[ II ] ソロ・ピアノ曲
ソロ・ピアノ曲(ドビュッシーのピアノ曲は作曲時期と出版年、初演年が離れていることも多い。作曲が複数年にわたる場合は「刊」として出版年を記している)
[ II - A] 1890年代
ピアニストを目指したこともあるドビュッシーだが、初期のピアノ曲には独創的な作品が少ない。彼の関心が管弦楽曲やオペラに向き、現存するピアノ曲は生活の糧でしかなかったからだ。むしろ、初期の歌曲の伴奏部分に、はるかにすすんだ書法が見られる。
1890年作の『夢』『バラード』には、ムソルグスキーはじめロシア音楽からの影響が、『ロマンティックなワルツ』、4手連弾曲『スコットランド行進曲』には、当時作曲中だった未完のオペラ『ロドリーグとシメーヌ』の主要モティーフが散見される。
1891年に出版された『2つのアラベスク』は、初期作品中もっとも完成度が高い。アラベスクとはアラブ風の唐草模様の意だが、ここでは優雅な曲線のからみあいと解釈することができる。ドビュッシーはある評論で、バッハの音楽にみられるしなやかで流動的な「アラベスク」を賞賛しているが、これはそのまま彼の『アラベスク』にあてはまる。
1894年冬の日付をもつ『忘れられた映像』は、イヴォンヌ・ルロール(ショーソンの妻の兄弟である画家の娘)に捧げられている。1896年に単独で出版された第2曲「サラバンド」はわずかな変更とともに『ピアノのために』に転用されたが、イヴォンヌの結婚後の姓ルアール夫人に捧げられている。第3曲「『もう森へ行かない』の諸相」も、『ピアノのために』や『版画』の起源として重要である。冒頭は『ピアノのために』の「プレリュード」の冒頭を連想させる。また、主要モティーフとして使われている童謡「もう森へ行かない」は、『版画』の「雨の庭」に転用され、また別の展開を見せている。
[ II - B] 1900年代
1901年に刊行された『ピアノのために』は、古典組曲の形をとり、第1曲「プレリュード」にはバッハのオルガン曲、第3曲「トッカータ」には18世紀のクラヴサン音楽のスタイルと技法が反映されている。第2曲「サラバンド」も古典舞曲に倣っているが、和音の塊を旋律的に移動させるドビュッシー独自の語法の萌芽がみられる。
1903年刊の『版画』は、ピアノ曲としては初の革新的な作品である。第1曲「塔」は、1889年のパリ万国博覧会の折にドビュッシーが接したジャワのガムラン音楽からの影響が顕著で、ガムランのスレンドロ音階が使われている。第2曲「グラナダの夕」はハバネラのリズムのオスティナートの上で、モール風のけだるい旋律が奏でられる。ドビュッシーは一度もスペインに行ったことがなかったが、ファリャによれば「アンダルシア地方のもっとも凝縮された雰囲気が、みごとなまでに純化されて表現されている」。
第3曲「雨の庭」には、前述の「もう森へ行かない」とともにフランスで歌われる子守歌が使われている。また、ほの暗い全音音階の響きから光輝くアルペジオが噴出する場面は、『ペレアスとメリザンド』の「地下の場」と「地上の場」の対比を思いおこさせる。
1904年作の『仮面』『喜びの島』は、16世紀北イタリアに発生したコメディア・デッラルテをベースとしている。ベルガモ地方の役者は、ピエロやアルルカンに扮して即興仮面劇を演じた。18世紀フランスの宮廷で流行し、貴族たちは役者を招いて「雅びなる宴」を催した。この宴が、19世紀末の文人たちの想像力を刺激したのである。『>喜びの島』は、「雅びなる宴」の情景を多く描いたワットーの「シテール島への船出」に想を得たもので、官能的な表現という点で『牧神の午後への前奏曲』と共通点をもっている。
