総説
シューベルトが遺した最後のピアノ・ソナタ。シューベルトは、「大ソナタ」として3曲セットで出版するソナタ集の第3曲として本楽曲を構想し、D 958、D 959、D 960の3曲を並行して作曲した。近年の研究では、シューベルトは1828年5月にハ短調ソナタD 958の草稿譜作成に着手し、同年7・8月にイ長調ソナタD 959と変ロ長調ソナタD 960の草稿譜を制作したと推定されている。そして、浄書譜の作成は3曲まとめて同年9月になされたと考えられている。シューベルトは、ライプツィヒの出版社プロープストにこの3曲のソナタ集を売り込んだ1828年10月2日の書簡において、このソナタ集をヨハン・ネポムク・フンメルに捧げたいと表明している。これは、シューベルトが当時作曲家としても高名だったヴィルトゥオーソ・ピアニストを献呈者に選んだ点で興味深いが、本ソナタ集は作曲者の死後にウィーンのディアベリ社から1839年4月に出版されることとなり、シューベルトの意に反してローベルト・シューマンに献呈されることとなった。
この3曲のソナタ集においてシューベルトは、前年に逝去したベートーヴェンの遺産と真っ向から対峙した。これを端的に示すのが、現在までに本ソナタ集とベートーヴェン作品との関係性が多数挙げられている事実である。有名な例を挙げれば、ハ短調ソナタの第1楽章はベートーヴェンのハ短調変奏曲(WoO 80)、イ長調ソナタの第4楽章はベートーヴェンのピアノ・ソナタ第16番(作品 31-3)の最終楽章との関係が指摘されている。変ロ長調ソナタに関しても、第4楽章は、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第13番変ロ長調(作品 130)における後から差し替えられた最終楽章との関係が指摘されている。このように、この「大ソナタ集」がいずれも、初期の断章とは異なり、ベートーヴェンを少なからず意識して創作されているのは間違いない。
実際、シューベルトにとって、ベートーヴェンが一つの目標であったことは疑い得ない。例えば、友人の一人であるシュパウンは後に、シューベルトが「ベートーヴェンの後にさらに何ができるだろうか」と漏らしたと回想している。またシューベルトは書簡において、1824年5月のベートーヴェンによる自作品コンサートに言及し、自身でも似たようなコンサートを開きたいと表明している。そしてこれは、1828年3月に実現することになる。
こうした事実に鑑みると、シューベルトがベートーヴェンを念頭に本ソナタ集を創作したことにも納得がいく。だがこれは決して、シューベルトがベートーヴェンを単に真似したことを意味しているのではない。後に楽曲分析で示すように、シューベルトは彼なりにベートーヴェンの遺産を消化し、自らの音楽が向かう方向性をはっきりと打ち出したのである。一般的に、ベートーヴェンの音楽が論理性や発展性によって「苦悩から歓喜へ」の一本道を指向したとすれば、シューベルトの音楽は発展より滞留を好み、同じ対象に様々な角度から光を当てるような特徴をもつ。本作品においても、ベートーヴェンを着想上の下敷きにしつつ、発展的な動機労作よりも、連想的・変奏的に旋律を紡ぎ出してゆくというシューベルトに典型的な特徴が、至るところに現れている。また、どの楽章の主題も、基本的に順次進行で流れる美しい旋律によって構成されている点には、シューベルトの「歌曲王」たる所以も垣間見えるだろう。
各曲解説
第1楽章:モルト・モデラート、変ロ長調、4分の4拍子
