シューベルト : 12のワルツ、17のレントラーと9つのエコセーズ D 145 Op.18
Schubert, Franz : 12 Walzer, 17 Ländler und 9 Ecossaisen D 145 Op.18
作品概要
作曲年:1815年
出版年:1823年
楽器編成:ピアノ独奏曲
ジャンル:その他の舞曲
総演奏時間:25分10秒
著作権:パブリック・ドメイン
解説 (3)
総説 : 堀 朋平
(907 文字)
更新日:2018年3月12日
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総説 : 堀 朋平 (907 文字)
シューベルトのピアノ舞曲
19世紀初頭は、18世紀に流行した貴族的なメヌエットが、より民衆的でダイナミックなドイツ舞曲やレントラーに座をゆずった後、やがて華やかなワルツに移行しようとしていた時代である。2手用と4手用あわせて約650曲に上るシューベルトのピアノ舞曲も、これら3拍子系の曲種を中心に伝承されている。ヴィーン会議(1814~15年)後に隆盛を見たワルツのリズムをシューベルトも愛したが、残された楽譜を見るかぎり、作曲家が「ワルツ」の名称を使ったのは1回だけであった。この事実からも、各舞曲の性格はそれほどはっきり区別されていなかったと考えてよい。
シューベルトにとってのピアノ舞曲は、まずは内輪の友人たちの集いにBGMを提供し、なごやかな社交の雰囲気を作り出す曲種だった。やがて腕前が世間に知られていくにつれ、公の大きなダンスホールに招かれてピアノを弾く機会も増えていった。その場の雰囲気にあわせて即興で弾いた曲のなかから、特に気に入ったものを後で楽譜に清書していたらしい。そうして書きためられていった舞曲は、歌曲と並んで初期の出版活動の中心をなした。
シューベルトがピアノ舞曲を弾く様子は、友人たちの数ある証言のなかでも最もしばしば、そして生き生きと回想される場面の一つだった。それらの証言が12月~2月に集中しているのは面白い事実である。南方とはいえヴィーンの冬は厳しい。彼らは寒い夕べに皆で集い、心身の暖を取っていたのである。そんなある夜、人生に疲れた親友をシューベルトの即興演奏が癒す様子を描いた詩すら残されている。こうした場面はシューベルトの音楽の原風景をなすものであり、そこで生まれた舞曲は、時に精神のドラマをはらむ緊密なチクルス(まとまった曲集)にまで発展することがあった。この性質をよく認識していたのがロベルト・シューマンである。シューベルトの舞曲チクルスのいくつかは、やがて《ダーヴィド同盟舞曲集》(1837年)につながるほどの緊密な作品集になっているのである。
友情、社交、そして精神の旅路――この3つの領域をゆるやかに横断しつつ、シューベルトのピアノ舞曲は人の心と身体を暖めてくれる。
成立背景 : 堀 朋平
(541 文字)
更新日:2018年3月12日
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成立背景 : 堀 朋平 (541 文字)
この「作品18」は、3つの曲種におよぶ36曲を擁する、シューベルト最大規模の多彩さを誇る舞曲集である。《36のオリジナル舞曲》(D 365)と同じく、さまざまな時期と場所で書かれた舞曲を後年に編集したものだ。各曲の成立時期はじつに6年間におよぶものの、ワルツの大半は1821年に集中しており、エコセーズはもう少し早く、1815~20年のものが多い。レントラーの成立時期は概して不詳である。1823年2月にカッピ&ディアベッリ社から出版された。注目すべきは、この時に第1巻(ワルツと第6番までのエコセーズ)と第2巻(レントラーおよび第7巻以降のエコセーズ)の分冊にしてしまった出版社に対して、作曲家がすぐさま異議を申し立てている事実である(1823年2月23日の手紙)。出版社による不当な扱いには温和なシューベルトもしばしば憤りを隠さなかったため、あまり深読みするのは慎むべきだが、作曲家がこの「作品18」を、全曲をとおして演奏することで意味をなす、と考えていたことも、この手紙からはうかがえる。その意味で本作も、広い意味での「チクルス」と考えてよいだろう。以下では、12曲のワルツを「第1部」、17曲のレントラーを「第2部」、9曲のエコセーズを「第3部」と分けて流れを追ってみたい。
