ホーム > ブラームス

ブラームス 1833-1897 Brahms, Johannes

282
  • 解説:鄭 理耀 (10630文字)

  • 更新日:2019年4月27日
  • 生い立ち(1833-48)

    1833年5月7日、北ドイツのハンブルクにて、ブラームスは生まれた。父ヨハン・ヤーコプは、一族で初めて音楽の道に進んだ人物で、数々の楽器を学び、町楽師となった後、コントラバス奏者としてハンブルク市立管弦楽団に入った。母ヨハンナ・ヘンリーカ・クリスティアーネ・ニッセンは、良い家柄の出身であったが、両親の死から生活苦に陥り、針仕事や家政婦をしていた。二人は1830年に結婚。クリスティアーネはヤーコプの17歳年上であった。三人の子供に恵まれ、ヨハネス・ブラームスはその第二子(長男)である。弟のフリッツもヨハネスと同じく音楽家を志し、ピアニストおよびピアノ教師となった。ブラームス家は父親の収入だけでは十分でなく、母親も家計を助けながら、質素で慎ましい生活を送っていた。

    少年ブラームスは、父親に最初の音楽の手ほどきを受けた。家にはピアノがなく、彼が父から初めて学んだ楽器はヴァイオリンであったと思われる。7歳のとき、ハンブルクの著名なピアノ教師であったオットー・フリードリヒ・ヴィリバルト・コッセルに師事すると、ブラームスはめきめきとピアノの腕を上げた。1843年、10歳のとき、初めて公開演奏会に出演する。ベートーヴェンやモーツァルトらの室内楽のピアノ・パートや、エルツの練習曲を弾き、称賛を浴びた。同年、コッセルは自分の師であるエドゥアルド・マルクスセンのもとへ、ブラームスを連れていく。このハンブルク随一の名教師のもとで、ブラームスはピアノと作曲の両方を学んだ。この頃から、ブラームス家の生計の足しにするべく、夜のダンスホールでピアノを弾く仕事を始めた。

    青年時代(1848-56)

    1848年9月21日、15歳のブラームスは初めての独奏演奏会を開く。翌年4月にも、2度目の演奏会を開催した。バッハのフーガやベートーヴェンの「ヴァルトシュタインタールベルクの作品や自作の《幻想曲》を披露し、自身の存在を世に知らしめた。また、この演奏会で試演しているように、ブラームスはすでに作曲にも力を注いでいたが、初期の作品の多くは自己批判により破棄してしまった。この頃から、ブラームスの主要な作品が生まれる。1851年のピアノ曲《スケルツォ》op. 4をはじめ、《ピアノ・ソナタ第1番》op. 1および《第2番》op. 2が書き進められた。

    1853年は、ブラームスが20歳になる年で、その後のブラームスの音楽活動に影響を及ぼす重要な人物との交流が相次いで図られる年であった。1850年、ブラームスはハンガリーのヴァイオリニスト、レメーニ(本名エードゥアルト・ホフマン)の演奏を聴き、強く心を打たれた。すると3年後、レメーニからの要望で、ブラームスは彼の伴奏者として演奏旅行に同行するようになる。この道中、ブラームスはレメーニから直接ハンガリーの旋律や様式を学ぶことができた。この経験は、彼のハンガリーを題材とした創作に大きく作用した。そして、レメーニは1853年4月、同国のヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムをブラームスに紹介する。ヨアヒムは当時、リストのもとでヴァイマール宮廷楽団のコンサートマスターを務めたあと、ハノーファー宮廷のヴァイオリニストに就任していた。この大音楽家とブラームスは、互いの音楽を高く評価し合っただけでなく、私生活においても密に付き合い、長きにわたって深い親交を結んだ。同年6月、ブラームスはヴァイマールのリストを訪問する。彼はここで、自身の音楽とリストや「新ドイツ派」らの新しい潮流の音楽とは相容れないことを痛感する。9月、ヨアヒムらの勧めで、ブラームスはためらいながらデュッセルドルフのシューマン宅に向かう。なぜなら1850年、ブラームスはハンブルクを訪れたローベルト・シューマンに自作品を送り意見を求めたが、開封されることなく返送されていたのだ。しかし、シューマン家を訪問した際の対応は3年前のものとは全く異なり、シューマン夫妻は彼をあたたかく歓迎し、その卓越した演奏と作品に熱狂した。ここから、ブラームスとシューマン家との生涯にわたる濃密で複雑な関係が始まる。シューマンはブラームスに深く感銘を受け、訪問から間もなく、自身が創刊した雑誌『音楽新報』の10月28日号にて、「新しい道」と題した記事を掲載し、その若き音楽家を称え紹介した。そしてブラームスもまた、シューマンに尊敬の念を抱き、深い敬意を持ち続けた。ブラームスはこの年、これまでのソナタとは一線を画す音楽内容をもつ《ピアノ・ソナタ第3番》op. 5や、いくつかの歌曲を作曲した。またこの頃、シューマンの手助けもあり、《ピアノ・ソナタ第1番》op. 1から、《6つの歌曲》op. 6までが続々と出版され、ブラームスは作曲家としてもデビューを果たした。

