
解説:髙松 佑介 (4460文字)
更新日:2020年10月12日
解説:髙松 佑介 (4460文字)
フランツ・シューベルト(1797–1828)は――活動の拠点を求めてザルツブルクやボンからウィーンへと居を移したモーツァルトやベートーヴェンとは異なり――生粋のウィーンの音楽家であった。シューベルトの生まれた頃、ウィーンでは啓蒙君主ヨーゼフ2世による単独統治期(1780–1790)に育まれた「音楽都市」としての土壌が確立しており、彼は生涯を通して基本的にウィーンを離れなかったのである。
短命で知られるシューベルトの生涯は、便宜的に3つに分けることができる。この区分に沿って、彼の活動の軌跡を辿ってみよう。
初期(1797–1818)
シューベルトは1797年、学校教師の父のもとでウィーンに生まれた。当時のウィーンには中世以来の市壁があり、中心部と周縁部を分け隔てていた(この市壁は1858年から取り壊され、現在は「リングシュトラーセ」という環状道路になっている)。シューベルトが生まれ育ったのはリヒテンタール教区という周縁部の住宅街にあたるが、1810年にウィーン全体で25万人もの人口があったことを考えれば、ドイツ語圏において当時最大の都市圏で生活していたことになる。
父の学校に入学した1803年頃、シューベルトは父や兄から音楽を習い始める。音楽の才能を遺憾なく発揮したため、リヒテンタール教区教会のオルガン奏者の手に渡り、彼もまたシューベルトの才能に驚いたという。シューベルトは1808年、欠員の出た宮廷礼拝堂聖歌隊の試験に合格し、5年余りにわたって皇室王室寄宿制学校(コンヴィクト)で基礎教育から専門的な音楽教育までを十分に受けることとなった。彼はコンヴィクト内でも傑出した才能を示し、特別なレッスンを受けたようである。特に1812年からは宮廷楽長A.サリエリから対位法など作曲のレッスンを受け、コンヴィクト退学後も1816/17年頃までレッスンを続けたとされる。
完成形として現存する初めての曲が誕生したのは1810年5月1日のこと、4手のための《幻想曲》であった(O.E.ドイチュによる作品目録番号で「D 1」が付されている)。初期の作品の特徴は、基本的に家庭や学校といった内輪での演奏を念頭に作られた点にある。例えばピアノの連弾曲は友人や家族と、弦楽四重奏曲は父と2人の兄と家族4人で演奏されたと考えられる。
中期(1818–1823)
シューベルトは21歳の時に実家を離れ(1818年11月)、ウィーンの中心部へと生活圏を移した。これを「中期」の始まりと呼ぼう。中期では、それまでの家族や学校に代わって、友人サークルが彼の日常生活や創作活動にとりわけ重要な役割を果たすことになる。
音楽作品に目を向けると、この時期に生まれた曲は――シューベルトのトレードマークである歌曲は別だが――大部分が未完に終わっている。それゆえ1818年から1823年は「クリーゼの時期 Jahre der Krise」と名付けられ、いわゆるスランプ期と見なされることも多かった。しかし近年の研究では、シューベルトがこの時期に大規模な舞台作品に挑戦し、また器楽分野でも新たな様式を模索していたことが指摘されており――《鱒》で知られるピアノ五重奏曲(D 667)が1819年に完成していることを考慮すれば尚のこと――決して創作活動に行き詰まるような「スランプ」などではなかったことが分かっている。
シューベルトと舞台作品は相容れないように思われるが、彼はかなり早いうちからその広いレパートリーを聴き知っていたようだ。サリエリを通してイタリアの声楽ものを学習していたことはもちろんのこと、モーツァルトやグルックのオペラも知っていた。何より、1822年2–3月にウェーバーがウィーンに滞在した際にはシューベルトと会っているし、さらに1822年春にはロッシーニのオペラがイタリアを出てウィーンでも上演され、「ロッシーニ熱」がウィーンを席巻した。サリエリのもとでの修業を終えたシューベルトも、ロッシーニにのめり込んだことが知られている。このような背景に加え、当時作曲家として名や富を成すにはオペラのジャンルでの成功が必須だったことに鑑みても、シューベルトが舞台作品に挑んだことは自然な成り行きと捉えられるだろう。しかしながら、当時のオペラ界は宮廷やパトロンを巻き込んで陰謀が渦巻く独特な世界だったため、友人のツテを頼るしかないシューベルトにとって、そもそも限界があったようだ。それでも、舞台作品として少なくとも11もの作品を完成させ、未完の作品も7を数えるという事実には目を見張るものがある。