上記の2曲は、他一曲とともにフロモンから『ベルガマスク組曲』として出版される予定だった。しかし、デュランが両曲を単独で出版したため、フロモンは1890年以前に書かれた4曲を『ベルガマスク組曲』として1905年に刊行した。前年の広告では「月の光」は「感傷的な対話」というタイトルをもっていた。「パスピエ」は「パヴァーヌ」と題され、「雅びなる宴」を背景にもつフォーレ「パヴァーヌ」と共通点をもっている。
1905年刊の『映像第1集』は、ドビュッシー自身が「シューマンの左、ショパンの右」の位置を占めるだろうと自賛した中期の傑作である。「水の反映」はラヴェル「水のたわむれ」のように水の諸様相の描写ではなく、それを眺める作者の心象風景の表出という点で、象徴詩に共通するところがある。「ラモー頌」は、『ピアノのために』の「サラバンド」と同じく、ゆったりした舞曲のリズムの上で、和音塊を旋律的に動かしている。「運動」は、クラヴサンのトッカータ風の楽曲だが、無窮動のリズムの中に幾何的な音形を配し、後年の『12の練習曲』を思わせる抽象的な音楽となっている。
1907年作の『映像第2集』は東洋と深いかかわりをもっている。「葉ずえを渡る鐘の音」は、ドビュッシー特有の重層構造をもっており、5音音階や全音音階で配されたさまざまな鐘がさまざまな律動で鳴らされ、その響きがからみあい、スタティックな美しさを醸しだしている。さらにスタティックなのは「そして月は廃寺にかかる」である。この曲はカンボジアのアンコールワット寺院に由来しているといわれるが、実際に、鐘の前打音をともなった5音音階の上に「ブッダ」と書きつけられたスケッチが残っている。「金色の魚」は、ドビュッシーが収集した蒔絵の箱の緋鯉にヒントを得たものである。各種の5音音階が使われているが、3拍子で躍動感に満ちた音楽であるため、東洋風のイメージはあまり感じられない。
1908年刊の『子供の領分』は、愛娘シュシュに捧げられている。ドビュッシーがこの年完成させた唯一の作品で、シンプルながら、いいしれぬ憂愁が漂っている。
「グラドス・アド・パルナッスム博士」は、学習者向けの練習曲を揶揄した内容である。シュシュ自身がピアノを練習する場面の描写とする解説も見かけるが、2歳9ヶ月でクレメンティを弾いたとしたら天才である。「象の子守歌」の原題「ジンボー」は、シュシュのお気に入りの人形。中間部で「雨の庭」にも出てくる子守歌が使われている。他の曲に先立って単独で出版された「人形へのセレナーデ」は、ギターを模した伴奏に乗って、装飾された5音音階の旋律がコミカルな雰囲気を演出する。「雪は踊っている」はミステリアスな雰囲気をもつ楽曲で、やわらかいスタッカートで奏される冒頭のモティーフは、歌曲集『ビリティスの歌』の第3曲「ナイアッドの墓」の伴奏形に似ている。「小さな羊飼い」のメリスマ風の旋律は、『牧神の午後への前奏曲』のフルートの序奏を思わせる。いっぽう、左右に揺れる付点音符は『喜びの島』に共通している。「ゴリウォーグのケークウォーク」のゴリウォークは、当時大流行していた黒人人形をもじったもの。ジャズの前身であるケークウォークのリズムに乗ってぎくしゃくと踊る。
[ II - C] 1910年代
全2巻の『前奏曲集』は、ドビュッシーのピアノ作品中の最重要作であるのみならず、20世紀前半のピアノ音楽としても最高傑作のひとつに数えられる。「タイトル」は作曲家自身によって曲の終わりに「たとえば」というふうに「・・・」をつけて書き込まれ、イメージ喚起的な意味合いをもたされているが、ここでは便宜上タイトルとして扱う。
1909年12月から翌10年2月という、きわめて短期間に書かれた前奏曲集第1巻は、ショパンに学び、ムソルグスキーと東洋音楽に触発され、クラヴサン音楽に源流を求めるドビュッシーの語法の集大成ともいえよう。
