この変奏曲は、op. 34と共にベートーヴェン自身が出版社ブライトコプフ・ウント・ヘルテルBreitkopf&Härtelに宛てて「全く新しい方法」で書いたと豪語した変奏曲である。ベートーヴェン本人が書簡で以下のようにそれまでの変奏曲とは区別する意味で作品番号を付けると述べ、その旨をオリジナルの出版譜に付けてくれと頼んでいる。
da diese V. sich merklich von meinen frühern unterscheiden, so habe ich sie, anstatt wie die Vorhergehenden nur mit einer Nummer (nemlich z. B.: No 1, 2, 3, u.s.w.) anzuzeigen, unter die Wirkliche Zahl meiner größern Musikalischen Werke aufgenommen, um so mehr, da auch die Themas von mir selbst sind.
これらの変奏曲は私の以前の変奏曲とははっきり異なるので、これらに、先行する変奏曲のように単に番号をつけて示す[「変奏曲第1番」、「変奏曲第2番」のように]代わりに、私のもっと壮大な音楽作品の正真正銘の番号[作品 Opus 番号]に取り入れました。こうしましたのは、どちらの変奏曲の主題も私自身によるものなのですから、なおのことです。
出版社に宛てた宣伝文句は、ハイドンが自身の弦楽四重奏曲op. 33を「作品を全く新しい方法で書いた」と述べた時と似たような語調であり、作品を魅力的に売り込もうという時の過剰なアピールと取られてしまうかもしれない。しかし音楽の内容を見れば、ベートーヴェンが本当に一風変わった作曲法をとっていたことがわかる。
一方、出版社宛の手紙には、ベートーヴェンが幼馴染のアントン・レイハが同時期に書いた理論的な作品であるフーガを批判した文章もある。レイハも自身のフーガについて「新しいやり方」と記しているから、ベートーヴェンの文句はレイハに対する反応でもあろう。しかし二人の作曲家が互いの作品に刺激されていたのは疑いない。なぜなら、昨今の研究によってベートーヴェンのop. 34の作曲法の一部にレイハのフーガとの共通点が指摘されており、その一方でベートーヴェンの変奏曲の後に出版されたレイハの《57の変奏曲》op. 57(理論的、教育的側面の強い作品)にはベートーヴェンのop. 35との類似性が認められているからだ。作曲家同士、近しい関係にあればどんな作品を書いているのか逐一チェックしている様子が推測できて興味深い。
概略図
| Tempo | 備考 |
Introduzione-Tema | Allegretto vivace (2/4) | (変ホ長調) col Basso del Tema”→ A due→A tre→A quattro→Tema |
Var. 1 | -presto-Tempo I. | |
Var. 2–6 | | |
Var. 7 | | "Canone all'ottava"(オクターヴのカノン(ただし不完全なカノン)) |
Var. 8–13 | | |
Var. 14 | | 変ホ短調の"Minore" |
Var. 15 | Largo (6/8拍子) | "Maggiore." (40小節、第32小節目から”Coda”) |
Finale. Alla Fuga | Allegro con brio-adagio-Andante con moto | 全体で205小節 |
*各変奏のテンポ、拍子、調、小節数:特筆なしの変奏では主題と同じ。
Introduzione〜Tema
この変奏曲の主題は、交響曲第3番「エロイカ」の終楽章の主題として馴染みがある人が多いかもしれない。しかしオリジナルはバレエ《プロメテウスの創造物》op. 43の終曲としてベートーヴェンが作曲したコントルダンスであり、ベートーヴェン自身も、出版社への手紙でプロメテウスを元にしたことを明示してくれと要請している(結局この依頼は実現されなかった)。すなわち成立年代順にすると、バレエ→ピアノ変奏曲→交響曲エロイカとなる。
Op. 43はベートーヴェンのウィーン初期の作品の中でも特に人気の出た作品である。18世紀後半から19世紀初頭の変奏曲のうち主流となったタイプの一つは、人気のある舞台作品から主題をとるというものだった。その観点からすれば、Op. 35は「自作主題」に基づくとはいえ、時流に則した変奏曲のタイプだったと言える(ただし以下の通り構造は異例)。
Introduzione詳説
この変奏曲が異例であるのは、作品の冒頭で主題旋律が提示されるのではなく、主題のバス声部だけが示されることである。そこから次第に声部が増えていき、「Tema」と示された部分でようやく《プロメテウス》の主題旋律が現れる(Tema以前の部分はIntroduzioneと書かれていることからも、ベートーヴェンの意識的区別が窺える。そしてIntroduzioneの中に、ソプラノ主題の旋律の輪郭が含まれているのである)。