中期には、舞台作品のみならず器楽曲においても未完の作品が多い。これに関して確実な理由は明らかになっていないが、おそらく初期のように家族や学校ではなく、さらに広い範囲の聴き手に向けた大規模な楽曲を作るべく試行錯誤を重ねていたと考えられる。友人J.v.シュパウンの伝えるところによれば、シューベルトは「ベートーヴェンのあとに何ができるだろうか」と漏らしたとされており、彼の音楽的創造の前にベートーヴェンという大作曲家が立ちはだかっていたのは疑い得ないだろう。ベートーヴェンを見据えて大作品に耐えうる自らの新たなスタイルを確立する――それを目指して日々奮闘した時期だったのかもしれない。
中期において、市民作曲家として重要な出来事がある。楽譜出版だ。かつてシュパウンは、シューベルトがゲーテの詩に付した《魔王》(D 328)や《糸を紡ぐグレートヒェン》(D 118)を含む歌曲集を詩人本人に贈ったが、送り返されてしまった(1816年)。特にこれら2つの歌曲は徐々に人気を得るようになり、友人のA.ヒュッテンブレンナーとL.v.ゾンライトナーが出版社に持ち込んだことで1821年にそれぞれ作品1・2として出版された。これらは委託出版という形を取ったが、やがて出版社負担で次々に歌曲が世に出るようになり、シューベルトは「歌曲王」としての地位を築いたのだった。
器楽曲の分野では、《さすらい人幻想曲》(D 760)とともに楽譜市場へと一歩を踏み出した(1822年)。シューベルトに関する一般的なイメージを覆すようなヴィルトゥオーソ性を有する作品であることも然ることながら、ピアノ独奏曲の分野における当時の作曲家の「登竜門」とも言える「ソナタ」ではなく「幻想曲」で自らを売り出したことも注目すべきだろう。
シューベルトはおそらく1822年秋に重度の梅毒を患い、これが以後彼を蝕んでゆくこととなる。シューベルトは、現存する書簡では1823年2月28日に初めて病気に言及しており、同年秋にはウィーン総合病院に比較的長い間入院することとなった。すなわちシューベルトにとって、器楽曲分野における中期の奮闘が開花し、今日親しまれている作品群を次々と生み出した創作後期は、病魔との闘いと軌を一にしているのである。
後期(1823/24–1828)
シューベルトは1823–24年頃、オペラの分野では成功への先行きが見えないと判断し、舞台作品から器楽作品へと創作対象の転換を図った。これをもって、シューベルトの(早すぎる)「後期」が幕を開ける。(ただし、年による区分は便宜上に過ぎない。例えば上記の《さすらい人幻想曲》は、成立時期こそ少し早いものの、楽曲規模・出版の意図・作曲様式に鑑みれば他の後期作品と同列に扱ってよいだろう。)
何より作曲家自身、器楽曲に集中して取り組むという決意を友人に表明している。L.クーペルヴィーザーに宛てた1824年3月31日の書簡において、弦楽四重奏曲(《ロザムンデ》D 804・《死と乙女》D 810)や八重奏曲(D 803)を足掛かりとして「大交響曲への道」を目指すと明言しているのだ。さらにこの書簡では、近々ベートーヴェンが《第九交響曲》を初演する公開演奏会にも触れ、自身も大交響曲を公開の場で演奏したいと抱負を語っている(シューベルトは実際にこの演奏会を体験し、後には自身の公開演奏会も実現させた)。後期に見られるピアノ作品の長大さは、こうした大作品への模索という文脈の中でも理解できるだろう。しかもシューベルトは、ベートーヴェンのような発展性とは異なる次元で、楽曲の大形式を満たすことに成功したのである(「ピアノ曲総説」を参照)。
