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チェルニー(ツェルニー) 1791-1857 Czerny, Carl

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解説:上田 泰史  ( 3609文字 )

更新日:2011年5月13日

18世紀末のフランス革命は西洋社会のあらゆる側面に根本的な変化をもたらした。一連の革命を通して権力を手にした一部の民衆によって王権神授説に基づく権力システムは破壊され、現実世界は市民による議会政治を通して変容し向上しうるものと考えられるようになった。同じころ、イギリスに端を発する産業革命の波はヨーロッパ中を席巻した。資本主義に目覚めた市民は次々に会社を興し、工場の機械化を推し進め自動的・効率的に製品を生産し流通させる仕組みを整えていった。産業社会の発達が幸福と豊かさに満ちた理想世界をもたらすと信じる人々にとって、勤労は神の救済に代わる信仰の対象となり、生活を律する美徳となった。

カール・チェルニーはまさに初期産業化社会が生み出した近代的勤労の権化である。66歳という決して長くはない生涯のうち、優に千を超す作品を書いたチェルニーの出版作品は通し番号にして861に上る。今日、彼はピアノ学習者に必須の練習曲作曲家としてしか知られていないが、練習曲や指の練習の教材は全作品のほんの数パーセントを占めるに過ぎない。作曲家チェルニーは少なくとも12曲の独奏ピアノ・ソナタ、10曲以上の交響曲、9曲以上の弦楽四重奏、その他幾つもの宗教曲、ピアノ協奏曲、ピアノ三重奏をはじめとする室内楽、全作品の大部分を占める無数のピアノ変奏曲やロンド、性格小品などあらゆるジャンルを手がけた。 驚くべきことにこれほどの仕事をしながら、交響曲やソナタなど彼の大規模作品はいずれも師であるベートーヴェンに勝るとも劣らぬ高度な書法を示している。これまで、彼の作品の全体を捉える試みは幾度か成されたが、その道のりはあまりに険しく完全な作品目録は未だに完成を見ない。

彼の門弟には1810年世代の主要なピアニスト兼作曲家たちが名を連ねる。なかでもフランツ・リスト(1811~1886)を筆頭としてS. タールベルク(1812~1871)S. ヘラー(1813~1888)Th. デーラー(1814~1856)L. v. マイヤー(1816~1883)、Th. クッラーク(1818~1882)、ルイ・ラコンブ(1818~1884)Th.レシェティツキー(1830~1915)はいずれもピアノの黄金時代を築いたピアノ音楽の巨人あり、とりわけリスト、クッラーク、レシェティツキーは教育においてチェルニーの伝統を独自のかたちで後世に伝えた。さらにチェルニーの孫弟子は数知れず、H. v.ビューローA.シュナーベルなど19世紀後半から20世紀前半に活躍し、今日のピアノ演奏法に多大な影響を与えたピアニストたちが多勢存在する。

作曲、ピアノ演奏法の両面でベートーヴェンとリストを中継する肝心要のこの音楽家は、その名が広く知られていながらその実態は全く知られていないに等しく、「30番」や「50番」などの教材でしかチェルニーを知らない我々は、まだこの巨人のほんの爪の先を見ているにすぎない。

カール・チェルニーはモーツァルトがウィーンで没する約9カ月前、2月21日に同じオーストリア帝国の首都で誕生した。その名が暗示する通り、彼の父はボヘミアの出身で、モラヴィアで出会った妻と共にウィーンに定住した移民だった。したがってチェルニーの家庭ではチェコ語が話され、ドイツ語、フランス語、イタリア語はその後に修得した。勤勉で禁欲的な父の下でピアノを始めたチェルニーは学校に通うことなく他の子どもたちから隔絶された環境におかれ、両親によくしつけられた。早くから享楽への諦観と孤独、勤勉さを友とする彼にとって、一人ピアノに向き合い過去の作曲家のスコアや理論書、学術書を読みあさることはしごく当然の習慣となっていった。1800年、父に連れられベートーヴェンに面会、弟子入りし彼の演奏をしばしば間近に聴く機会を得た。だが作曲に忙しいベートーヴェンはレッスンを断ることも珍しくなく、レッスンのない期間、チェルニーはバッハスカルラッティクレメンティ、ベートーヴェンの楽譜を一人黙々と演奏し、あるいは筆写しては作曲の腕を磨いた。1800年、9歳の時にすでにウィーンでモーツァルトの協奏曲を演奏するまでピアノ演奏に熟達しており、続く数年は神童としてモーツァルトの未亡人コンスタンツェや貴族のサロンに出入りしてフンメルら一流の音楽家たちと演奏した。ピアノのスター演奏家になるよりも、深い教養をもつ教育者、作曲家のほうが性に合うと考えたチェルニーは15歳の時からピアノを教え始めた。やがて彼のもとには多くの生徒が通うようになり、1816年には朝8時から夜8時まで1日12時間のレッスンを行い、夜には作曲に没頭する習慣がついた。この激務を彼は1836年にレッスンをやめるまで20年以上に亘って継続した。