また、この主題構成が非常に計画的であることも研究者L. Ringerに指摘されている。Introduzioneにおいてバス声部の進行は、和声変化の点でも、音価の点でも、冒頭から次第に加速しているのだが、これはそのあとに続くdue, tre, quatroでも次第に基本となる音価が短くなっていることと対応しているのである。ベートーヴェン自身が、IntroduzioneからTemaまでの部分およびFugeを「ヴァリエーションではない」と明言していることからしても、作品の全体が典型的な「主題と変奏」タイプから意識的に乖離するよう構成されているのは確実である。
変奏〜Alla Fuga
Introduzione~Temaの後には15の変奏が続くが、その後にさらにフーガが加わる点が、この作品の変わったところである。この全体の構成に当てはめて変奏部分を見ると、導入と変奏部分、フーガの間に組織的な繋がりが読み取れる。
まず、ヤンツJanzという研究者は、全体を以下の3部分に分けて解釈している。
1. 導入から主題の部分(Introduzione~Tema)
2. 変奏(第1〜13変奏。従来の変奏曲と大差ない)
3. フーガ(第14、15変奏は最終フーガへの「前奏Präludium」)
おそらくヤンツは、J. S. バッハの《平均律クラヴィーア曲集》のようなプレリュードとフーガのモデルを意識しているのだろう。確かに第14変奏は唯一の短調変奏で、他の変奏とは区別されうるし、ここでは冒頭で示された主題のバス声部が、改めて極めて明確に提示される。また、第14変奏の最後の部分は第15変奏への繋ぎとなるソプラノの音階上行になっており、二つの変奏をセットで捉えることにも無理はない。
第15変奏は、ゆったりしたLargoにテンポが落ち、「Präludium」すなわち前奏曲を思わせる即興性が強い。さらに主題の小節数と同じ16小節が演奏された後に、繋ぎとなる部分が設けられている。
以上の点から、第14、15変奏をフィナーレ・フーガへ繋げる部分と捉える見方にも妥当性があると言える。
フーガの構成
1-65 | 65-77 | 78-89 | 90-106 | 107-132 | 133-164 | 165-196 | 196-205 |
3声フーガとエピソードの交替 | 主題変形縮小 | エピソード | 転回フーガ | エピソード | 変奏曲主題 (右手) | 変奏曲主題 (左手) | コーダ |
Allegro con brio | | | | adagio | Andante con moto | | |
フーガで主題として用いられるのは、Introduzioneの冒頭に示されたバス音型が主だっているが、Temaで現れる《プロメテウス》主題も途中で現れる(図中の「変奏曲主題」)。ベートーヴェンはこの長大なフーガで、主題の変形、縮小、転回といった多様な対位法の手法を取り入れている。演奏者は主題がどこにどのような形で再現しているのか探し出し、意識的に演奏する知的作業が求められるだろう。
先述の通り、ベートーヴェンはその後に完成させた交響曲第3番「エロイカ」の終楽章でも、同一の主題と類似の作曲法を用いている(全体の構成は異なる)。当時の人々が、人気のバレエを聴き、変奏曲を聴き、そして交響曲を聴いた時、それぞれの段階でどんな感想を抱いたのか。オリジナルの変容を楽しんだのか、オリジナルとは異なる方向へ音楽が進んで驚いたのか。素材の再利用という点でも興味深い作品である。(参照:ピティナ読み物・連載『編曲と音楽、その歴史』より「8. 編曲のありかた」)
参考文献
Ringer, Alexander L. “15 Variationen Es-Dur für Klavier „Eroica-Variationen“ op. 35“, in: Ludwig van Beethoven. Interpretationen seiner Werke. Rietmüller, Albrecht / Dahlhaus, Carl / Ringer L., Alexander (Hrsg.) 3. erweiterte Aufl. Laaber: Laaber 2009, S. 279–289.
Edler, Arnfried. Gattungen der Musik für Tasteninstrumente. Bd. 2. Von 1750 bis 1830. Laaber: Laaber 2003.
Janz, Tobias. “Selbstreflexion einer Gattung. Die Variationen ab 1802“, in: Beethovens Klavierwerke. Hein, Hartmut / Steinbeck, Wolfram (Hrsg.) Laaber: Laaber 2012 (Das Beethoven-Handbuch 2), S. 421–481.