    1854年、ブラームスにとって衝撃的な出来事が起こる。シューマンが精神障害からライン河へ投身自殺をはかり、ボン近郊エンデニヒの精神病院に収容されるのである。この報をきいたブラームスは、すぐに彼らのもとへ駆けつけ、その後2年間を一家のために捧げた。ブラームスはシューマン家に滞在し、家計簿の記載や子供達の世話などの生活の手伝いのほか、常にクララ・シューマンの精神的な支えとなり、いつしか家族の一員同然となった。その過程で、ブラームスはクララへの愛情を深めていった。両者が「最高の友人」と述べたこの二人の関係について、正確に知ることはできないが、単なる友情や恋愛感情よりもはるかに深く特別な絆で結ばれていたことは明らかであろう。二人の交流は、クララの死まで続いた。1856年にシューマンが没すると、ブラームスはヨアヒムとハンブルクで追悼演奏会を催し、シューマンのピアノ協奏曲を演奏した。《シューマンの主題による変奏曲》op. 9は、変奏の大家ブラームスが初めて手掛けた変奏曲で、随所に恩師シューマンの影響が見られる。

    デトモルトとハンブルク時代(1857-62)

    1857年、クララがベルリンへ移ったのをきっかけに、ブラームスもデュッセルドルフを離れデトモルトへ向かった。1857〜59年の9〜12月の間、彼は宮廷ピアニスト、室内楽奏者、宮廷合唱団と宮廷楽団の指揮者として、デトモルト宮廷で働いた。中でもオーケストラを指揮することは、ブラームスにとって管弦楽法を実践で学ぶ貴重な経験であった。《セレナード第1番》op. 11と《第2番》op. 16、そして《ピアノ協奏曲第1番》op. 15に、その成果が現われている。1858年夏、ゲッティンゲンを訪れたブラームスは、同地の大学教授の娘アガーテ・フォン・ジーボルトと知り合った。周囲の後押しもあって結婚を決意するまでに至ったが、ブラームスの一方的な婚約破棄によって破局に終わった。彼女との出会いにより《8つのリートとロマンス》op. 14、《5つの歌》op. 19、《3つの二重唱》op. 20、そして《弦楽六重奏曲第2番》op. 36が生まれた。特に弦楽六重奏曲では、第1楽章提示部に、アガーテを音名にした動機(A-G-A-[T-]H-E)が現われる。

    1859年、デトモルト宮廷での職を辞した26歳のブラームスは、ハンブルクで女声合唱団を設立する。ここでの指導と指揮は、彼の音楽活動において貴重な体験となり、《2つのホルンとハープの伴奏による女声合唱のための4つの歌》op. 17や《マリアの歌》op. 22など、合唱団のために多くの合唱曲を作った。合唱団はブラームスの作品のほか、彼の関心事であったルネサンスやバロックの作品もレパートリーとしていた。また1859年、ブラームスは初の大きな挫折を味わうこととなる。1855年に作曲に着手して以来、何度も改作を繰り返してきた《ピアノ協奏曲第1番》op. 15が、1858年にようやく完成し、その翌年に初演をむかえた。まずは1月22日、ハノーファーでブラームス自身のピアノとヨアヒムの指揮で行なわれた。これはそこそこ好意的に受け取られたが、5日後の27日、ライプツィヒでの再演はひどい失敗に終わった。聴衆からは冷ややかな目を向けられ、批評家からは「無味乾燥」と酷評された。ヨアヒムの提案で行なわれた3月24日のハンブルク初演では大成功を収めることができたものの、ライプツィヒでの出来事はブラームスに非常に大きな精神的ダメージを与えた。1860年3月、リストやヴァーグナーらの「新ドイツ派」の方針に批判的であったブラームスは、ヨアヒムらと連名で「新ドイツ派に対する宣言文」を発表し、自らの芸術観を表明した。この声明文は大きな波紋をよび、その後、長きにわたって繰り広げられるブラームス派とワーグナー派との対立(ブラームス自身はこの論争に関与していない)の始まりとなった。また、ブラームスが「保守派」のレッテルを貼られるようになったのも、この宣言文が一因となっている。この時期、ブラームスは様々なジャンルの多くの作品を手掛けたが、特に重要な作品は《弦楽六重奏曲第1番》op. 18と《ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ》op. 24である。

