ブルックナー 1824-1896 Bruckner, Anton
解説:齊藤 紀子 (778文字)
更新日:2008年9月1日
解説:齊藤 紀子 (778文字)
オーストリアの作曲家。少年の頃に、いとこのヴァイスに和声やオルガンの奏法を学んだ。10代の時に父親を亡くすと、ザンクト・フローリアン修道院で少年聖歌隊の一員として育ち、オルガニストのカッティンガーの教えを受けた。教員となり、亡き父と同じ道を歩み出したブルックナーは、結婚式や舞踏の集まりでヴァイオリンを弾くこともあった。また、オルガニストのツェネッティに師事し、教員として昇進しながらザンクト・フローリアン修道院のオルガニストも務めた。その間もピアノやオルガン、対位法の勉強を続け、ウィーンの宮廷楽長から「熟達した本格的なオルガニスト」という証明書を授与されるまでになった。レクイエムやミサ・ソレニムスの作曲も手がけている。この時創作したミサ・ソレニムスは、ウィーンの音楽理論家ジーモン・ゼヒターの弟子入りを認められる出来であった。しかし、ブルックナーが音楽家として身を立てる決意をするのは、1856年にリンツ大聖堂と市の教区聖堂のオルガニストに任命された1856年春のことである。司教の支持もあり、ゼヒターやリンツ劇場の楽長のもとで学ぶことができた。精神的な疲労から体調を崩したこともあったが、ウィーン楽友協会音楽学校で音楽理論とオルガンの指導にあたった。オルガニストとしての功績は、パリのノートル・ダム大聖堂での成功やロンドン世界博覧会のクリスタル・パレス(水晶宮)での演奏にうかがえる。
作曲家としてのブルックナーはワーグナーに傾倒していたが、表出するものとしては必ずしもワーグナーと重なるわけではない。むしろ、芸術観は異なっていたと考えられる。19世紀後半の最大の教会音楽家であると同時に、最大の交響曲作曲家として評価されている。《交響曲 第9番》の完成を待たずして他界したブルックナーは、ウィーンの幅広い層の市民も参加して盛大に葬儀が執り行われた。
作品(8)
ピアノ独奏曲 (3)
性格小品 (4)
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ピアノ合奏曲 (2)