ソナタ形式で書かれた本楽章の提示部は、ソナタ形式史への「主要な貢献」とも称される、3つの調の主題を持つ。冒頭では、変ロ長調で抒情的な第1主題が奏でられる。この主題は半終止で閉じられ、弱音で奏される低音のトリルが不気味なニュアンスを与える(第8小節)。これに続く主題の確保が完全終止で閉じられると、その主題が新たな十六分音符による伴奏音形に支えられて、変ト長調で現れる(第20小節)。主題は三連符による伴奏に支えられて主調で回帰し、移行的なセクションに引き続いて、嬰ヘ短調で第2主題が提示される(第48小節)。異名同音の読み替えを行わなければ、第2主題は変ト短調で書かれるため、主調とは三度調の関係にあることが分かる。第2主題は2部分から成り、前半部は三連符の伴奏を内声に持ち、外声が旋律を担当する。後半部は、左手が十六分音符の分散和音による伴奏を取り、右手が旋律を担う。この後半部では、再び異名同音の読み替えを通じて、第70小節からヘ長調への期待が高まる(ヘ長調の三和音の第2転回形及びヘ長調の属和音)。これらに準備されて、第80小節において第3主題がヘ長調で提示される。ヘ長調のまま小結尾部が続き(第99小節)、提示部が閉じられる。
このように本楽章の提示部では、変ロ長調の第1主題に対して、第2主題が嬰ヘ短調(三度調)、第3主題がヘ長調(属調)で現れる。通例のソナタ形式は、2つの主題が5度離れて提示されることで調的な緊張を作り出し(正と反)、その両主題が再現部において主調で回帰することにより止揚される(合)と弁証法的に解釈できる。これに対して本楽曲では、主調領域と属調領域の間に三度調による主題が挟まれているため、提示部で目指されるはずの緊張が緩められている。ここに、ベートーヴェンに刻印された緊張関係による楽曲構築とは異なる、移り変わりに重点を置いたシューベルトの作曲理念が明示されている。
展開部は、嬰ハ短調で現れる第1主題によって幕を開け、第3主題がイ長調からゼクエンツで転調を重ねる。第151小節において導入される変ニ長調の新しい主題も、ゼクエンツによって転調する。第186小節において低音のトリルが現れると、第1主題の旋律が切れ切れに顔を見せ、再現部を予期させる。そして、特徴的なトリルに導かれて、第216小節で再現部となる。
再現部で特筆すべきは、調に関する2点である。1つ目は、提示部において第1主題半ばで変ト長調に逸脱したセクションが、再現部では変ト長調から嬰ヘ短調を経てイ長調(シャープ3つ)に転調する点である。2つ目は、第1主題と第3主題は主調で回帰するが、第2主題はロ短調(シャープ2つ)で再現される点である。どちらの点においても、近親調でも三度調でもないシャープをもつ調性、つまりフラット2個をもつ主調から五度圏上かけ離れた場所へと転調している。すなわちこの2点は、通例では主調に収めようとする再現部において、本楽曲では提示部より更に遠い調へと転じる試みがなされていることを示している。これも、当時一般的であったソナタ形式を、シューベルトが独自に発展させた結果と捉えられよう。
第2楽章:アンダンテ・ソステヌート、嬰ハ短調、4分の3拍子
大枠ではABA’という三部形式を取る。A部の主題は嬰ハ短調で始まり、ホ長調へ転調する。主題の反復時(第18小節)には、ホ長調で始まって嬰ハ短調を目指す。B部の主題は、低音域のため温かい響きのするイ長調で始まる。伴奏に十六分音符のリズムを取ることで、静的なA部とコントラストをなす。主題の反復時(第51小節)には伴奏形が変化し、内声として十六分音符の三連音が追加される。第59小節ではB部冒頭の音形が回帰し、ホ長調からニ長調や変ロ長調を経てイ長調に戻り、B部冒頭の主題が再び提示される(第68小節)。このB主題の再現は3小節目で急に短調で進行し、クライマックスを形成する(第72小節)。第76小節では内声に三連音を取るテクスチュアが回帰し、主調での再現部に向けて転調を行う。
第90小節から冒頭主題が主調で回帰し、主部の再現となる。このA’部は、第3拍に低声が追加されている点で、変奏再現となっている。この再現部を冒頭部から更に差別化しているのは、主題が半終止した後、突然ハ長調に転じる瞬間である(第103小節)。調号の付いた短調が基調をなしていた本楽章において、調号のない長調は、天上的な響きとして現前する。この響きの特異性は、譜面上のハ長調の内実が嬰ロ長調(His-Dur)であることに起因する。五度圏を突き抜け、 さらに先へと昇天しているのだ。さらにホ長調(内実はDisis-Dur)へと進行し、結尾部では嬰ハ長調(内実はHisis-Dur)へと至る。このように、A’部がA部とは全く別物になるよう、本楽章では調構造が考え尽くされている。
