は、ピアノ・ソナタであり、18曲が残されている。モーツァルトの時代には、今日のピアノ・リサイタルのような演奏慣行はなく、ピアノ・ソナタなどの独奏曲は、主としてサロンで演奏された。したがって作曲の目的は、主として愛好家を対象とした出版にあったと考えられる。
ピアノ・ソナタの最初のグループは、19歳にミュンヘンで書かれた6曲であり、ハイドンやヨハン・クリスティアン・バッハの作品を研究した跡が窺える。その後、マンハイム・パリ旅行中には、マンハイムで2曲が、パリで1曲のピアノ・ソナタがつくられている。パリで作曲されたイ短調KV310のソナタは、かなりユニークな作風を示しており、謎に包まれた作品である。ザルツブルクでは1曲のピアノ・ソナタもつくられていないことが目を引く。
ウィーンに移り住んでからは9曲のピアノ・ソナタが作曲されている。初期につくられたKV330からKV333までの4曲は、以前はパリで作曲されたと考えられていたが、自筆譜の科学的な分析の結果、作曲年代はウィーン時代の初期に変更された。ウィーンでつくられたハ短調KV457など残りのソナタを含め、いずれも名曲ぞろいである。
18世紀後半に作曲されたソナタを見ると、2楽章、4楽章、あるいは少数ながら単一楽章や5楽章以上のソナタも存在したが、モーツァルトのピアノ・ソナタは18曲すべてが3楽章形式で書かれていることが特徴となっている。そして3つの楽章の配置を見ると、少数の例外もあるが、その基本は、ソナタ形式で書かれた速い第1楽章、緩やかな第2楽章、ソナタ・ロンド形式で書かれた速い第3楽章、というスタイルとなっている。このような形式に則りながら、多様な個性を放っていることがモーツァルトのピアノ・ソナタの魅力となっている。
3-2.ピアノのための変奏曲
ピアノのための変奏曲は、モーツァルトが生涯にわたってつくり続けたジャンルである。変奏曲は、あるテーマを次々に変奏していくという単純な形式でできているが、それゆえに即興性の強いジャンルである。
少年時代には10歳のとき、2曲の変奏曲がオランダで作曲され、出版されている。レオポルト自身「たいしたものではない」と言っているが、確かにとりたてて演奏する価値は見いだしがたい。17歳のときにはウィーンでアントニオ・サリエリのテーマを使って作曲しており(KV183)、モーツァルトは第1変奏からサリエリのテーマを大胆に変えてしまい、素材であるテーマの痕跡を感じさせないくらいに自在に変奏していく。
ザルツブルクに戻ったモーツァルトは、翌年フィッシャーというオーボエ奏者のテーマをもとに別の変奏曲をつくっている。かなり長大な作品でテクニックの見せ場もたくさん用意されているが、自然な音楽の流れという面で、次のグループとの距離はまだまだ大きいように思える。
以前は、モーツァルトは22歳のとき、パリで5曲の変奏曲を作曲したと考えられてきた。これらの変奏曲は、パリで作曲されたと考えられてきたピアノ・ソナタと同じく、自筆譜の紙やすかしの研究によって作曲年代の修正が行われている。
1783年3月23日、ウィーンのブルク劇場で開催されたコンサートで、モーツァルトは、パイジェルロとグルックの旋律をもとに変奏曲を演奏しており、ともにこのときの即興をもとに後で書き留められ、出版されている。
後期の作品としては、旅行先のポツダムで作曲された《J.P.デュポールのメヌエットの主題による9つの変奏曲KV573》、亡くなる年に作曲された《シャックの「愚かな庭師」のリート「女ほど素敵なものはない」の主題による8つの変奏曲KV613》があり、より作風に深みが加わっている。
3-3.ピアノのための小品
ピアノのための小品は、ロンド、アダージョ、アンダンテ、フーガ、前奏曲、幻想曲、メヌエットなどさまざまな名称がつけられた多様な作品群からなる。幼年時代につくられた習作《ロンドンの楽譜帳》の中には、天才の萌芽を感じさせる作品も見られる。それらの中にあって、父レオポルトの死の頃に書かれた《ロンド・イ短調KV511》、そして、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』にも登場する《アダージョ・ロ短調KV540》は、モーツァルトの全ピアノ作品の中でも異色の秀作と言えよう。