いずれにせよ後期には、中期における試行錯誤の成果として、シューベルトの音楽における様式転換が成し遂げられた、と概して捉えられよう。ピアノを含む後期の代表作として、有名なピアノ・ソナタ群はもちろんのこと、2つの《即興曲集》(D 899・D 935)と《3つのピアノ曲》(D 946)、4手のための《幻想曲》(D 940)、ヴァイオリンとピアノのための《幻想曲》(D 934)、《アルペッジョーネ・ソナタ》(D 821)、2つの《ピアノ三重奏曲》(D 898・D 929)、《冬の旅》(D 911)、《白鳥の歌》(D 957)などを並べてみれば、現在ピアニストのレパートリーに欠かせない傑作群がこの時期に矢継ぎ早に生み出されたことが分かる。
もっとも「後期」という言葉は、作曲家の成熟した境地を表しているかのように響く。いま挙げた諸作品を聴けば、空間性を拡大するような時間構造・壮大な叙事性・「死」の想起など、ある種の老熟した作風すら感じるのも確かだろう。だがシューベルトは、決して自らを熟しきったとは見なしておらず、常に新たな作曲様式を求め、亡くなるその時まで前進しようとしていた。1828年10月31日から病状が悪化したにもかかわらず、友人W.J.ランツに誘われて11月4日にジーモン・ゼヒターの対位法のレッスンを受けたという事実がこれを何より物語っている。そして病床でも、《冬の旅》の校正刷りに目を通していたと見られる。しかし、不幸なことに若き作曲家は同年11月14日にはベッドから起き上がれなくなり――友人どころか本人すら予想していなかっただろう――早くも11月19日に生涯の幕を閉じることとなった。
文献紹介
Dürr, Walther and Andreas Krause (eds.), 1997, Schubert-Handbuch, Kassel: Bärenreiter & Stuttgart: Metzler.
ヒルマー,エルンスト,2000,『大作曲家 シューベルト』,山地良造訳,東京:音楽之友社.
村田千尋,2004,『シューベルト』,東京:音楽之友社(作曲家◎人と作品シリーズ).
前田昭雄,2004,『フランツ・シューベルト』,東京:春秋社.
堀朋平,2016,『〈フランツ・シューベルト〉の誕生――喪失と再生のオデュッセイ』,東京:法政大学出版局.
ヒンリヒセン,ハンス=ヨアヒム,2017,『フランツ・シューベルト――あるリアリストの音楽的肖像』,堀朋平訳,東京:アルテスパブリッシング(叢書ビブリオムジカ).
ピアノ曲総説 : 髙松 佑介
(1287 文字)
更新日:2020年10月12日
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ピアノ曲総説 : 髙松 佑介 (1287 文字)
シューベルトのピアノ曲と向き合った際には――シューベルトの熱烈なファンになっていない限りだが――「長大で終わりが見えない」「暗譜が飛びやすい」といったネガティヴな印象を抱く向きも少なくないのではないだろうか。あるいは、ショパンのようなロマン主義の作曲家のドラマティックで華やかな楽曲と比較して、演奏効果を挙げにくいと考えるかもしれない。一体シューベルトのピアノ曲が何を目指しているか、それでは少し立ち止まって考えてみよう。
音楽評論の道を拓いたローベルト・シューマンが、シューベルトの交響曲第8番《大ハ長調》(D 944)について「天上的な長さ」と評したことはよく知られている。当時としてほとんど異例のこの長大さは、交響曲のみならず、特に後期のピアノ曲や室内楽曲にも特徴的に見て取ることができる。この長さは、シューベルトの音楽思考にとって、ほとんど不可欠なものであった。
