
解説:山本 明尚 (4795文字)
更新日:2019年7月10日
解説:山本 明尚 (4795文字)
チャイコフスキー(1840-1893)
ロシアが誇る作曲家の一人、ピョートル・チャイコフスキー(ピョートル・イリイーチ・チャイコーフスキイ)は、1840年4月25日(新暦5月7日、以後露暦標記)、ヨーロッパ・ロシアの東部に位置する町、ヴォトキンスクに、7人きょうだいの3人目、次男として生まれた。ヴォトキンスクは18世紀の製鉄工場開設にともなって形成された広大なダム湖のほとりに発展した町で、ピョートルの父イリヤーはそこで鉱山技師、工場長として勤めていた。両親とも楽器を演奏できる文化人だった家庭で育った息子ピョートルは、自然な成り行きで、母親からピアノの手ほどきを受け、上流階級の常として、家庭教師に音楽を習いはじめた。また、工場と自然とが共存するヴォトキンスクで、どこからともなく聞こえてくる民謡も、チャイコフスキーの耳を育てた。当時、ロシア人にとって音楽は海外からの輸入物であり、単なる上流階級の嗜みや楽しみの対象でしかなかったが、この二人の素養と土地のいわば「音楽性」が未来の作曲家を育んだことは間違いない。
父イリヤー・チャイコフスキーは1848年に職を辞し、一家は故郷を離れ、ピョートルは両親の意志に従い、1850年から帝国法律学校で寄宿生として学び始めた。この学生時代にも彼は音楽の勉強も続け、最初の作曲を試みたり、学生合唱の指揮を行ったりした。
帝国法律学校の同窓生で、チャイコフスキーと仲の良かった人物に、詩人のアレクセイ・アプーフチンがいた。この親友は、法律学校のなかで例外的に音楽に親しみを持っていた人物で、そこで育まれた二人の友情は、詩人が1893年の8月、チャイコフスキーより2ヶ月ほど前に先立ってしまうまで続き、チャイコフスキーはアプーフチンの書いた詩にたびたび曲を付けた。なお、この友情は同性愛的な部分も多分に混じったものだったようで、彼らを含む友人集団が、1862年にペテルブルクのレストランでスキャンダルを起こしたこともよく知られている。
ピョートルは1859年に法律学校卒業後、法務省の官吏としてしばらく奉職したが、首都の文化的生活と放蕩に浸ったという。仕事の一方で音楽の勉強も継続し、1861年の秋に、ロシア音楽協会の和声の授業を受講し始めた。1862年に新設されたサンクトペテルブルク音楽院の第一期生として入学、和声をニコラーイ・ザレーンバ、作曲をアントーン・ルビンシテーインに師事。まさにこの時期に音楽の道を進む決意が固まったのだろう、チャイコフスキーは4年務めた法務省を辞職してしまった。
1865年にペテルブルク音楽院の作曲科を卒業し、翌1866年にはすでに、アントーンの弟ニコラーイ・ルビンシテーインに招聘され、同年に新設されたモスクワ音楽院の教授に就任し、自由作曲・音楽理論・和声・楽器法を指導することになった。和声に関しては、1871年と1875年にそれぞれ教本を出版している。チャイコフスキーは、ロシア国内で正規の高等音楽教育を受け、その後ロシア国内で教育活動を行った、いわば「ロシア純粋培養」の作曲家・音楽教育者のさきがけであったといえる。
1868年にいわゆる「バラーキレフ・サークル」(俗に「ロシア五人組」とも)の人々との交際が始まることも、この時期の特筆すべき出来事だろう。特にバラーキレフは、幻想序曲《ロメオとジュリエット》(1869)や《マンフレッド交響曲》(1885)といった標題作品の創作に際し助言するなど、チャイコフスキーの管弦楽作品の構想に影響を与えたことでよく知られている。
順風満帆に見えたチャイコフスキーだが、1870年代の後半に私生活の危機が訪れる。それは、結婚に関わるトラブルである。1876年の8月、彼は弟モデストへの手紙にこう書いている「僕は結婚することに決めた。必然のことだ。これは自分自身のためじゃなく、君のため、トーリャ[弟アナトーリイ]のため、サーシャ[妹アレクサーンドラ]のため、僕が愛する全員のためにもそうしなきゃいけないんだ」(強調は原文ママ)と手紙に書き送った。そして、かつてモスクワで会ったことがあり、1877年3月末に彼に愛の告白の手紙を送ってきた8歳年少の女性アントーニナ・ミリューコヴァと、5月末に会ったのち、その1ヶ月半後にはもう結婚式を挙げてしまった。この婚姻が全くの失敗に終わったことはよく知られている。チャイコフスキーは結婚直後からすでに、自らの重大な過ちに気づき、実質的な結婚生活は2ヶ月ほどで終焉した。モーツァルトとその妻コンスタンツェと同様、偉大な作曲家の結婚生活の破綻の原因は、妻アントーニナが悪女だったことにあるのだ、と長年論じられてきた。しかし、今日、資料研究や情報公開が進むにつれ、この破綻は主に、チャイコフスキーが女性を受け入れられなかったことによるものだと考えられるようになった。