ピアノのための小品には、未完のまま放置された作品、断片としてしか残っていないものも多い。その代表が《幻想曲ニ短調KV397》で、死後に出版されたモーツァルトの手になる初版譜は97小節までで未完のまま終わっていた。しかし2年後に出版されたときは別人の手になる10小節が追加され、今日はこの形で演奏されるのがふつうとなっているが、モーツァルトがこのように弾いた可能性はほとんどないといってよい。
3-4.2台のピアノ、4手のための作品
19世紀にピアノの全盛期を迎えると、2台のピアノや4手(つまり連弾)のための作品がたくさんつくられたが、これらの作品は、サロンや家庭で愛好家がピアノで演奏を楽しむための作品だった。モーツァルトの時代はまだそのはしりで、モーツァルトが9歳の時にロンドンで作曲した《4手のためのクラヴィーア・ソナタハ長調KV19d》は、このジャンルにおける最も早い例である。
もちろんこれらの作品をすべて愛好家のためのものと決めつけるわけにはいかない。ウィーンに出てきて間もない頃つくられた《2台のピアノのためのソナタKV448》は、流れるような美しさと華やかさに満ちており、豊かな充実感が漲っている名曲である。また、後期の作品の中では《4手のためのソナタハ長調KV521》がテクニックの見せ場や掛け合いも用意され、ダイナミックな迫力と豊かな響きに溢れている。
3-5.ヴァイオリン・ソナタ
今日単に「ヴァイオリン・ソナタ」と呼ばれているジャンルのモーツァルトの作品は、ベートーヴェン、ブラームス、ラヴェルなどの作品に比べてピアノが果たす役割が大きい。まさに「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ」である。
モーツァルトの作品で最初に出版された曲集は、このジャンルの作品だった。それは、1764年にパリで出版され、作品1のタイトルを持つ《ヴァイオリンの伴奏でも演奏できるクラヴサンのためのソナタ》(KV6-7)で、まもなく同じスタイルの作品2(KV8-9)も出版された。当時パリで活躍していたヨハン・ショーベルトなどの作品をモデルとした習作である。
本格的なこのジャンルの作品は、マンハイム・パリ旅行中に書かれた6曲のソナタ(KV301 - 306)で、豊かな充実感が感じられる秀作群となっている。6曲のソナタとも、神童時代の習作とは異なり、ヴァイオリンが明確な位置づけを与えられ、音楽の流れの中に必然的に組み込まれている。ウィーンに移り住んでまもなく、続く6曲が「作品2」としてアルタリア社から出版された(KV296、KV376 - 380) 。さらに1784年4月29日、皇帝臨席のもとにケルントナートゥーア劇場で行われたコンサートにおいてマントヴァ出身の女流ヴァイオリニスト、ストリナサッキと協演。このとき演奏されたのが変ロ長調V454である。絶頂期のモーツァルトの音楽の豊かさが奔放に溢れ出ている名曲である。ウィーンではこの後、変ホ長調KV481など3曲のソナタが作曲されているほか、ウィーン初期には、ピアノとヴァイオリンのための変奏曲(KV359,KV360)がつくられている。
3-6.ピアノを伴う室内楽
ピアノ三重奏曲は、多くはピアノとヴァイオリン、チェロで演奏される作品ジャンルであるが、ヴァイオリンまたはチェロの代わりにフルートやクラリネットといった管楽器が加わることもあった。楽器の組み合わせは、かなりフレキシブルに考えられていたようだ。
モーツァルトのピアノ三重奏曲は、ロンドンで出版された「作品3」の6曲のソナタ(KV10 - 15)に始まる。初期のこのジャンルの作品では、チェロは単にクラヴィーアのバスを補強するだけの消極的な役割しか与えられていないが、時代が下るにつれ、チェロのパートは活発に動くようになる。ザルツブルクで作曲された変ロ長調KV254ではまだチェロは控えめだが、1786年にウィーンで作曲されたト長調KV496では、チェロも活躍し、3つの楽器の間で、活発な対話が交わされる。