    ウィーン時代①(1862-71)

    1862年9月、29歳のブラームスは、音楽の都ウィーンへ初めて足を踏み入れる。敬愛するベートーヴェンやシューベルトが生活したこの町に、ブラームスはすっかり魅了された。この地でシューベルトの未発表の作品に多く触れたことは、彼の大きな財産となった。11月にはウィーンで初の演奏会を開き、好評を得た。また、リストの高弟カール・タウジヒと出会い、友情を育んだことから、技巧的作品《パガニーニの主題による変奏曲》op. 35が生まれた。1863年3月、ブラームスはタウジヒと共に、ヴァーグナーの《ニュルンベルクのマイスタージンガー》のパート譜作成に協力し、作曲者自身の指揮による三夜の演奏会を聴いた。その後ヨアヒムに送った手紙からは、ヴァーグナーの音楽に強く胸を打たれたことが窺える。1863年5月、以前から切望していたハンブルク・フィルハーモニー協会の指揮者に任命されなかったブラームスは、名門ウィーン・ジングアカデミーの指揮者に就任する。11月15日の最初の演奏会では、バッハ《カンタータ第21番》、ハインリヒ・イザークの作品、民謡編曲、ベートーヴェンの作品、シューマン《ミニョンのレクイエム》を取り上げ、1864年1月6日の2度目の演奏会では、メンデルスゾーン《われら人生の半ばにありて》とバッハ《カンタータ第8番》をメインに、エッカルト、シュッツ、ジョヴァンニ・ガブリエーリ、ロヴェッタという16、17世紀の古い作品を並べ、3月20日の演奏会ではバッハの《クリスマス・オラトリオ》を抜粋で演奏した。ブラームスのこれらの選曲は、彼の古楽への関心を反映したもので、当時としては珍しい過去の音楽によるプログラミングに、合唱団員や聴衆は驚きと戸惑いを覚えた。4月の演奏会を最後に、ブラームスはこの座を辞任し、ハンブルクへ帰郷する。

    ブラームスがハンブルクへ戻ったのは両親の離婚危機を救うためであったが、その努力もむなしく、1865年2月に母が亡くなる。その悲しみを紛らわすかのように、ブラームスは頻繁に演奏旅行へ向かった。彼のプログラムは、バッハの《半音階的幻想曲とフーガ》や《前奏曲とフーガ》、ベートーヴェンのピアノ・ソナタやピアノ協奏曲、シューマンの様々な性格小品や《幻想曲》などで構成され、ここにしばしばシューベルトの作品も加わった。また、この頃作られたブラームスの作品としては、それまでのバッハおよびベートーヴェン研究が土台となった《チェロ・ソナタ第1番》op. 38、シューベルト研究が集約された《ワルツ集》op. 39、そして《ホルン三重奏曲》op. 40が挙げられる。この頃からブラームスの創作の関心は、大規模な声楽曲へと向けられていく。

