スクリャービン 1872-1915 Scriabin, Alexander
解説:野原 泰子 (1130文字)
更新日:2007年6月1日
解説:野原 泰子 (1130文字)
ロシアの作曲家、ピアニスト。帝政末期のモスクワに生まれる。父は外交官、母は有能なピアニストで、1歳の時に母が病死したため、父方のおばに育てられる。陸軍幼年学校に通いながら、83年にゲオルギイ・コニュスにピアノを師事。84年からズヴェーレフの音楽寄宿学校でラフマニノフらと共に学び、翌年からモスクワ音楽院の院長タネーエフに理論や作曲を学ぶ。
モスクワ音楽院(88年入学)ではピアノをサフォーノフ、理論や作曲をタネーエフやアレンスキーに学び、卒業(92年)と同時にコンサート・ピアニストとしての活動を開始。94年にパトロンのベリャーエフに出会う。彼はスクリャービンの創作や演奏活動を支援し、彼の死後(1904年)も1908年までの作品がベリャーエフ出版から世に送られた。
97年にピアニストのヴェラ・イサコヴィチと結婚。98年からモスクワ音楽院でピアノを教え、この時期に管弦楽曲(交響曲第1~3番)が集中的に手掛けられる。1902年頃から哲学や神秘思想への傾倒を深め、翌年には音楽院を辞し、《ピアノソナタ第4番》や《交響曲第3番》「神聖な詩」、多数のピアノ小品が一挙に書かれる。これらは初期のショパンらの影響を伺わせる後期ロマン派的な作風(~op.29)から、より独創的な中期の作風(opp.30~57)への転換を告げる作品群で、ピアノ小品に関してはノクターンやマズルカなどに代わり、「詩曲」が書かれるようになる。1904年から6年間はスイスやブリュッセルなどに拠点を移し、後に妻となるタチヤナ・シリョーツェルとの生活を始める。
1905年にブラヴァツキーの神智学に出会い、その教理を取り入れながら自らの思想を固めてゆく。最後の管弦楽曲《プロメテウス》(1909~10)は、後期(opp.58~74)の最初の代表作で、「色光ピアノ」(打鍵により着色光を放射する)を導入することで、彼の目指す諸芸術の統合を部分的に実現した。この作品は全曲が「神秘和音」から作られているが、後期の作品群では、ある音組織から和声と旋律の双方を紡ぎだしてゆく手法がとられている。
スクリャービンは中期以降の創作と並行して、長年にわたり《ミステリア(神秘劇)》の構想を温めてきたが、それはあらゆる分野の芸術や自然をも取り入れ、芸術の魔術的な作用によって、全人類をも巻き込む宇宙の進化を促すという、かくも壮大なものだった。1913年頃から、その予備的な作品《序儀》に着手したが、突然の死が終止符を打った。しかし《ミステリア》の根底にある思想は、創作活動の全体に浸透しており、とりわけ後期の作品群(《プロメテウス》や《ピアノソナタ》第6~10番など)では、その思想と独自の音楽語法は不可分な関係にある。
作品(80)
ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ) (1)
協奏曲 (2)
ピアノ独奏曲 (16)
ソナタ (11)
曲集・小品集 (8)
練習曲 (3)
前奏曲 (16)
即興曲 (4)
マズルカ (5)
ワルツ (4)
ノクターン (2)
性格小品 (16)