ほどなくチェルニーはフランス、ドイツ、イギリスでも当代最高のピアノ教育者として知られるようになり、彼の下には各国から未来のピアノ楽壇の旗手たちが集まった。1822年、フランツ・リストはチェルニーの門を叩き、短期間ではあったが翌年パリに移るまで住み込みで無償のレッスンを受けた。チェルニーのレッスンでは運指や指の鍛錬ばかりではなく、作品解釈、暗譜、即興など音楽家に必要とされるあらゆる側面が扱われた。チェルニーは学習を半ばにしてリストがパリに連れて行かれることをひどく残念がったが、リストはチェルニーに対して絶えず恩義を忘れることなく自身の《超絶技巧練習曲集》(1851)を献呈し、チェルニーの方も幾つかの作品(作品471、856)をリストに捧げた。チェルニー宅には弟子以外の来客もあった。ショパンはチェルニーに弟子入りこそしなかったものの、29年と30年にチェルニーを訪れ共に演奏を楽しんだ。ショパンはウィーンの大家にそれほど魅了されることはなかったようだが、チェルニーはその後ショパンに《8つのスケルツォ》作品555を献呈している。

学校教育を受けなかったチェルニーは、ピアノ演奏・作曲にかんする偏りのない知識を取り入れるためにパリ音楽院で使用されていたルイ・アダンの《ピアノ・メソッド》(1805)やアントニン・レイハの作曲教程を独訳したほか、1830年代にはJ. S. バッハの《平均律クラヴィーア曲集》、D. スカルラッティのソナタをはじめとする鍵盤作品、ベートーヴェンのピアノ・ソナタを校訂した。バッハをはじめとする17,18世紀の鍵盤作品は、家庭用のサロン音楽が流行する当時にあってはそれほど一般に知られていなかったが、チェルニーはその価値を問いかけると同時に、また自らもソナタやフーガを作曲することによって自身を鍵盤楽器の「偉大な伝統」の中に位置づけようとした。今日、フレージングやメトロノームの速度表示などが書き加えられた「チェルニー版」のバッハやベートーヴェンは、19世紀の演奏観を知る上で多くの示唆を与えてくれる資料として研究者の関心の的となっている。

チェルニーは、過去と現在のピアノ奏法に関する注意深い眼差しと勤勉さによって、パリ音楽院のような国家的機関の向こうを張るだけの教育体系を唯一人で確立した巨人である。チェルニーの教育法の集大成である大著《完全ピアノ教程》作品500 (全三巻、1839)、バッハからヘンデル、ベートーヴェン、リスト、ヘラー、E. ヴォルフにいたる作品の抜粋をまとめた《さまざまな練習曲の練習―華麗なパッセージの百科事典》(全四巻、c.1843)は古今の鍵盤作品にかんする彼の膨大な知識と洞察を示している。そこに見出すことができるのは、無味乾燥な機械的パッセージを強いるサディスティックな教育者の姿ではなく、きわめて知的な精神、論理的、体系的な思考をもち、ピアノ音楽を通して生徒を一個の人格者に高めようとする気高き「ピアノの父」チェルニーの姿である。

1850年代の半ばから、長年に亘る過労の蓄積から彼の健康状態は急速に悪化していった。以前にもまして家に引きこもりがちになった晩年、彼はそれでも勤勉でありつづけ、作曲の手を止めなかった。1857年、複数の病を併発し、痛風で手が動かせなくなってついに作曲の筆を折った。それから幾月もたたないうちに、チェルニーは7月15日、この世を去った。遺産は、遺言に基づきウィーンの楽友協会、聾唖学校など複数の芸術・慈善団体に寄附されることとなった。今日、彼が著した自伝の自筆原稿、多数の自筆譜などの主要資料はウィーン楽友協会が保存しているが、その価値が問われ始めたのはようやく最近になってからのことである。15歳で最初の交響曲を書き、以後自在にピアノ、オーケストラ、合唱を扱う技法を深めていった芸術家チェルニーを知ってから改めて彼の練習曲をみると、それらはこれまでとは全く異なるものに映るに違いない。

執筆者: 上田 泰史 
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解説 : 朝山 奈津子 (164文字)

更新日:2007年5月1日
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