第3楽章:スケルツォ:アレグロ・ヴィヴァーチェ・コン・デリカテッツァ、変ロ長調、4分の3拍子
主部(ABA’)―トリオ部(CDC’)―主部のダ・カーポという、スケルツォ楽章に典型的な複合三部形式を取る。主部では、両端のA部が規模の上でコンパクトなのに対し、B部は二部分へと拡大されている。
主部のA部では、8小節の主題が2回提示される。1回目は高音域で、主調である変ロ長調のまま提示され、2回目は両手が役割を交換し、属調の変ホ長調へと転調する。B部は、まずA部のテクスチュアを引き継ぎ、転調を重ねる。ゼクエンツによって、変ホ長調から変イ長調、変ニ長調へと転じると、第33小節において八分音符の伴奏形が途切れ、新しいセクションが始まる。ここでも転調が一つの主眼となっており、変ト長調へ逸脱した後、嬰ヘ短調への転調を経てイ長調へと至る。B部末の第67小節では楽曲冒頭のテクスチュアが回帰し、スラーによってB部末と繋がる形で、主部が回帰する(第69小節)。ここには、大枠ではABA’という三部形式を取りつつ、再現部の入りをそれとして聴かせない工夫が見て取れる。A’部でも、A部と同じく8小節の主題が声部転換を伴って2回演奏されるが、再現部は変ロ長調で終止する。
トリオ部は、同主調である変ロ短調を取る。1小節目の強拍を強調せず、2小節目の頭を強調するという拍節感には、シューベルトの才気煥発さが表れている。10小節から成るC部が変ロ短調から変ニ長調へと転じると、D部は変ト長調の第1転回形によって始まり、変ロ短調の半終止となる(第18小節)。これに続いてC’部が、冒頭より1オクターヴ高く、旋律が変形されて現れ、変ロ短調のままトリオ部を閉じる。このように、規模の小さいトリオ部にも、再現部を単なる再現に留まらせないための創意工夫が見られる。
第4楽章:アレグロ・マ・ノン・トロッポ、変ロ長調、4分の2拍子
ロンド形式とソナタ形式が統合された、ロンド・ソナタ形式を取る。
本楽章は、オクターヴで重なった長いト音によって幕を開ける。これに続いてハ短調の属和音から冒頭主題が動き出し、8小節のうちに変ロ長調へと転調する(a)。主題が1オクターヴ高く繰り返されると(a)、変ホ長調で新たな動機が簡潔に現れ(b)、これがト音で終止すると冒頭主題が回帰する(a)。第42小節で再び動機bが現れ、今回は変イ長調へと転じる。さらに動機aが主調で回帰することにより、冒頭セクションが閉じられる。このように、ここまでのセクションは2つの動機の交代によって成り立っており、これはロンド形式のルフラン(反復部)、ソナタ形式の提示部第1主題に相当する。
本楽章ではリズム形の変化が形式区分と一致しており、第86小節で新しい主題が提示されると、それに合わせて伴奏形も動的な十六分音符へと変化する。この主題は、ロンド形式におけるクープレ(挿入部)、ソナタ形式における第2主題領域に対応し、最初はヘ長調で提示されるが、総休止(第154~155小節)を挟んでヘ短調のセクションが続くため、二部分へと拡張されている。
第224小節で冒頭と同じト音が鳴り響くと、冒頭主題が主調で回帰する。この部分は、冒頭主題の回帰という点ではロンド形式のルフランに相当するが、冒頭と同様にaabと動機が続いた後、bの動機素材を用いた展開的なセクションが幕を開けるため(第256小節)、ソナタ形式における展開部の役割を備えている。
第312小節に回帰する冒頭のト音を合図に、冒頭主題が主調で回帰する(ルフラン/再現部第1主題)。冒頭と同じく2つの動機から成るが、ここでは短縮されて現れる。第360小節から、クープレ/第2主題領域が、主調である変ロ長調で回帰する。ここでも最初に提示された二部分が保持され、後半部は変ロ短調で再現される。
第490小節に再度鳴り響くオクターヴのト音に導かれて、冒頭主題が切れ切れに回帰する。そして総休止を挟み、駆け抜けるようなプレストの結尾部(変ロ長調)で幕となる。