    1868年、ブラームスのこれまでの創作と古楽研究の集大成である作品、《ドイツ・レクイエム》op. 45が完成する。ブラームスがこの作品に本格的に着手するのは1865年であるが、その後様々な段階を経てようやく書き上げられた。作品は、まず1867年ウィーンで第1曲から第3曲までが初演され、続いて1868年ブレーメンで第5曲を除く6曲バージョンが初演された。ブレーメンにおいてはブラームス本人による指揮で演奏され、大成功を収めた。1869年ライプツィヒで全7曲の完全版が初演されると、ドイツ国内だけでなく、ヨーロッパ各地でも演奏され、高い評価を得た。この作品は、19世紀の宗教作品の傑作として数え上げられるだけでなく、ブラームスの作曲家としての地位を国内外で確固たるものにした。1869年には、高い人気を誇るピアノ連弾曲《ハンガリー舞曲》が出版される。また、愛国主義者であったブラームスは、1870年に起こった普仏戦争でプロイセンが勝利すると、これを祝して、合唱曲《勝利の歌》op. 55を作曲した。彼はこれをドイツ皇帝にささげた。

    ウィーン時代②(1871-88)

    フリーの音楽家として幅広く活動していたブラームスは、1868年にウィーン定住を決めて以後、常に定職を求めていた。そんな中、1871年にウィーン楽友協会の音楽監督の就任要請が届き、彼はこれを承諾する。ウィーン・ジングアカデミーの指揮者を務めていたときと同じく、ブラームスはここでも古い音楽を紹介することに注力した。1872年11月10日に最初の演奏会が開催されたが、プログラムは、ヨアヒムによるシューベルトのピアノ連弾作品の管弦楽編曲を中心に、15、16世紀の作品やヘンデルの作品によって構成された。その後も過去の音楽をメインとした演奏曲目ばかりが並び、周囲の反応は芳しくなかった。1875年4月の演奏会を最後に、ブラームスはこの職を辞任した。この時期の最も重要な作品に《ハイドンの主題による変奏曲》 op. 56がある。これはまず二台ピアノの曲として書かれ、その後に管弦楽版ができたが、ブラームスにとっては14年ぶりの管弦楽作品であった。巧みな変奏技法とオーケストレーションにより、彼の名を揺るぎないものとした。そのほか、1871〜74年は、独唱曲が相次いで作曲された。また、1873年にバイエルン国王より「科学と芸術のためのマクシミリアン勲章」を受章、1874年には「プロイセン芸術アカデミー名誉会員」に選ばれている。私生活では、1872年に父を亡くした。

    1876年、ブラームスは43歳という年齢になって、ようやく初めての交響曲を発表する。《交響曲第1番》op. 68はすでに1855年に着手されていたが、何度も作曲の休止を挟みながら、20年以上もの年月をかけて仕上げられた。これほど時間がかかった大きな要因は、シューマンの批評によってかたどられた「ベートーヴェンの後継者」としてのプレッシャーが、ブラームスに重くのしかかっていたからであろう。作品は1876年11月4日、カールスルーエで初演された。ブラームスの最初の交響曲というだけに期待が大きかった分、様々な評価がなされたが、ハンス・フォン・ビューローは「ベートーヴェンの第10番交響曲」と評してこの作品の意義を示した。これにより、ブラームスは大きな重圧から解放されただけでなく、シューマンの《交響曲第3番》から四半世紀ものあいだ滞っていた交響曲史の駒を再び前へ進めたのである。

    1877年から、ブラームスの創作活動は非常に盛んになる。この年、《交響曲第1番》とは対照的に、《交響曲第2番》op. 73を短期間のうちに完成させると、1879年までの間に《2つのモテット》op. 74、《8つの小品》op. 76、《ヴァイオリン協奏曲》op. 77、《ヴァイオリン・ソナタ第1番》op. 78《2つのラプソディ》op. 79を完成させたほか、《バラードとロマンス》op. 75、《大学祝典序曲》op. 80、《ピアノ協奏曲第2番》op. 83の作曲にもとりかかっている。1878年、ブラームスは初めてイタリアを訪れる。この国に魅了され、その後1893年までの間に8回も赴いたが、イタリア音楽に興味を示すことはなかった。1879年には、ブレスラウ大学から名誉博士号が授与された(その返礼として《大学祝典序曲》を作曲)。また、クララの懇願により積極的に校訂に関わっていたシューマンの作品全集が、この年から刊行される。1880年には、長年親交のあったヨアヒムとの関係が悪化する。ヨアヒム夫妻が離婚危機に陥った際、ブラームスがその妻の肩を持ったことで、彼らは絶交するにまで至った。その後1887年に和解したものの、以前のような親密な関係に戻ることはなかった。その一方で、この時期にビューローとの友情が深くなり、彼の率いるマイニンゲン宮廷楽団とも密接な関係をもつことになる。ビューローの提案とマイニンゲン大公の理解を得て、ブラームスはこの管弦楽団で交響曲や協奏曲の試演を行なうことができた。