1「デルフの舞姫たち」 ルーヴル美術館に展示されている古代ギリシャのカリアティード(女像柱)がイメージ源だという。
2「帆」 原題には船の帆とヴェールのふたつの意味があり、ヨットの帆が風にたなびくさまとも、ダンサーが透明なヴェールを変幻自在に操って踊るさまとも言われている。
3「野をわたる風」 ヴェルレーヌによる歌曲集『忘れられた小唄』の第1曲「そはやるせなき夢心地」のエピグラフ「野をわたる風は宙で息をとめる」からとられた。
4「音と香りは夕暮れの大気に漂う」 ボードレールの詩「夕べの諧調」の一節に拠り、五感がないまぜになった陶酔状態をあらわす。
5「アナカプリの丘」 5音音階の鐘の余韻ではじまり、タランテラのリズムではげしく踊り、いなせなナポリ民謡で陶酔させ、光輝くアルペジオで終わる。
6「雪の上の足跡」 逡巡するようなリズム・オスティナートの上に「このリズムは、淋しく凍てついた風景の底に秘められた音価をもたなければならない」と書かれている。
7「西風の見たもの」 アンデルセンの童話『パラダイス』にもとづいていく王子が楽園を探しに旅に出て風穴に落ち、西風の冒険談をきくという話。
8「亜麻色の髪の乙女」 タイトルは若き日に歌曲を作曲したルコント・ド・リールの詩からとられている。
9「とだえたセレナーデ」 グラナダのアルバイシン地区からきこえてくるギターの音とフラメンコの喧騒を想起させる作品。中間部には管弦楽のための『映像』の「イベリア」の一節が挿入されている。
10「沈める寺」 悪魔と結託した娘によって水門を開かれ、一夜で海の底に沈んだイスの街が、ときおり海の上に姿をあらわすというブルターニュの伝説にもとづいている。
11「パックの踊り」 イギリスの挿絵画家アーサー・ラッカムの絵本にもとづく。シェイクスピア『真夏の夜の夢』のいたずら者の妖精パックをユーモラスに描写している。
12「ミンストレル」 「ミンストレル団」というアメリカのヴォードヴィル団のこと。白人なのに顔を黒く塗ってダンス音楽を演奏し、こっけいな寸劇やアクロバットで観客を沸かせた。ドビュッシーは、1905年夏にイギリスで彼らのショーに接している。
1912年に完成され、13年に初演された『前奏曲集第2巻』は、1巻に比べて実験的・抽象的な作品が多く、20世紀音楽の先がけとして評価されている。
1「霧」 ピアノの白鍵と黒鍵の響きを混ぜる手法が、非現実的な雰囲気を醸しだす。ステファン・ヤロチニスキはこうした語法を「ドビュッシーの音響宇宙」と呼んだ。
2「枯れ葉」 冒頭の神秘的な和音の連なりは、わざと調性をぼかすことによって宙に浮いたような効果をあげている。
3「ヴィノの門」 ファリャから送られたアルハンブラ宮殿の入場門の絵葉書に想を得たといわれる。ハバネラのリズムに乗って、暗く熱っぽい旋律がさまざまに展開される。
4「妖精はよい踊り子」 タイトルは第1巻の「パックの踊り」と同じくアーサー・ラッカムの絵本『ケンジントン公園のピーターパン』の挿絵からとられた。
5「ヒースの茂る荒れ地」 深々とした情趣に満ちた作品。陰気な表情記号の多いドビュッシー音楽の中で、珍しく「喜びに満ちて」と書きつけられた部分がある。
6「風変わりなラヴィーヌ将軍」 ラヴィーヌ将軍はアメリカ生まれのヴォードヴィルの芸人。ドビュッシー特有の皮肉なユーモアをあらわした作品。
7「月光の降りそそぐ露台」 インド皇帝ジョルジュ5世の戴冠式の模様を伝える『ル・タン』紙の記事に想を得たといわれる幽玄な作品。