結婚生活から逃避するように1877年10月にスイスに去ったチャイコフスキーに、その年の末に願ってもない話が舞い込んできた。同年5月頃から手紙で交友していたナデージダ・フォン・メック(メック夫人)から、定期的な金銭的支援の申し出を受けたのである。半ルーブルほど出せばウォッカ一瓶が買え、ボリショイ劇場の最前列のチケットが3ルーブルしたという時代に、作曲家は毎年6000ルーブルもの大金を受け取るようになった。「健康上の理由」という書面で、チャイコフスキーは1878年にモスクワ音楽院の教授職を辞し、以降のキャリアを自らの音楽活動に集中させることになるが、そのようなことができたのも、彼女の支援あってこそだろう。この関係はあくまで私的なもので、事実、チャイコフスキーは彼女に作品を献呈する際も、常にその名を伏せて捧げるようにしていた。例えば、交響曲第4番は「私の最良の友人へ」、ヴァイオリンとピアノのための《なつかしい土地の思い出》には、メック夫人の別荘があったブライーロフの地から「B*******に」と献辞が書かれている。また、チャイコフスキーとメック夫人は、1890年までの約14年に渡る期間で、現存するだけでも1200通以上の書簡を交わし、音楽のことのみならず、様々な話題についてそこで語り合った。その中には、1880年代前半にメック夫人家のピアノ教師として働いていた青年クロード・ドビュッシーの話題も含まれている。ドビュッシーはチャイコフスキーの音楽を愛し、メック夫人を通じてピアノ曲《ボヘミア風舞曲》を彼に見せたという(チャイコフスキーはいささか物足りなさげな評価を下した)。しかし、よく知られているように、二人はどんなときも直接面会することはなかった。1884年にメック夫人の息子ニコラーイがチャイコフスキーの姪のアンナと結婚したときも、二人が親戚関係になってからも、そのような態度は変わらなかった。二人は直接的に言葉をかわすロマンチックな関係というよりも、書かれた言葉を通じた奇妙な精神的共鳴関係にあったのだろう。
なお、結婚の決意・その致命的失敗・海外脱出・メック夫人からの支援の申し出という出来事が続き、精神的動揺も激しかったであろう1877〜78年にも、チャイコフスキーの創作力は衰えず、交響曲第4番、オペラ《エヴゲーニイ・オネーギン》、ヴァイオリン協奏曲といった大規模な傑作、《大ソナタ》や《子供のアルバム》といったピアノ曲を世に送り出した。
職を辞して自由になり、支援者の存在により金銭的余裕を得たチャイコフスキーは、しばしば海外やロシア郊外に長期滞在するようになった。この時期に、ジャンヌ・ダルクを題材にしたオペラ《オルレアンの少女》(1881、シラー原作、ジュコーフスキイ翻訳が原案)、《弦楽のためのセレナーデ》、ピアノ協奏曲第2番などが作曲され、交響曲第1番など、初期作品の改稿も手がけられた。1885年にモスクワ(クリン)近郊のマイダノヴォという村に落ち着くまで、この放浪生活は続いた。
1880年代後半からは指揮者としての活動も目立ち始め、ペテルブルクやモスクワはもちろん、国外ではライプツィヒ、ハンブルク、ベルリン、プラハ、パリ、ロンドンでひっきりなしに自作・他作を指揮し、さらに、ニューヨークはカーネギーホールのこけら落とし演奏会でも自作の《戴冠式祝典行進曲》を指揮した。以上のような海外放浪・海外公演で、チャイコフスキーはパリでフォーレ、ラロ、グノーに、ドイツでマーラーに、プラハでドヴォルザークなど、多くの音楽家との知己を得たことも知られている。このような交流と公演の中で、チャイコフスキーはロシアを代表する作曲家としての名声を高めていき、1893年にはケンブリッジ大学から名誉博士号を授与された。
しかし、それからチャイコフスキーに残された時間はあまりにも少なかった。1893年10月16日に交響曲第6番を自らの指揮で初演した後、コレラと診断され、急激に健康状態が悪化。チャイコフスキーは10月25日に、53歳でこの世を去った。それまで弱る様子もなく、弛まず作曲・演奏活動を続けていた彼の突然の死が、どれほど社会を驚かせたことだろうか。チャイコフスキーの音楽を愛してやまなかった皇帝アレクサンドル3世夫妻もその死を悼み、「国葬がふさわしい」とまで言及したと言われる。あまりにも急な死と、実質的な白鳥の歌となった交響曲第6番の音楽的性格、そして錯綜した様々な回想録のエピソードやゴシップニュースといった様々な要素が絡み合い、彼の生涯と死は、つねに「神話」を纏っている。