    この頃のブラームスは、基本的に、冬の間はピアニスト及び指揮者としてウィーン内外での演奏活動、夏の間は避暑地での創作活動に従事していた。バート・イシュルで過ごした1880年から1883年までの夏の間に、新たに、《悲歌》op. 82、《弦楽五重奏曲第1番》op. 88、《ピアノ三重奏曲第2番》op. 87、《運命の女神の歌》op. 89、そして《交響曲第3番》op. 90を作曲した。《交響曲第3番》は1883年夏に一気に書き上げられ、12月にウィーンで初演されると好評を博した。また、この年には、若い歌手ヘルミーネ・シュピースとの出会いがあった。ブラームスは彼女に魅せられ、親交を深めたが、結婚にまでは至らなかった。1884年、新作の《交響曲第3番》を中心に、例年通りのハードな演奏日程をこなすと、夏にはミュルツツーシュラークで最後の交響曲である《交響曲第4番》op. 98に着手した。これは完成に2年を要し、1885年10月にマイニンゲンで初演された。1886年から1888年までの夏は、スイスのトゥーン湖畔で過ごした。ここでは室内楽の創作に没頭し、《チェロ・ソナタ第2番》op. 99、《ヴァイオリン・ソナタ第2番》op. 100と《第3番》op. 108、《ピアノ三重奏曲第3番》op. 101が生まれたほか、《ジプシーの歌》op. 103や《5つの歌曲》op. 105などの歌曲も作曲している。さらに、ブラームス最後の管弦楽作品である《ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲》op. 102が作られたのもこの時期である。1886年にはウィーン音楽家協会の名誉総裁に、翌年にはプロイセンから「学問と芸術のための勲功騎士」に選ばれた。

    晩年(1889-97)

    1889年、56歳のブラームスは、故郷ハンブルク市より名誉市民の称号を、オーストリアより「レオポルト勲章」を授与された。しかし、1890年に入ると、自身の能力に衰えを感じ、音楽活動から退く考えを持ち始める。前年から再び夏の保養地に選んだバート・イシュルで、ブラームスは1891年に遺書まで作成し、身の回りの生前整理にとりかかった。そんな折、ブラームスの創作意欲を再び湧かせた人物が現われる。名クラリネット奏者、リヒャルト・ミュールフェルトである。彼はマイニンゲン宮廷楽団の首席奏者で、その演奏に感激したブラームスは、彼のために《クラリネット三重奏曲》op. 114と《クラリネット五重奏曲》op. 115を書き上げた。3年後の1894年には、ミュールフェルトのために、さらに2つのソナタを作曲した(《2つのクラリネット・ソナタ》op. 120)。これは、彼の最後の器楽曲となった。また、その間の1892年から1893年にかけては、久しく手掛けていなかったピアノ作品が立て続けに生み出された(《幻想曲集》op. 116《3つの間奏曲》op. 117《6つの小品》op. 118《4つの小品》op. 119)。

    1894年以降、ブラームスの身近な人々が続々とこの世を去って行く中、彼をさらなる孤独の淵へと追いやったのは、1896年5月のクララの死であった。1853年の出会いから長年親交を保ち、特別な信頼関係で結ばれていたクララの訃報は、ブラームスに計り知れない打撃を与えた。その後、ブラームスの健康状態は急速に悪化する。6月には黄疸が出始め、彼の不調に周囲が驚くほどであった。9月にはカールスバートで治療を受けたが、効果は得られなかった。年が明けると体調は日に日に悪化した。3月中旬までは演奏会にも足を運んだが、1897年4月3日、ブラームスは肝臓癌により63歳で永眠した。葬儀は4月6日に行なわれ、ウィーン中央墓地に埋葬された。

    クララの死の前には《4つの厳粛な歌》op. 121を、最後の作品としては《11のコラール前奏曲》op. 122を作曲している。生涯にわたって幅広い音楽活動を展開したブラームスであるが、そこには、ヘンデルクープランC. P. E. バッハらの作品の改編曲のほか、モーツァルトシューベルトショパン、シューマンらの全集楽譜の編纂の仕事も含まれている。