8「水の精」 フケー『ウンディーネ』へのラッカムの挿絵がイメージ源。中間部では未完のオペラ『アッシャー家の崩壊』のモティーフが使われている。
9「ピックウィック殿礼賛」 タイトルはドビュッシーが愛読していたディケンズの作品からとられた。謹厳実直なイギリス人を揶揄するイギリス国家のパロディ。
10「カノープ」 ミイラを作ったあと、内臓を入れて埋葬する古代エジプトの壷。全音音階の響きの中で、『アッシャー家』の「崩壊の主題」の連打音が不吉な影を落とす。
11「交替する3度」 3度の響きを素材として使った点で『12の練習曲』に共通する。クラヴサンの「バトリ(左右のすばやい交替)」をアレンジしたもの。
12「花火」 黒鍵と白鍵の交替が複調的な効果をあげている。花火が二重グリッサンドとなって炸裂したあと、かすかにフランス国歌『ラ・マルセイエーズ』が聞こえてくる。
1915年作の『12の練習曲』は、ピアノ技法を追求するとともに、作曲技法的にも20世紀音楽の扉を開く傑作。当初はクープランに捧げることも考えたが、最終的に「ショパンの思い出」に捧げられた。デュランへの手紙には、ショパンの教えを伝授されたモーテ夫人への感謝の念がつづられている。
1.「5本指のための(チェルニー氏に倣って)」。『子供の領分』の「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」と同系列の作品。曲頭の「チェルニー氏に倣って」とは、チェルニーを嫌っていたショパンの教えに派生するドビュッシー一流の皮肉と思われる。
2.「3度のための」 ショパン『練習曲作品25-6』と同様の音形だが、意味が違う。ショパンの重音の練習曲が、基本的に各指の分離と重心の移動を目的としたのに対して、ドビュッシーは3度の響きそのものに注目し、作曲素材として使ったのである。
3.「4度のための」 『版画』の「塔」と同系列の作品で、時空に漂う4度の連なりと、鐘を乱打したような激しい音響が東洋ふうのイメージをかきたてる。
4.「6度のための」 ショパンの練習曲のように手の拡張のために書かれたというよりは、音響実験としての意味あいが大きい。
5.「8度のための」 ショパン『作品25-9』の軽やかなスタッカートから、『作品25-10』の強いレガートまで、さまざまなオクターヴの技法が追求されている。
6.「8本指のための」 ショパン『作品10-8』の発想をもとに、クラヴサンふうの「バトリ」と黒鍵と白鍵の交替を加え、まったく新しい音響世界を創り出している。
7.「半音階のための」 ショパン『練習曲作品10-2』やリスト『鬼火』の幻想性を発展させた作品。ドビュッシーは、「いささか使い古された感のあるこの技法から少しは新しいものがひきだせたのではないかと思う」と書いている。
8.「装飾音のための」 タイトルは、クラヴサン時代の装飾音の総称「アグレマン」に因っている。作曲者自身の表現によれば「イタリアの海の上のバルカローレの形式」にのっとって、ドビュッシー風にアレンジされたさまざまな装飾法がくりひろげられる。
9.「反復音のための」 連打音や「バトリ」をコミカルにアレンジした作品。
10.「対比音のための」 ドビュッシー音楽の原点である「対比」の概念から発している。さまざまな鐘の音がそれぞれのレベルで打ち鳴らされ、一種の音響宇宙的な効果をあげているが、ときおり戦争を象徴する進軍ラッパのモティーフもこだまする。
11.「アルペッジョのための」 初期のスケッチは、ショパン『練習曲作品10-1』によく似た音形で書かれていたが、最終稿はむしろ『同作品25-1』を連想させる。
