スクリャービンは初期から中期にかけて、マズルカのリズムによる楽曲を断続的に作曲した。スクリャービン作品に先行するピアノ小品としてのマズルカの代表例が、ショパンのそれであることは論を俟たないが、ロシアでも、チャイコフスキーやボロディンやリャードフの手によりしばしばマズルカが作曲されていたことも、スクリャービンのマズルカの成立にとって重要なファクターである。ピアニスト兼作曲家としての偉大な先達であるショパンと、貴族の子息としての勉強やモスクワ音楽院での学習によって得たロシアの音楽的伝統、これら両者を追いかける形で、スクリャービンは作曲家としての第一歩を踏み出したと言ってもいいだろう。
作品3のマズルカ集は一貫したツィクルスとして構想されたものではなく、1887〜1890年にばらばらに作曲されていたマズルカを、おそらく出版の機会にひとつにまとめたものである。本曲集は、ワルツ作品1、作品2からの練習曲、2つのノクターン作品5とともにユルゲンソーン社と「印税なし」での出版契約を交わし、20歳のスクリャービンが1893年に初めて出版した作品の一つとなった。なお、本曲集の楽曲の何曲か(例えば第4番、第6番、第10番)は、スクリャービンが最晩年になっても自身のリサイタルでしばしば演奏したことでも知られる。
第1番(ロ短調、テンポ・ジュスト)
1887年11月に作曲された、スクリャービン16歳時の作品。主部ではB音のペダルに乗せて、装飾に満ちた旋律が奏でられたのち、冒頭の動機を用いたカノンがそれに対比される。伴奏の増2度や増6度の多用により、緊張感が生まれている。トリオではト長調に転調して生き生きとした楽想が繰り広げられる。
第2番(嬰ヘ短調、アレグレット・ノン・タント)
冒頭主題はアーチ型の旋律と、左手と右手で呼応するような付点リズムが特徴的。和声面では、長く引き伸ばされた不安定なドミナント和音が最後トニックに落ち着く、という進行による。イ長調の副次部分では三連符や腕の交差を伴う幅広い音域が特徴的で、スクリャービンのピアノ書法の萌芽を味わうことができる。短いニ長調のトリオでは、マズルカの活発なリズム感が前面に躍り出る。
第3番(ト短調、アレグレット)
トリオを欠く小規模なマズルカ。冒頭は高音での繊細な旋律が主軸となっており、対比的な副次部分は力動感のある上行分散和音が主役を担い、反復されつつ変容していく。楽曲の結尾でも、冒頭楽節の後半部分に基づく音形が用いられている。
第4番(ホ長調、モデラート)
前曲から一転してやや大規模な構築感を持つマズルカ。冒頭で演奏される素朴な単旋律は長調の主要部分では右手の高音で、短調の副次部分では左手で演奏され、主部の主役を担っている。トリオはそれ自体が三部形式をなしており、対位法的なテクスチャによるダイナミックな旋律とオクターヴによる伴奏が対置されている。短いが華麗なコーダも特色。
第5番(嬰ニ短調、ドロローソ)
カノン調に導入される主題は、ルバートと左手の半音階的進行により、情感を掻き立てる。他の楽曲に比べるとテクスチャは薄いが、マズルカ的なリズム感が徐々に前面に現れてくる。副次部分は低音からゆっくりと上行していく旋律と、半音階的な伴奏の和声とが表現豊かである。トリオでは嬰ト単調へと転調し、中声部で保続されるD♯音に乗せて、旋律が伸びやかに歌われる。
第6番(嬰ハ短調、スケルツァンド)
主部は、単一の短い旋律動機に基づいている。冒頭部分では、標示通り「諧謔的」で軽やかな伴奏に乗せ、動機がまず左手で、次に右手で奏でられる。副次部分ではややテンポを早め、同じ旋律動機が軽やかに変奏される。嬰ト短調のトリオは一転して、中声部で奏でられる半音階下行により豊かな情念が生じる。
第7番(ホ短調、コン・パッシオーネ)
冒頭の主題は半音階下降と減7度の上行を軸としている。旋律のリズムは素朴だが、それだけに用いられている音程の独特な色彩が引き立つ。主題の反復部分では中声部に対旋律が加えられ、音楽に陰影が生みだされる。対比をなすハ長調のトリオは、ダイナミックな伴奏形が際立っている。ソ連のスクリャービン研究家ルプツォーヴァは、このトリオにワルツ的なリズムが用いられていると指摘しており、それこそがショパンやリャードフのマズルカに見られないスクリャービンのマズルカの特色だとしている。
第8番(変ロ短調、コン・モート)
楽曲の特色となっているのは、主題冒頭の伴奏の2分音符や、冒頭主題の旋律の1音目と3音目で間接的に生じている増二度によって生まれる緊張感であろう。主部の後半でそれらが時間をかけて解決される。変ニ長調のトリオでは旋律が左手に移り、長いアーチを描く。ルプツォーヴァは、このトリオでも前曲と同じくワルツのリズムが採用されていると述べている。
第9番(嬰ト短調)
主部冒頭の下行旋律は、中音部で奏でられるシンプルなリズムと四声体による伴奏の和声と相まって、端正で洗練された雰囲気を楽曲にまとわせている。ロ長調に移る副次部分は、冒頭こそエネルギッシュだが、反復された途端にピアニッシシモとなり、主部の全体の雰囲気を形づくっている。トリオのオクターヴによって奏でられる音域の幅広い伴奏と、同じくオクターヴでせり上がっていくような旋律の進行は躍動感がある。
第10番(変ホ短調)
主部の楽想には、小節毎に強拍で執拗に奏でられるC♭音によって不安定な印象が与えられている。この不安定さは32小節目の完全終止に至るまでまで持続し、楽曲の中で重要な役割を担う。まさしくこのC♭音によって楽曲が未解決のまま締めくくられることも重要である。副次部分にも冒頭旋律が動機として用いられているが、動きのある伴奏や声部の入れ替え、ゼクエンツにより、音楽の雰囲気は大きく変化している。ロ長調のトリオも三部形式をなしており、それぞれの楽想が調性的、楽想的、テクスチャ的に不安定な楽曲冒頭部分と鮮やかな対比をなしている。