    作品について

    ブラームスは、過去から同時代までの多種多様な音楽を熱心に研究し、それを自身の創作に存分に役立てた人物である。ルネサンスの音楽にまでさかのぼり、クープラン、バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ショパン、メンデルスゾーン、ワーグナーらの音楽、そして教会音楽、大衆音楽、民謡などの様々な音楽から多くを吸収し、それらの要素を取り入れながら、独自の音楽語法を築き上げた。こうしたブラームス作品において、最も典型的且つ重要な作曲技法は、「変奏」である。主題の素材から、あらゆる可能性を引き出して展開していく手法は、彼の作品の随所に見られる。その際、彼はベートーヴェンを手本に、主題の旋律ではなく、その楽節構造や和声に重点を置いていた。

    ブラームスはロマン派の時代に生きながら、オペラと標題音楽を残していない。また、彼の作品には、過去の巨匠たちからの様式や形式、技法や書法などの影響が顕在している。そして、彼の管弦楽作品における編成の規模は、拡大傾向にあった時代の潮流の中で、古典派のそれを越えるものではなかった。こうしたことから、ブラームスは保守的で反動的な音楽家であると評されてきた。しかし、シェーンベルクが彼を「進歩主義者」と指摘したように、ブラームスの音楽には革新的な音楽語法が至る所に潜んでいる。伝統的な形式を継承しつつも、彼はそれを独自の手法で自由に扱い、また伝統的な方法を基盤としながらも、自身の構想に沿うようそれに慎重に手を加えた。つまり、古典的様式を独自の新たな感覚と手段で追求しようとしたのである。特に、その独創的な変奏手法、和声法、管弦楽法によって、彼は古い形式に新たな風を吹き込むことに成功した。

    ピアノ独奏曲では、古典的な形式に従ったソナタを初期の1850年代前半に3つ完成させると、その後は変奏曲と小品のみを作曲した。特に、変奏曲においてはベートーヴェン以来の大家と呼ばれ、このジャンルの発展に貢献した。《ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ》op. 24と《パガニーニの主題による変奏曲》op. 35は、ブラームスの変奏技法の集大成であり、どちらも高度なピアノ技巧を要すだけでなく、前者では作品全体に対位法が用いられている。

    声楽曲においては、独唱曲に留まらず、様々な編成による重唱曲、合唱曲も数多く残した。ブラームスが熱中した民謡研究や、ルネサンス及びバロック音楽研究が作曲の土台となったものや、彼の宗教観を知ることのできる作品も多い。最も重要且つ最大の声楽作品は《ドイツ・レクイエム》op. 45で、ここに彼の音楽語法と人生観が集約されている。

    室内楽曲でも同様に、変奏手法や対位法書法を取り入れ、過去の音楽の研究成果を活かした傑作を発表している。古典派時代の主要な編成である弦楽四重奏曲は3曲のみを残し、最も身近な楽器であったピアノを含む編成を多く手掛けた。ブラームスのピアノの腕前は相当なもので、ピアノ・パートは自ら担当することを想定して書かれた。自己を表現するためにピアノを巧みに扱うことは容易であったが、その他の楽器を用いて作曲することには自信を持てず、弦楽器を用いた作品に関してはヨアヒムに意見を求めるのが習慣だった。《ピアノ三重奏曲》op. 8は19世紀に最も多く演奏された作品の一つに数えられ、また、弦楽六重奏曲という珍しい編成の作品を2曲完成させている。

    交響曲は4曲を残した。全曲の共通点は、4楽章構成をとっていること、第2楽章に緩徐楽章を置いていること、2管編成をとっていることである。ビューローが《第1番》op. 68を「ベートーヴェンの第10番」と評したように、形式的にも構造的にも、ベートーヴェンを指針とした伝統的な枠組みの中で作られてはいるが、作品の内部では革新的な手法が散見される。例えば、《第4番》op. 98の終楽章においては、バッハの《カンタータ第150番》の主題を用いて、パッサカリアという厳格なバロック時代の形式を選んでいるが、そこには31の驚くほど自由な変奏が繰り広げられている。

    管弦楽曲はセレナード2曲と《ハイドンの主題による変奏曲》op. 56a、序曲2曲の計5曲、協奏曲はピアノ2曲、ヴァイオリン1曲、そしてヴァイオリンとチェロの二重協奏曲で計4曲を発表した。《ピアノ協奏曲第2番》op. 83は4楽章制で、構成的にも性格的にも交響曲化した作品であることから、注目に値する。

