総説
1803年、ベートーヴェンは簡素な形式によって書いた小品をまとめ「バガテル」として出版した。バガテル Bagatelleとはフランス語から来た言葉で、「ささいなこと」「取るに足らないもの」という意味である。バガテルと題された作品集は、作品33、作品119、作品126と三つあり、最後の作品126のみが作曲当初からあきらかに連作として書かれ、作品119についても一種の連作と見る向きもある。しかし、この《7つのバガテル》作品33は連作ではなく、一部過去の作品に手直しを加えてまとめたものである。それがかえって魅力になっているとも言えよう。さまざまな視点が交錯しながらも、全体の構想、配置にはまとまりがあり、曲集を通奏しても充分に聴きごたえがある。曲の形式がシンプルで短いため、ふとした思い付きによるアイディアが実験的に取り込まれており、斬新な発想がつまった小品集となっている[1]。
各曲解説
第1番 Op.33-1 変ホ長調
Andante grazioso, quasi allegretto 歩く速さで優雅に、アレグレット(やや快速に)のように

複合三部形式。主部(第1~32小節)はロンド風に素朴な旋律が繰り返され、その度に軽やかな装飾が加えられ、変奏されていく。中間部(第33小節目アウフタクト~第50小節目)は同主調である変ホ短調に転じるが、深刻で重々しい短調ではなく、さらりとした洒脱な陰りである。二度挿入されるユニゾンが、浮遊するような不思議な感覚をもたらす。第43小節目からのcresc. と、弱拍に付されたsfに煽られ、第44小節目でこの曲の最高音ファに到達する(当時の楽器の音域は5オクターヴ程度だったため、楽器の最高音はこのfかgであった。楽器の端の鍵盤という特別な意識を持って弾くことが求められよう)。第45小節目へのタイで緊張が解け、右手の音階で主調に戻っていき、第51小節目で主部に回帰する。コーダ(第83小節目アウフタクト~)は短く単純なスケールやアルペジオを左右で会話のように掛け合い、明快に終わる。
第2番 Op.33-2 ハ長調
Scherzo allegro スケルツォ(諧謔的に、おどけて)、快速に

スケルツォ部分の楽節構造は、偶数を基本とする整然としたものだが、弱拍の特徴的なアクセントによって、まるで不均等であるかのように滑稽な印象を聴く者に与える。スケルツォの16小節間は(4+4+2+2+1+1+1+1)と、フレーズの尺が半分になっていく構成である。これはまるで、千鳥足で何かにつまずきながら坂道を転げ落ちていく様子を、コミカルに描いているようだ。Minore(短調部分)は平行調のイ短調になり、息の長い旋律が歌われる。中間部Trioは2小節ごとに左右の役割が入れ替わる。2拍目にsfが付されているため拍節感が希薄でなぞかけをされているよう。スケルツォの再現はリピート部分が細分化による変奏になっており、その流れのまま続くコーダは末尾がどんどん縮められ、最後は笑い声のこだまで終わる。
第3番 Op.33-3 ヘ長調
Allegretto やや快速に

素描のような趣の、シンプルな小品。心に浮かんだ旋律を素早く書き留めた風情である。複合三部形式(A, B, A+コーダ)で書かれているが、コーダの素材がBであることと、AもBも似通った愛らしい性格であるため、構成感は表に出ず、歌が流れ続ける即興的な印象を受ける。8分の6拍子の穏やかな三連のリズムが終始続き、何度も繰り返されるたびに少しずつ控えめな装飾をほどこされる旋律は、常に新鮮で、繊細。お気に入りの森の小径を散歩しながら、ベートーヴェンが鼻歌を口ずさんでいる…そんな情景が想像できる、心あたたまる曲だ。
第4番 Op.33-4 イ長調
Andante 歩く速さで

複合三部形式。主部は四声で書かれており、弦楽四重奏を想起させる。曲想は夢見心地に揺れる子守唄のよう。中間部は同主調のイ短調に沈み込み、旋律不在の伴奏を思わせ、寂しい。主部の淡く幸せな色彩感と中間部の仄暗い雰囲気が、幻想的な好対照をなしている。主部の再現では、柔らかくほぐれていくように自然な変奏が行われており、旋律は自在に変容して低声部にも現れる。最後に、6小節からなる簡素なコーダが付加されている。
第5番 Op.33-5 ハ長調
Allegro, ma non troppo 快速に、しかしはなはだしくなく

複合三部形式。広範囲のアルペジオで始まり、即興的に細かく動き続ける。主部はトッカータに近い性格を有し、三連符の運動性やトリル、大きな跳躍などの勢いが魅力である。中間部は同主調のハ短調で、訴えの強い旋律が低音域のユニゾンによって歌われ、左手がさらに低い最低音域に三連符の分散和音で合いの手を入れる。歌謡的な激情、地の底でうごめく不気味さが主部と対照的である。半終止のffに達した後、三連符のスケールが流れ落ちて、無邪気な主部に回帰する。コーダはさらに旋律がそぎ落とされて運動性に特化していき、スケルツォ風にあっけらかんと終わる。
第6番 Op.33-6 ニ長調
Allegretto quasi Andante アンダンテ(歩く速さ)に近いアレグレット(やや快速に)で
Con una certa espressione parlante 或る語りかけるような表情で

複合三部形式。中間部(第21小節目~)が主部の素材の展開となっているため、全体の統一感があり、大変趣味良くまとまった小品。懐古的な雰囲気が漂っており、幼い子どものベッドのそばで、母親が物語の読み聞かせをしている情景が思い浮かぶ。コーダの末尾は、無垢な子どもが寝入っていくようで、幸福な感情に満たされる。「或る語りかけるような表情で」と冒頭に示されている通り、歌曲的な旋律ではなく、叙唱(レチタティーヴォ recitativo)に近い表現で書かれている(同じ年に出版されたピアノ・ソナタ第17番ニ短調テンペスト」作品31-2には、まさにレチタティーヴォそのものがある)。ベートーヴェンは言葉なしに音のみで語ることが可能であり、むしろ言葉よりも雄弁に音で語る。
第7番 Op.33-7 変イ長調
Presto 極めて速く

構成はA+B+A’+B+A’’+コーダ。打ち上げ花火のような勢いと華やかさを持つA部分と、捉えどころがなく浮遊するような分散和音によるB部分が交互に現れ、コーダはA部分の素材によってできている。A部分は重音連打がppで続き、第13小節目からのcresc.で一気に盛り上がる。この重音連打は、1803年(バガテル作品33が出版された年と同じ)~1804年に作曲が行われていたピアノ・ソナタ第21番ハ長調ヴァルトシュタイン」作品53の第1楽章冒頭を連想させる。A部分が繰り返されるごとに細分化されていく様子も、同ソナタの第1主題の変奏方法に似ている。B部分のバスを長いペダルで響かせ続ける幻想的な書き方は、同ソナタの終楽章を思わせる。曲集の最後を飾るに相応しい、躍動感に溢れた曲である。