シューベルトの音楽に関する論考において、ベートーヴェンとの比較は常に議論の的となってきた。例えばベートーヴェンの音楽が、緊張関係を駆使した論理的な形式に基づいて一般に「発展性」を指向するとすれば、シューベルトの音楽は対して「反・目的性」を指向すると指摘されている。これは、三度調を多用することで古典的な形式原則における緊張感を解体することを意味している(具体例は《ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調》(D 960)第1楽章の項を参照)。すなわち、シューベルトが目指した音楽づくりは、緊張感に満ちた「ドラマ」を作り出すことではなく、むしろ三度調への転調によってトニカ―ドミナントの緊張感を喪失させることにこそ見出せるのである。そのためシューベルトのソナタ形式では、提示部が3つの調領域を持つ例もしばしば見られる。この三度調への転調は、緊張感を削ぎ落とす役割をもつだけでなく、無限なる移ろいを聴き手に感じさせる。なぜなら、異名同音を用いて三度調関係を利用すると、遠隔調への転調が容易にできるためだ。
このように論理性や発展性の対極を目指し、移ろいを前景に押し出そうとした点が、おそらく暗譜の難しさや「終わりの見えない」印象へと繋がっているのだろう。こうした特徴は、音楽史に照らして見れば――例えばシューマンやブルックナーの先駆であることを想起すれば――決してネガティヴに捉えられるものでないどころか、まさにシューベルトがロマン主義音楽に大きな影響を与えた所以なのである。
ピアノ曲の成立上の特徴を見ると、初期において――「ピアノ・ソナタの年」と呼べる1817年を除いて――多くが未完成に終わっており、室内楽曲や交響曲とは異なるため注目される。中期も未完作品が多いが、《さすらい人幻想曲》(1822年)を皮切りに、上記のとおり楽譜市場へと活動範囲を広げた。それゆえ後期には、ピアノ・ソナタと並んで、《楽興の時》(D 780)や《即興曲集》(D 899・D 935)などの小品集も手掛けている。後期のピアノ曲では、とりわけ低音で不気味に響くトリルが特徴的である(《ピアノ・ソナタ第21番》や《即興曲作品90第3番》など)。
解説 : 朝山 奈津子
(839 文字)
更新日:2007年5月1日
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解説 : 朝山 奈津子 (839 文字)
ヴィーンの作曲家。あらゆるジャンルに作品を残したが、歌曲とピアノ曲は音楽史においてきわめて重要である。生活のため学校教師を務めながら作曲活動を始めた。やがて彼の才能を認める多くの友人に恵まれ、音楽家として自立するも、31歳で夭折。
ピアノ独奏曲は大別して、即興曲や幻想曲など自由な形式のキャラクター・ピース、ワルツなどの舞曲、そしてピアノ・ソナタがある。ピアノを用いた室内楽にも、五重奏曲《鱒》 D.667(1819)、アルペジオーネ・ソナタ D.821(1824)など佳作を残した。また歌曲においては、歌の旋律を和声的に支えるだけの従来の伴奏を脱却し、ピアノ・パートに深い音楽表現を与えて、歌とピアノのアンサンブルとも言える近代的なドイツ・リートを確立した。
ベートーヴェンよりも完全に一世代あとに生まれながらほぼ同時期に亡くなったシューベルトは、古典派ともロマン派ともその位置を定めがたい。現在のところ、ロマン派と呼ぶよりもヴィーン古典派に含めて語られることのほうが多い。確かに形式の面では古典を踏襲しているし、ロマン派的な標題をシューベルト自身が器楽曲に付すことはなかった。また、独特の美しい旋律も古典派の語法からかけ離れたものではない。が、たとえばソナタにおいて、ベートーヴェンが推し進めたような対比的な主題や動機労作よりも、和音の響きの微妙な変化そのものを課題とし、遠隔の調の音にあくまでさりげなく到達する手法には、すでにロマン派の音楽世界が開かれている。いってみれば「音色」を重視するこうした傾向は、シューマン、メンデルスゾーン、ブラームスなどの音楽により顕著である。しかし、これらの作曲家が古典派の形式の伝統に憧憬と尊崇をもって取り組んだのに対して、シューベルトにとってまだそれは異化されない、なかば同時代のものだった。シューベルトのロマン性は、古典的形式と協和音の美しさの奥に隠されている故に、聴くものに緊張感を与えない。まさに、二つの時代の結節点をなす音楽である。
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