【解説】
1917年作曲。楽譜は以下が存在する。
●自筆譜 Ms.477
●春秋社旧全集
●春秋社新全集
●ハッスルコピー
●ミューズプレス
『源氏物語』の中から7帖を取り上げている。各帖の登場人物のキャラクターや世界観を捉えた7曲。ドビュッシーの影響が見られるが、行間を感じさせる休符や、日本音階の使用など山田独自の手法で、雅な世界を描いている。
「花の宴」と「花散る里」の2曲については以下の経緯があることを述べておく。
旧全集では、目次に「(ほ)花の宴」としながら、その当該ページには「花散る里」のタイトルの元、「花散る里」の楽譜を入れてしまった経緯がある。その後出版された新全集では、目次に合わせる形で当該ページの曲題を「花の宴」に訂正したものの、楽譜はそのままだったため、原作「花散る里」が「花の宴」に入れ替わってしまった。一方、(へ)「花散る里」も同様に入れ替わった。
そのため、「花の宴」と「花散る里」の曲とタイトルが入れ替わってしまったことがそのまま新全集・ハッスルコピー版で踏襲されている。2022年に発行されたミューズプレス版(『山田耕筰ピアノ曲拾遺』第三巻)で、本来の形に戻された。
タイトルと曲の整合性は、自筆譜の表紙(楽譜とは別紙)にタイトルとともに併記された日付と、曲の楽譜の末尾に書かれた日付が一致するか照合することで確認できる。「花の宴」の表紙には「25.März 1917」、本来の「花の宴」の楽譜の末尾にも同様の日付が書き込まれている。
さらに、「花散る里」の管弦楽版の自筆譜Ms.1316が現存するが、この譜面を見ることによっても確認することができる。
「源氏楽帖」について、山田自身の言葉を引用する。
山田は、第2回リサイタルのパンフレットの巻頭で、以下のように述べている。
源氏楽帖は、畏友T氏の家で三月二十一日に生まれ出たのです。そしてそれも作曲年代表で御覧の通りの次第で極めて不順に生まれました。またその生まれかたも殆ど偶然過ぎる程でした。私は、然し余程前からこう云うものを書いて見度いとは思って居たのでした。そしてE夫人が源氏物語を平常から愛読して居られて、丁度その晩も、殆ど不思議と云っていい位です、私の書いて居た心と、夫人の繙いて居られた虜とが全く一致して居他のでした。こうして私は殆ど同夫人に誘導刺撃されて、この楽蝶を書いたのです。
この曲は然し、管弦楽への組曲として書いたものでございます。それ故、ピアノで演奏するのは少し無理かもしれません。それは、外相官邸での管弦楽によれる演奏を聞いた方々には、その差がどれ程はげしいかがお分かりになる事と思ひます。然し、油畫(油画)を寫眞(写真)で見る程度に於いては、どなたにもこのまま聞いて戴けると思ひます。
(い)「桐壺」の巻より 1917年4月11日作曲。
(ろ)「若紫」の巻より 1917年4月11日作曲。
(は)「末摘花」の巻より 1917年4月11日作曲。
(に)「紅葉の賀」の巻より 1917年6月30日作曲。
(ほ)「花の宴」の巻より 1917年3月25日作曲。
(へ)「花散里」の巻より 1917年3月21日作曲。
(と)「須磨」の巻より 1917年3月24日作曲。