    執筆者: 鄭 理耀
    <続きを表示する>

    解説 : 実方 康介 (485文字)

    更新日:2006年11月28日
    [開く]

    作品(73)

    ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ) (1)

    協奏曲 (2)

    ピアノ協奏曲 第1番 Op.15 ピアノ協奏曲 第1番 ニ短調

    調:ニ短調  作曲年:1854  総演奏時間:49分00秒 

    ピアノ協奏曲 第2番 Op.83 ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調

    調:変ロ長調  作曲年:1878  総演奏時間:49分00秒 

    ピアノ独奏曲 (16)

    ソナタ (3)

    ピアノ・ソナタ 第1番 Op.1 ピアノ・ソナタ 第1番 ハ長調

    調:ハ長調  作曲年:1852  総演奏時間:29分00秒 

    ピアノ・ソナタ 第2番 Op.2 ピアノ・ソナタ 第2番 嬰ヘ短調

    調:嬰ヘ短調  作曲年:1852  総演奏時間:26分00秒 

    ピアノ・ソナタ 第3番 Op.5 ピアノ・ソナタ 第3番 ヘ短調

    調:ヘ短調  作曲年:1853  総演奏時間:41分00秒 

    バラード (1)

    4つのバラード Op.10 4つのバラード

    作曲年:1854  総演奏時間:25分30秒 

    スケルツォ (1)

    スケルツォ Op.4 スケルツォ 変ホ短調

    調:変ホ短調  作曲年:1851  総演奏時間:10分00秒 

    ラプソディー (1)

    2つのラプソディ Op.79 2つのラプソディ

    作曲年:1879  総演奏時間:17分00秒  Step min ステップレベル:展開1,展開2,展開3

    曲集・小品集 (3)

    8つのピアノ小品 Op.76 8つのピアノ小品

    作曲年:1878  総演奏時間:29分00秒 

    6つの小品 Op.118 6つの小品

    作曲年:1893  総演奏時間:25分00秒 

    4つの小品 Op.119 4つの小品

    作曲年:1893  総演奏時間:17分00秒 

    幻想曲 (1)

    7つの幻想曲集 Op.116 7つの幻想曲集

    作曲年:1892  総演奏時間:23分30秒 

    変奏曲 (6)

    創作主題による変奏曲 Op.21-1 創作主題による変奏曲 ニ長調

    調:ニ長調  作曲年:1857  総演奏時間:18分00秒 

    カデンツァ (6)

    サラバンド (1)

    2つのサラバンド WoO.5 posth. 2つのサラバンド

    作曲年:1854  総演奏時間:4分02秒 

    動画(0)

    解説(0)

    ガヴォット (2)

    2つのガヴォット WoO.3 2つのガヴォット

    作曲年:1855  総演奏時間:4分10秒 

    動画(0)

    解説(0)

    動画(0)

    解説(0)

    ジーグ (1)

    2つのジグ WoO.4 posth. 2つのジグ

    作曲年:1855  総演奏時間:5分00秒 

    動画(0)

    解説(0)

    ワルツ (1)

    16のワルツ Op.39 16のワルツ

    作曲年:1865  総演奏時間:22分50秒 

    間奏曲 (1)

    3つの間奏曲 Op.117 3つの間奏曲

    作曲年:1892  総演奏時間:16分30秒 

    リダクション/アレンジメント (2)

    10のハンガリー舞曲集 WoO.1 10のハンガリー舞曲集

    作曲年:1872  総演奏時間:30分30秒 

    解説(0)

    ★ 種々の作品 ★ (1)

    ピアノ合奏曲 (6)

    ソナタ (1)

    2台のピアノのためのソナタ Op.34b 2台のピアノのためのソナタ ヘ短調

    調:ヘ短調  作曲年:1864  総演奏時間:38分30秒 

    動画(0)

    解説(0)

    変奏曲 (2)

    動画(0)

    解説(0)

    ワルツ (3)

    16のワルツ Op.39 16のワルツ

    作曲年:1865  総演奏時間:18分20秒 

    動画(0)

    リダクション/アレンジメント (4)

