山田 耕筰 1886-1965 Yamada, Kōsaku
解説:屋野 晴香 (1025文字)
更新日:2018年3月27日
解説:屋野 晴香 (1025文字)
1886年(明治19年)、東京生まれ。1908年、東京音楽学校(現東京藝大)声楽科を卒業後、三菱財閥の総帥岩崎小弥太の援助を受け、1910年よりベルリン王立アカデミー高等音楽院(現・ベルリン芸術大学音楽学部)に留学、マックス・ブルッフらに作曲を学ぶ。留学中、リヒャルト・シュトラウスの自作自演のオペラ《サロメ》を聴き、作品に傾倒するようになる。結果として叶わないが、弟子入りを志願したこともある。
1914年1月に帰国。その後、岩崎の組織する東京フィルハーモニー交響楽団首席指揮者を任されるが、山田の不倫問題に激怒した岩崎より資金援助を絶たれ、翌年解散。24年には近衛秀麿と共に日本交響楽協会(現・NHK交響楽団)を結成するが、不明瞭な経理などを理由に団員が離れ、頓挫した。我が国のオーケストラ活動の黎明期を担った人物の一人ではあるが、その活動は必ずしもうまくいったとは言いきれない。
山田とピアノ作品の関係について特筆すべきは、1913年冬にベルリンを出発し日本への帰路の途中、滞在したモスクワで初めてスクリャービンの作品に触れた体験である。山田にとってその作風との出会いは衝撃的だったようで、《スクリャービンに捧ぐる曲》(1917)、《夜の詩曲》、《忘れ難きモスコーの夜》と題した作品の他、以降《詩曲》、《プチポエム》、《日記の一頁》と題したスクリャービン色の強い作品を数々残している。
ベルリンでひたすらアカデミックな作曲の勉強に励んだ年月を経てからのスクリャービンの響きとの出会いは、山田にとっての作曲活動の意識を「作る」から「生む(産む)」へと変えたと言っても過言ではない。1916年と1917年にはピアノ作品を自ら演奏し、作曲者と演奏者の同一化を強く志向した演奏会を催した。
一般的に、山田の作曲家としての功績は詩人・北原白秋とともに数多くの国民的歌謡曲、校歌が広く知られている。日本語の抑揚を活かした多くの日本歌曲作品で知られ、特に《からたちの花》、《この道》、《赤とんぼ》など、日本語と西洋音楽の融合を図った数々の歌曲は、今なお多くの日本人に歌われている。歌曲の作曲の他、ヨーロッパ留学中に見聞した音楽、絵画、舞踊などからの影響が色濃く見られるピアノ曲、舞踊詩、劇音楽を創作。北原白秋らと雑誌『詩と音楽』を共同創刊、演出家・小山内薫と劇団「土曜劇場」、「新劇場」を結成・活動し、20世紀前半の日本の芸術界全般に大きな影響を及ぼした。
作品(61)
ピアノ独奏曲 (15)
ソナタ (3)
組曲 (2)
前奏曲 (3)
変奏曲 (5)
シャコンヌ (2)
行進曲 (2)
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種々の作品 (29)
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総演奏時間:7分00秒 ステップレベル:発展4,発展5,展開1,展開2,展開3