この作品の成立について、詳しいことはわかっていない。2011年にムーズィカ社とユルゲンソーン社から刊行された批判校訂版の校訂報告では1891年の作品とされており、『ニューグローヴ音楽事典』(第2版)では1892年の作品とされているが、どちらの成立年も典拠がはっきりしない。
ただ、スクリャービン21歳の冬、1893年12月に《3つの小品》作品3の第2曲、第3曲とともに、自筆譜が出版者ユルゲンソーンへと送られていることから、成立は間違いなくそれ以前である。結局作品は自筆譜送付の翌々年、1895年になってようやく出版された。
「マズルカ」風「即興曲」という折衷的な題は、この楽曲のどのような性質をもって名付けられたのだろうか。まず、第1曲冒頭における、第2拍がやや長く、強調されるような主部の旋律や、同様に第二拍にアクセントの置かれる第2曲の旋律を見てみると、紛れもなくこれらの部分が「マズルカ」調であることがわかる。
このような特色を持ちながらも、この2曲が「マズルカ」ではなく、あくまで「マズルカ風即興曲」である理由は、その楽曲構造に見いだせる。「即興曲」というとシューベルトやショパンのそれがすぐ連想されるだろう。彼らの「即興曲」はおしなべて、A-B-Aのアーチ型の構造を持つ。このような構造を持つ楽曲は、AとBが対比的な性格を持っていることが多い。例えば、ショパンの《幻想即興曲》は、走句的なA部分と歌唱的なB部分からなっている。スクリャービンのこれらの楽曲も彼らの「即興曲」と同様に、A部分とB部分からなるアーチ構造をもち、両者の対比がなされている。具体的に言うなら、先述のように「マズルカ的」なA部分と、そうではないB部分、となる。このような形式的な特徴から、この楽曲は折衷的な題を持つのだと考えられる。
第1番:嬰ト短調
先述の「対比」は、A部分のマズルカ的、舞踊的な性格と、ロ長調のB部分の移り気な、あるいは瞑想的な性格とでなされている。和声は全体的に半音階進行が頻繁に見られる色彩的なものである。
第2番:嬰ヘ長調
やはりマズルカ的なA部分を持つが、第1曲とは異なり、より律動的なB部分とそれとが対比されている。和声の扱いは、第1番よりもむしろこちらのほうが巧妙で、単音から始まる冒頭からのバスはやはり半音階進行が主体の色彩的なものであり、嬰ヘ長調という主調への完全な解決は、第32小節に至るまで行われない。リズムも、A部分の末尾の4連符・7連符・8連符の出現や、B部分のシンコペーションなど、第1曲に比べると複雑な書法をとっている。