《荒城の月》は、今日の我が国において最も愛唱されている曲の一つであろう。滝廉太郎の手になるもので、明治34(1901)年に出版された『中学唱歌』(東京音楽学校編)の所収作品である。エルンスト・プッチェル、平井康三郎など、《荒城の月》に題材を得て変奏曲を作った作曲家は少なくない。
山田耕筰の《哀詩》も、《荒城の月》を主題として作曲されたものである。序章部と結尾部の他に11の変奏をもつこの作品は、大正6(1917)年1月13日から15日に作られた。
《哀詩》の解説の中で山田は、「私の所謂『ポエーム』なる形式は私には段々と親しみ深いものとなりました。遂に、その形式に基づいた、一つの新しい、『ポエーム、ヴァリツィオーネン[ママ]』と云ふ様なものが生れて来ました」と述べている。変奏曲はただ形式的に変移していくのみで、内容も連関しながら展開する作品が少ないとして、山田は《哀詩》を「ポエーム」とし、各変奏曲が独立し且つ「有機体の一つの様な、極めて密接緊要な関係」を持つものに仕上げた。
昭和6(1931)年に出版された『山田耕作全集 第11巻』(山田耕作編纂、春秋社発行)の194頁を参照すると、彼が目指した「ポエーム、ヴァリツィオーネン」が、作曲法上の変奏形式にとどまらず、内容も密接に関連するものであったことが窺い知れる。
「序章
云ひ知れぬ吐息。と共に、ふと響く、過ぎし日の華麗なる思いで。しかもそは、逝きし日のものなれば、追ふに従ひて消えうすれゆく。のこるはただ、深き、失ひしものの嗟嘆の声。かかるとき、人は歌ふ。
主題
『春高楼の花の宴、めぐる盃かげさして……』
1章
やる瀬なき怒りの心、
2章
美しかりし日の讃美、
3章
またすすり泣き。」
上記に「序章」と「1~3章」の部分を記載したが、以下「11章」まで詩は続いてゆく。そして最後に次の文が記されている。
「結章
過ぎ逝きし栄華も、そを思ひ出でて嘆く人も、亦ひとり静かに立つ荒れたる城も、そはみな人の世の現れぞかし。されど、それ等のものの奥に潜める力。荒れはてたる城の上に寒く照る月、何所ともなく聞ゆる夜半の烏声と。」
※引用は『山田耕作全集 第11巻』(春秋社、1931年、194頁)による。原資料で旧字となっている文字は新字に、漢数字はローマ数字に改めた。
つまり山田の《哀詩》は、単なる「《荒城の月》の旋律に基づく変奏曲」ではなく、原曲の歌詞とそこに込められた情感をも盛り込んだ「ポエーム、ヴァリツィオーネン」であると言える。
《哀詩》という曲名には、《荒城の月》がうたう過去の栄華に対する懐愁とともに、滝廉太郎への哀悼の意味が含まれている。山田は「吾国最初の作曲者とも云うべき先輩」である滝廉太郎の非凡な楽才に驚嘆し、夭折を深く悲しんだ。
なお、《荒城の月》はもともと無伴奏であり、今日しばしば演奏される伴奏部分を付したのは、他でもない山田耕筰であった。山田は滝が作曲した歌唱旋律部分に関しても、変更を加えている。原曲がロ短調、4/4拍子、8小節、曲想表示はAndanteであったのに対して、山田はこれを原曲より4度上のイ短調に移調し、原曲の8分音符を4分音符に置きかえ4/4拍子に編曲した。また、4小節の前奏をふくむピアノ伴奏を付して全体を24小節とし、曲想表示はLent, dololoso e cantabileに改めた。そして歌詞の旋律部分についても、滝の原曲においてeisであった「花の宴(はなのえん)」の「え」の音はEに変更されている。