12.「和音のための」 大きくてよく拡がる手をもっていたドビュッシーは、和音を楽々とつかみ、平行移動させて楽しんだと言われる。最後の練習曲は、ドビュッシーが「スウェーデン体操」と呼んだ左右の大胆な跳躍がピアニストたちを悩ませる。
[ III ] 4手連弾、二台ピアノのための作品
A)小組曲 1889年に初演された4手連弾のための作品で、「小舟にて」「行列」「メヌエット」「バレエ」の4曲からなり、第1、第2曲のタイトルは、ヴェルレーヌの詩集『雅びなる宴』中の詩からとられている。また、第3曲は、バンヴィルの詩による歌曲『雅びなる宴』(1882)をアレンジしたものである。
B)6つの古代碑銘 1914年に書かれた組曲で、友人の詩人、ピエール・ルイスの詩にもとづく朗読とパントマイムのための音楽『ビリティスの歌』(1900~1)の諸要素をもとに4手連弾用に編曲されたものである。全体は6曲に分かれ、それぞれルイスの詩の題名もしくは詩句にちなんだタイトルがつけられている。
C)白と黒で 1915年7月20日、最後の豊作の夏に完成された2台ピアノのための作品。当初のタイトルはドビュッシーの愛したゴヤの版画にちなんで『カプリス』とつけられていたが、のちに改められた。デュランへの手紙に、あまりに黒のほうに押し流されて悲劇的になりすぎたので、脱色した結果、「ヴェラスケスの灰色にまでなった」という表現がみられる。つまり、この場合の「白と黒」はピアノの鍵盤のことではなく、ドビュッシーが好んだ対比の精神を背景にもっていることがわかる。
[ IV ] ドビュッシーのピアノ技法と奏法上の留意点
ドビュッシーは、ワーグナーを乗り越えるためにフランス固有の美を武器とし、大胆な語法によって20世紀音楽への扉をあけた作曲家である。長調・短調の明確な対比を嫌った彼は、教会旋法、東洋風の5音音階、全音音階などを駆使し、印象派の画家たちが遠近法を回避するために画面を分割したように、平面的、スタティックな美を生み出した。
ドビュッシーのピアニズムには、大きくわけて次の3つの源流がある。モーテ夫人を通じて伝えられたショパンの技法(ビロードのようなタッチと美しい響き、軽やかなリズムなど)、やはりモーテ夫人に目を開かれたバッハの書法(対位法的、優雅なアラベスクなど)、18世紀クラヴサン音楽の技法(多彩な装飾音、「バトリ」など)。
ドビュッシー独自の語法としては、ペダルで白鍵と黒鍵の響きを混ぜたり、重音や和音塊を平行移動させたり、いくつもの層を積み重ねて、独特の「音響宇宙」を生み出したこと、ポリリズムやルバートを多用して自在な律動を作り出したことなどがあげられる。
1907年にドビュッシーは、「私はますます音楽というのは色彩と律動づけられた時間でできていると確信するようになった」と書いているが、調性からもリズムからも自由になりながら有機性を失わなかったドビュッシーの在り方を象徴するような言葉である。
『前奏曲集第1巻』が『管弦楽のための映像』の「イベリア」と同時進行していたように、ドビュッシーのピアノ曲はオーケストラ曲やオペラ、声楽曲と密接なかかわりももつものが多い。従って、単にピアノ曲としての解釈にとどまるのではなく、背景となっているテキストや管弦楽の色彩感をとりいれなければ、片手落ちになるだろう。
ドビュッシーの「音響宇宙」にはペダルの使用が不可欠だが、彼の発想はしばしば管弦楽的で、幾重もの音響レベルを明確に弾きわけるタッチとペダリングが求められる。
東洋美術に深い関心をもち、また作品にもとりいれたドビュッシーは、作曲にあたってのモットーを「ものごとの半分まで言って想像力に接ぎ木させる」と表現している。すべてをさらけ出さず、深く静かに潜行させるその姿勢は、東洋人、とりわけ日本人の美意識にもっとも近い作曲家ということができよう。