    交響曲 第1番 (連弾) Op.68 交響曲 第1番 (連弾) ハ短調

    調:ハ短調  作曲年:1876  総演奏時間:39分00秒 

    解説(0)

    交響曲 第3番(連弾) Op.90 交響曲 第3番(連弾) ヘ長調

    調:ヘ長調  作曲年:1883  総演奏時間:36分10秒 

    解説(0)

    解説(0)

    楽譜(0)

    トランスクリプション (1)

    ハンガリー舞曲集 WoO.1 ハンガリー舞曲集

    作曲年:1858  総演奏時間:53分00秒  Step min ステップレベル:発展4,展開1,展開2,展開3

    ★ 種々の作品 ★ (2)

    5つのワルツ Op.39 5つのワルツ

    作曲年:1867  総演奏時間:7分00秒 

    解説(0)

    ロシアの思い出 Ahn.4/6 ロシアの思い出

    作曲年:1849  総演奏時間:19分30秒 

    動画(0)

    解説(0)

    室内楽 (3)

    ソナタ (8)

    ヴァイオリン・ソナタ 第3番 Op.108 ヴァイオリン・ソナタ 第3番 ニ短調

    調:ニ短調  作曲年:1886  総演奏時間:21分30秒 

    解説(0)

    チェロ・ソナタ 第1番 Op.38 チェロ・ソナタ 第1番 ホ短調

    調:ホ短調  作曲年:1862  総演奏時間:23分50秒 

    解説(0)

    チェロ・ソナタ 第2番 Op.99 チェロ・ソナタ 第2番 ヘ長調

    調:ヘ長調  作曲年:1886  総演奏時間:30分40秒 

    解説(0)

    ★ 種々の作品 ★ (7)

    ピアノ三重奏曲 第1番 Op.8 ピアノ三重奏曲 第1番 ロ長調

    調:ロ長調  作曲年:1853  総演奏時間:38分00秒 

    ピアノ三重奏曲 第2番 Op.87 ピアノ三重奏曲 第2番 ハ長調

    調:ハ長調  作曲年:1880  総演奏時間:31分30秒 

    解説(0)

    ピアノ三重奏曲 第3番 Op.101 ピアノ三重奏曲 第3番 ハ短調

    調:ハ短調  作曲年:1886  総演奏時間:23分30秒 

    動画(0)

    解説(0)

    ピアノ四重奏曲 第1番 Op.25 ピアノ四重奏曲 第1番 ト短調

    調:ト短調  作曲年:1855  総演奏時間:41分00秒 

    解説(0)

    ピアノ四重奏曲 第2番 Op.26 ピアノ四重奏曲 第2番 イ長調

    調:イ長調  作曲年:1855  総演奏時間:47分30秒 

    解説(0)

    ピアノ四重奏曲 第3番 Op.60 ピアノ四重奏曲 第3番 ハ短調

    調:ハ短調  作曲年:1855  総演奏時間:36分00秒 

    解説(0)

    ピアノ五重奏曲 Op.34 ピアノ五重奏曲 ヘ短調

    調:ヘ短調  作曲年:1861  総演奏時間:38分00秒 

    解説(0)

    室内楽 (2)

    三重奏曲 Op.114 三重奏曲 イ短調

    調:イ短調  作曲年:1891  総演奏時間:23分10秒 

    解説(0)

    ホルン三重奏曲 Op.40 ホルン三重奏曲 変ホ長調

    調:変ホ長調  作曲年:1865  総演奏時間:27分20秒 

    解説(0)

    歌とピアノ (2)

    曲集・小品集 (3)

    5つの歌 Op.105 5つの歌

    作曲年:1886  総演奏時間:14分30秒 

    解説(0)

    5つの歌 Op.71 5つの歌

    作曲年:1877  総演奏時間:11分30秒 

    解説(0)

    リダクション/アレンジメント (1)

    その他 (1)

    交響曲 (3)

    動画(0)

    解説(0)

    楽譜(0)

    交響曲 第3番 Op.90 交響曲 第3番 ヘ長調

    調:ヘ長調  作曲年:1883  総演奏時間:32分20秒 

    動画(0)

    解説(0)

    楽譜(0)

    交響曲 第4番 Op.98 交響曲 第4番 ホ短調

    調:ホ短調  作曲年:1884-5  総演奏時間:41分50秒 

    動画(0)

    解説(0)

    楽譜(0)