成立背景
Op. 16はベートーヴェンのヴィーン時代初期の室内楽作品であり、同時にこの編成での創作は、彼の生涯で唯一、この作品だけである。ヴィーンのモロ社から初版が出版された際には、ピアノ・パートと管楽器パートに加えて弦楽器3パートも同時出版された。つまりピアノ五重奏曲とピアノ四重奏曲の二つの編成から、奏者が演奏形態を任意に選べるようになっていたのである(ピアノ・パートは両編成に共通)。ただし公開の場では管楽器を伴う五重奏曲で演奏されたので(後述)、五重奏ヴァージョンが原曲、四重奏ヴァージョンを編曲とする見方が主流のようだ。弟子のフェルディナント・リースによれば、四重奏ヴァージョンの弦楽器パートも作曲家自身の手で作られたという。恐らく販促のためだろうが、管楽器の曲を弦楽器用に編曲する例が他にもあることからも(ベートーヴェンの作品ではop. 17のホルン・ソナタがチェロ・ソナタとしても出版された)、五重奏ヴァージョン原曲説の有効性は補強されるだろう。
作曲は1795から96年に東欧を通ってベルリンへ旅行した最中に行われた。旅程にはプラハも含まれており、作曲契機はプラハ在住の人物から委嘱を受けたから、という説もある。ベートーヴェンが各滞在先で聴衆の賛を受けていた事実を踏まえれば、委嘱作品だという可能性もゼロではなさそうだ。
一方、ベートーヴェンの友人であるアマチュアのチェリスト(といってもその演奏技術は秀でていた)、ニコラス・ズメシュカルが、当時は未出版だった同じ編成のモーツァルトの五重奏曲K. 452の手稿譜を所持していたことから、ズメシュカルがop. 16の受取人だという見解もある[1] 。また、作品はヴィーンの主要な音楽パトロンであるシュヴァルツェンベルク侯爵に献呈されている。侯爵の擁していた管楽バンドは著名であり、その団員のオーボエ奏者、ゲオルグ・トリーベンゼーの息子ヨーゼフ・トリーベンゼーがop. 16の再演(1798年、ブルク劇場)に出演したことを考えると、シュバルツェンベルク侯爵のために書かれた可能性もあろう。
公開初演は1797年4月で、ベートーヴェンの友人のヴァイオリン奏者、イグナツ・シュパンツィクが主催したアカデミーにて取り上げられた。演奏会場になっていたヤーンのレストランがあったのは、現在ヴィーン一区にあるカフェ・フラウエンフーバーの位置であり、カフェの壁には演奏会場だったことを示す碑がある。
音楽の解説
Op. 16は序奏つきソナタ形式楽章、緩徐楽章、ロンド終楽章という楽章構成および主調に変ホ長調を選択している点がモーツァルトのK. 452と共通であり、このこともベートーヴェンがモーツァルトの作品を見本にした可能性を高める。だが形式の細部や声部配分法は別様で、モーツァルトの模倣に終わってはいない。特に従来の管楽ハルモニーの娯楽性とは一線を画している。
また18世紀の伴奏付き鍵盤ソナタの域を脱した自律的な管楽器の扱いは、ヴィーンで出会った管楽器奏者だけでなく、ボン時代からオーボエ奏者のリービッシュやウェルシュ、ホルン奏者ジムロックなどと交流した経験の賜物かもしれない。
全体を通して見ると、op. 16は管楽器の主体性も十分に認められる反面、楽章の構成にはピアノ協奏曲めいたところもある。第1楽章を例にとると、提示部ではピアノと管楽器が交替で主要主題の旋律を提示していたのに対し、再現部では両者が掛け合いのように旋律を紡いでいく。この様子は、再現部の主題でピアノと管弦楽がインタラクティヴな関係になる協奏曲のソナタ形式と似ている(ただし協奏曲の提示部では管弦楽のみの提示部が先行する)。コーダの前にピアノによるカデンツァ風の即興的なパッセージが挿入される点も協奏曲的である(他の楽章にも、ピアノがセクションの区切りで即興的なパッセージを披露する協奏曲的な部分がある)。リースの言によれば、私的演奏会でベートーヴェンがピアノ・パートを務めた際、第3楽章のロンドではたびたび勝手に即興演奏を入れてしまったと言う。ピアニストとして名声を高めていた最中だった頃の作曲であることを踏まえれば、上記のような協奏曲的要素を盛り込み、op. 16も自身が演奏するピアノに華を持たせて、ヴィルトゥオーゾとしての腕を誇示しようと目論んでいたとしてもおかしくないだろう。
ベートーヴェンの管楽器のための室内楽創作の枠組みで見ると、op. 16に先立ってオーボエとイングリッシュ・ホルンのための三重奏曲(op. 87とWoO 28、ともに1795年(op. 87は推定))、クラリネット、ホルン、ファゴットのための六重奏曲op. 71(1796年)が書かれていることから、この時期のベートーヴェンが管楽器のための小編成に多少なり創作力を注いでいたことが分かる。もしかしたら良い奏者と出会い、それが創作へ繋がっていった可能性も考えられよう。