1914 年 1 月、山田耕筰は留学先のドイツか ら日本に帰国する。当初は一時帰国のつもり だったが、ベルリン再訪は、山田によれば第一次世界大戦の勃発ゆえに叶わなかった。日本で活動することとなった山田は、日本初の管弦楽団である東京フィルハーモニー会管弦楽部を組織し、予約演奏会を開催、更には 1912 年にベルリンで卒業作品として自ら作曲した日本初の交響曲《かちどきと平和》を演奏するなど、日本における洋楽の革新者として頭角を現す。しかし、楽団はわずか 1 年足らずで解散する。そこで、山田が創作領域として次に選んだのはピアノだった。1917 年に渡英するまでの 3 年間は、彼の創作活動で「ピアノの時代」とも呼ばれるほどに、多くのピアノ曲が生み出され、自身の演奏会で初演された。
「プチ・ポエム(日記の一頁)」(逐語的には「小さな詩」と訳せる)と呼ばれる一連のピアノ小品 は 1916 年半ばまでに作曲された。フランス語 の “petit” は「徒然の」という意味合いを想起させ、日付(時に標題)が付されていることから、 生活の中で頭に浮かんだ音素材から作品が生み出されたと想像できる。事実、全 15 曲それぞれはおおよそ一つのモチーフから紡ぎだされている。なお《プチ・ポエム集》として編集されたのは、1931 年刊行の旧全集からである。