ウィーン時代には、さらにこのジャンルの作品が5曲つくられているが、異彩を放っているのが、『ケーゲルシュタット・トリオ』の愛称を持つ、変ホ長調KV498である。ピアノとヴィオラ、クラリネットというユニークな組み合わせになっており、渋い楽器の色調が十分に活かされた名作である。
ピアノとヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの組み合わせによるピアノ四重奏曲は、ウィーンで作曲された2曲(ト短調KV478、変ホ長調KV493)のみが残されている。ウィーンのホフマイスター社から出版されたが、2曲で終わってしまったのは、愛好家向きのジャンルであるにもかかわらず、モーツァルトの作品はアマチュアにとって手に余る難曲で、出版社がそっぽを向いたからだろう。ト短調の曲はとりわけ緊張感にあふれ、同時に天国的な美しさも垣間見せる。
モーツァルトの室内楽作品全体の中でも独自の輝きを見せている名曲が、ピアノと木管楽器のための五重奏曲KV452で、1784年4月1日、ウィーンのブルク劇場で初演されている。
3-7.ピアノ・コンチェルト
ピアノ・コンチェルトはモーツァルトの作品の中でもっとも人気のあるジャンルだが、最初の作品グループ(KV37,39 -41)は、ラウパッハ、ホナウアーなどほかの作曲家による作品を編曲したものである。また、イタリア旅行の合間には3つのピアノ・コンチェルトKV107がつくられているが、これは、ヨハン・クリスティアン・バッハの作品5のピアノ・ソナタを編曲したものである。楽器としてはチェンバロが想定されていた。
他人の編曲ではないモーツァルトのオリジナルのピアノ・コンチェルトは、1773年に作曲されたニ長調 KVV175 が最初で、ザルツブルク時代には全部で6曲が作曲されている。その中で1777年初め、20歳のときに生み出された変ホ長調 KVV271は、一頭地を抜いており、屹立しているとさえ言える名曲である。
モーツァルトはこの後しばらくピアノ・コンチェルトの作曲から遠ざかり、次の作品がつくられるのは、6年後、ウィーンに移り住んでからのことで、セットで作曲された3曲(KV413 - 415)が最初の作品グループである。1784年には予約コンサートシリーズが始まり、モーツァルトの新作のピアノ・コンチェルトが次々に初演されていった。1784年2月9日に作曲された変ホ長調KV449から 1786年12月4日に作曲されたハ長調KV503までの12曲であり、この期間はモーツァルトの短い絶頂期に当たっている。
この後につくられたニ長調KV537、変ロ長調KV595を含め、ウィーン時代につくられたモーツァルトの一連のピアノ・コンチェルトは、ヨーロッパ音楽が生み出した偉大な作品群の中でももっとも優れたものに属すると言える。クラヴィーアがオーケストラと協演するクラヴィーア・コンチェルトというジャンルは、バロック時代から存在したし、モーツァルトと同時代の作曲家によってもつくられたが、モーツァルトがウィーン時代に作曲したピアノ・コンチェルトはそれまでの作曲家の作品とは全く異なる芸術であった。
モーツァルトは、このジャンルの作品の中に、シンフォニックな要素を全面的に持ち込んだ。その契機は、ハイドンのシンフォニーを学んだことにもあるが、同時にモーツァルトのピアノ・コンチェルトにおける管楽器の使い方は、ハイドンともまったく異なっている。そこでは、モーツァルトのオペラ作曲家としての経験と才能が縦横に発揮されており、音楽にドラマ性と奥行き、さらには官能性を与えている。ときには弦楽器がまったく沈黙し、管楽器がそれぞれに語り、また歌い、ソロと戯れるシーンは、それまで誰も聴いたことがなかった音楽世界だった。
H・C・ロビンズ・ランドンは、これらの協奏曲群が「彼特有の、悲しみでもなければ幸せでもないという、謎の言語で書かれていること」(ランドン「モーツァルト 音楽における天才の役割」石井宏訳:中公新書)に注目しているが、慧眼であろう。このような音楽を書いた人は、モーツァルトの前にも後にも誰もいなかったのである。