チャイコフスキーは、当時主要だったあらゆるジャンルに作品を残し、彼のオペラ、バレエ、劇音楽、管弦楽作品、合唱曲、歌曲、器楽曲は、今日世界各地のオペラ座、コンサートホール、サロン、家々で広く親しまれている。
チャイコフスキーは、他のロマン派期の作曲家と比べると、ピアノという楽器に比重を置き、その楽器の扱いに卓越していた作曲家だとは言い難い。しかし、特に初期のチャイコフスキーにとって、ピアノ作品は重要な仕事場だったと言える。出版作品に絞って言うと、作品1〜10(年代で言うと1867〜1871年に当たる)までの8曲がピアノ作品で占められており、このジャンルが当時の彼にとって重要なものだったことがわかる。おそらくこのピアノ曲偏重は、19世紀中葉ロシアの文化状況のなか、アマチュアのためのピアノ作品の楽譜の売れ行きが特に良好だったという事情にも関わっているだろう。若手作曲家のチャイコフスキーにとって、ピアノ曲出版による印税収入は、生活の助けになったに違いない。その後、数年に渡って書かれない時期もあったものの、彼は没年の1893年まで度々ピアノ曲というジャンルに立ち戻り、大小あわせて100曲以上のピアノ曲を残した。
独奏曲以外にも、2曲のピアノ協奏曲は、チャイコフスキーの創作の中で重要な位置を占めている。特に、壮大な序奏を伴う第1番の人気はここで語るまでもないだろう(この有名な序奏は、チャイコフスキーの手によるものではない疑いがある。実際、最新の批判校訂版には、有名な序奏を含むヴァージョンは収録されていない)。第2番は、第1番と比較するとそれほど目立つ作品ではないかもしれないが、負けず劣らぬ壮大さもあり、どこか肩の力が抜けたような爽やかさもあり、再評価が待たれる作品である。また、未完に終わったが、放棄された交響曲を元に作曲され、死の直前に第1楽章(Allegro brillante)のみが作曲されたピアノ協奏曲第3番も魅力的である。なおその後、チャイコフスキーの弟子タネーエフが、作曲家の弟モデストの依頼により、残されたスケッチを基にして、緩徐楽章と最終楽章を補筆完成させた。
解説 : 実方 康介
(596 文字)
更新日:2005年7月1日
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解説 : 実方 康介 (596 文字)
ロシア、ウラル地方のヴォトキンスクで鉱山技師の父の元に生まれた。家族に職業音楽家はいないが、父がフルートを演奏し、母もピアノを弾くなど音楽的な素養があった。1859年から法務省の官吏になるが63年には辞職。このころ新設されたペテルブルク音楽院に所属しており、院長のアントン・ルビンシュタインに管弦楽法を学んだ。卒業後アントンの弟、ピアニストのニコライ・ルビンシュタインの招きでモスクワ音楽院の講師となった。ニコライとはその後親友として交流した。
1870年代は結婚(1877年)の失敗から精神的に不安定となるなど危機的な状況も迎えた。しかし創作力は旺盛で1868年の「ロメオとジュリエット」に始まって、「ピアノ協奏曲第1番(1874-75)」、「交響曲第4番(1877)」などの傑作が生み出されて名声をもたらした。
1880年代には皇帝一家との交流もあり、社会的地位を堅固なものとした。93年、交響曲第6番の初演直後に死去した。死因は一般的にはコレラとされているが、同性愛の発覚を恐れての自殺などという説もある。
チャイコフスキー作品でよく知られているのは交響曲やバレエ音楽などの管弦楽作品が中心で、有名なピアノ曲は少ない。その中でピアノ協奏曲第1番は、このジャンル中有数の人気曲として極めて高い人気を持っている。「四季」や「子供のためのアルバム」などの小品集、「ドゥムカ」が比較的演奏頻度が高い。
作品(65)
ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ) (2)
ピアノ独奏曲 (13)
曲集・小品集 (5)
即興曲 (3)
ワルツ (4)
性格小品 (9)
ピアノ合奏曲 (4)
リダクション/アレンジメント (5)
室内楽 (1)
種々の作品 (4)
その他 (5)
交響曲 (6)
管弦楽曲 (4)