各曲ともにそれぞれ繰り返しを持つ主部とトリオからなる点で、基本的な作りは前作《4つのポロネーズ》(D 599)と同じである。だが、8年の時を経て、しかも曲数を4から6にまで拡大して書かれた本作には、次の点で明らかな深化が見てとれる。
まず調的には、主部の後半で早くも遠隔調に移る手法が多用されている(第3番、第4番など)。この手法は、各曲での色彩の幅をさらに広げる効果を持つだけでなく、全6曲を互いに関連した作品として構成する意図とも関わっていよう。つまり、これらの遠隔調は前曲をふと回想したり、あるいは性格を異にする次曲の調を予告したりする機能を持つ。前曲集D 599(たとえば第2曲)でも垣間見られたこの手法をさらに洗練させることで、本作は、曲間の相互ネットワークを飛躍的に拡大している。全6曲を通して弾くことで初めて個々の意味が分かってくることも多く、その意味でロマン派のチクルスと呼ぶべき性格が色濃くなっている。シューベルトのポロネーズにシューマンが讃嘆を漏らした理由もわかるというものだ。
次に主題法の点でいうと、明らかにポロネーズ的でない主題が頻繁に登場する点が目を引く(第2番、第4番のトリオ、第6番の主部など)。こうした多彩さが調の構成と手をたずさえることで、全体はより深く大きなアーチを描くにいたっている。
最後に、各形式部分のバランスについて。前作では、主部とトリオの小節数の比率は比較的自由であったが、主部の前半と後半の比率は統一されていた。本曲集ではこの比率も多彩になっている。
第1番(ニ短調/変ロ長調)
前曲集D 599と同じくニ短調で幕を開けるが、低音主体の重厚さが特徴である。チクルスはまだ「厳かにまどろむ世界」(シューマン)にあるようだ。主部の終結部分では、前曲集には聴かれなかったナポリ和音が現れる。トリオの後半部に、シューマンなら「雷雨」と呼ぶだろう激しい楽節がにわかに集中しているのは、異例である。
第2番(ヘ長調/変ニ長調)
一転して高音の華やかな主題は、8小節からなるものの、拍節感覚を意図的にぼかしている。半終止(第8小節)を経て変ロ長調に逸れる意外性は、本作においてこの調が特別な意味を担うことを示すものだろう(後述)。トリオは、この時代には珍しいロマン的な調をとる(D 599/3参照)。本作で手の交差は見られないにせよ、トリオの14小節目、プリモ左手の舞い上がる音型は(セコンド右手との関係で)自ずと手をすぐ離すように書かれている。二人の奏者がスリリングに接近する貴重な箇所である。
第3番(変ロ長調/ト短調)
表現の幅や精巧さの点で全体の頂点をなすといえよう。冒頭主題は、むしろ(実際たとえば前曲集4曲目のように)トリオから取ってきたかのごとく柔らかいものだ。第13小節で響く変ニ長調と、主部の終わりで聴かれる勇ましいニ長調和音は、いずれも前曲および次曲をチクルス的にほのめかしている。トリオ第13小節の走句には曲集で唯一の情熱が宿る。トリオ最後の8小節、セコンド右手に現れる特徴的なバス声部は、チェロの運弓と音響を想定して書かれたものだろう。
第4番(ニ長調/ト長調)
D [B] - G 前曲までのロマン性からうって変わって、調構成は5度圏に基づく単純なものに回帰し、♯系の明るい響きと素早さを特徴とする。ただし主部後半では前曲までの変ロ長調世界が明るく回顧される。1825年ころ以降のシューベルト歌曲では、明るいニ長調とおぼろな変ロ長調が、じつは「現実と理想」の意味をもって対比されることがしばしばある。舞曲チクルスにも、この種の表現手法がジャンルを越えて生かされている事例が少なくない。常に弱音に抑えられたトリオでは、プリモが対位法を披露する。
第5番(イ長調/ニ長調)
前曲の主題が、いわば変奏曲のクライマックスから取られたようであったのと似て、弱音で何気なく始まる第5番の主題も、楽曲の中ほどから始まるさりげなさを持つ。音量の上でも主題的にも、全6曲にあって総じて平坦で抑えめである。
第6番(ホ長調/ハ長調)
E [e] – C [G] 曲集において唯一、最強音による祝祭的な和音で開始される。もっとも技巧的で音量も大きい。トリオは音が薄く高音を主体とするが、最も注意を引くのは、ここでハ長調が曲集で初めて現れるという事実である。かつ、主調からサブメディアント(長3度下)の関係で現れるため、それはきわめて新鮮に響く。後期のシューベルトがこの単純で原初的な調に十分な重みを置いていたことを、この最終曲は物語ってくれる。