日常生活の断片を切り取ったような《プチ・ ポエム(日記の一頁)》の相次ぐ創作の中で、山田は、日付のみならず標題を添えるようになった。これには、林学者寺崎渡とその妻悦子との交流、特に悦子との恋が関係している。この交友は、悦子が近所に住む山田のピアノのレッスンを受けたことで始まったとされる。日本の古典文学に造詣が深く、短歌を詠むことを愉しみとしていた悦子から影響を受け、山田は次第に自身が作曲するピアノ曲に文学的なタイトルを付けるようになっていった。このことは、 1916 年夏ごろから翌年にかけて作曲されたプチ・ポエムに《夢噺し》、《みのりの涙》など標題が付いていることからも見て取れる。また、 それらには「E. T. 夫人に」という献辞が付いている。
1917 年 9 月 30 日に作曲された《妬の火》は、「Japanese Ballade」のタイトルでニューヨークの Composers’ Music Corporation から初版が出ている。同年に作曲された数多の「プチ・ポエム」とは異なり、本作はかなり大規模な構想のもとに書かれ、細かい音価によるアルペッジョなどのピアニスティックな技巧が随所にみられる。 1917 年 10 月 13 日、自身が出演する「ヤマダ・ アーベント」にて初演された。