楽曲分析 : 堀 朋平
(1406 文字)
更新日:2018年3月12日
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楽曲分析 : 堀 朋平 (1406 文字)
第1部のワルツは、ホ長調で始まり、その(異名同音を含む)近親調を経めぐって同じ調で終わる点で、明らかな完結性が認められる。曲想の点でも意図されたドラマは分かりやすい。まず冒頭の4曲は、「アッツェンブルク・ドイチェ」(友人と過ごしたアッツェンブルクで書かれたドイツ舞曲)の表記を持つ楽曲を中心に構成されており、支配的な最強音と統一的なリズムによって、勇ましい導入といった性格を示す。一般的な「ワルツ」よりはドイツ舞曲のような荒々しい表現が求められよう。続く第5番から、レガートによるショパン風の曲想に移行する。その優雅な雰囲気の頂点は、変ホ短調という珍しい調(歌曲でもピアノ曲でもそれぞれ5例は越えまい)に触れる第8番にある。続く第9番は、当初は別のドイツ舞曲(D 135)のトリオだったこともあり、変ト長調で終わる前曲に(異名同音の)同主短調で続くトリオ部分と解釈されよう。最後の第12番では祝祭的な曲想が回帰し、元気よく第1部が閉じられる。
第2部を構成する「レントラーLändler」という曲種は「農民Landvolk」に由来すると考えられている。ヴィーンでの歴史は新しい。西に約150キロの都市リンツから19世紀初頭にもたらされ、町の食堂などでヴァイオリンとバスの伴奏で演奏されていたという。三和音を軸に跳躍する旋律が特徴的で、ドイツ舞曲よりは中庸なテンポがとられる。したがって第2部は、第1部の後の緩徐的な部分をなすと考えてよいだろう。さて、シューベルトの書くレントラーには田園風の雰囲気が満ち満ちている。本作でも、陽光をふり撒くような高音を主体とする第2部は、「ミソラ」の愛らしい主題法(第3番)や、ヨーデルの音型(第6、7番)によって、弾く/聴く者をまるで森林に中にいるような気持ちにさせる。こうしたレントラー様式は、ピアノ・ソナタの第3楽章でもしばしば印象的なオアシスを形成する(たとえばD 894)。第1部に対して♭系を基軸とするが、第13番あたりからは、現実世界に戻るかのように♯系を進む。なおこの第2部の自筆譜を多く保有するブラームスは、シューベルトのレントラーないしドイツ舞曲を高く評価していた。
第3部は賑わしいエコセーズの世界である。スコットランドを起源とするこの舞曲は、もともと3拍子だったが1700年頃には2拍子に定着した。19世紀初頭のヴィーンではドイツ舞曲に次ぐ人気を誇ったらしく、1808年の書物には「正しく血を沸せるので、たいそう称賛されている」とある。レントラーと違ってオーケストラ伴奏をもつ作例は見当たらないため、「プライヴェートな集い」の空間で踊られていたのは確かなようだ。しかしその激しい動きゆえ、踊る際には「じゅうぶんな空間と達者な踊り手」が必要だとも書かれている。シューベルトの残したエコセーズは約60を数え、16(あるいは8)小節の簡潔さを特徴とする。動きの素早さ、複雑に動くおどけた音型を特徴とするこの第3部では、時に奇矯な一時的転調も聴かれる(第7番)。白眉は第8番だろう。もとは演奏の難しい嬰ト短調で書かれていたこの曲は、次の献辞を伴って1822年秋に知人ゼラフィーネ・シェルマン嬢に捧げられた。「このエコセーズで跳ね回るのです/愉快に、あらゆる悲鳴をあげながら/フランツ・シューベルト」。この曲種に作曲家が込めたユーモアと演奏技術をよく物語るエピソードだ。
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