1914 年 1 月から 1917 年に渡英するまでの 3 年間、山田耕筰は日本で洋楽のパイオニアとして精力的に活動し、管弦楽団の創設や、「ヤマダ・アーベント」を開催してピアノ作品を自作自演した。私生活においては、1915 年に永井郁子と結婚する(入籍はせず)もその後破局し、 1916 年 11 月に、幼馴染の村上菊尾(河合磯代)と結婚した。翌年の 4 月には長女の美沙が誕生するなど充実した日々を送っていた。
1916 年 12 月作曲の《迎春》は当初、《プチ・ ポエム「日記の一頁」》の第 10 曲として構想された。しかし、作曲者によって「No. 10」の 文字が削除され、新たに現在の第 10 曲〈除夜〉 が作曲された。作曲者自身による初演の記録は残っていないが、《迎春》は、ボストンのオリバー・ディットソン社刊行の自選ピアノ曲集『音 の流れ』に収録されている。楽曲全体は 24 小節と非常に短い。楽曲冒頭は、拍子の著しい変化、断片的なモチーフの登場、重音の頻出などの要素が目立つが、9 小節目以降に現れる右手の旋律は日本古来の 5 音音階で書かれており、 非常に旋律的で楽曲に抑揚が付けられている。