プーランク 1899-1963 Poulenc, Francis
解説:永井 玉藻 (31978文字)
更新日:2019年5月14日
解説:永井 玉藻 (31978文字)
1. 少年時代から第一次世界大戦終結まで
20世紀フランスの作曲家・ピアニスト。製薬会社創設者の父エミールと、アマチュアピアニストの母ジェニーのもと、パリの裕福なブルジョワ家庭に生まれる。5歳からピアノを学び、また母方の叔父マルセルに連れられてオペラ・コミック座などの劇場に出入りしていたこともあり、プーランクも音楽への関心を抱くようになった。しかし父エミールは、息子がまず普通高校で学業を修めた後にパリ音楽院を受験することを希望したため、プーランクは作曲の学習を独学で始めている。1914年から1917年にかけては、ラヴェルのピアノ作品を多く初演したリカルド・ビニェスにピアノを師事。彼はプーランクにとっての精神的な導き手でもあり、若い時期に様々な音楽家の知己を得たのも、ビニェスを通してのことがほとんどである。そのため、プーランクの最初期のピアノ作品は、ビニェスに献呈、あるいは初演されている。
1915年6月に母を、1917年7月に父を相次いで亡くしたことで、プーランクは18歳で音楽家として生計を立てることを決意する。同年4月には歌曲《黒人狂詩曲》を完成していたため、彼はこの作品を12月にヴィユー・コロンビエ座で行われたジャヌ・バトリ主催のコンサートで初演し、公式に作曲家としてデビューした。このような経緯により、プーランクがパリ音楽院のような専門教育機関で作曲を学ぶことはなかった。ただし1921年から約4年間は、シャルル・ケクランのもとに自ら赴きレッスンを受けたほか、アルベール・ルーセルにアドバイスを仰ぐなどしている。
少年期から青年期にかけてのプーランクの交友関係は幅広く、ジョルジュ・オーリック、ダリウス・ミヨー、アルチュール・オネゲル、ジェルメーヌ・タイユフェールなど、のちに「六人組」と呼ばれる同世代の作曲家たちとは密接な関係を築いた。エリック・サティ、マヌエル・デ・ファリャらとはビニェスの紹介で知り合いになり、特にサティとは、頻繁にやり取りをする仲となった。また、イーゴリ・ストラヴィンスキーは、バレエ・リュスの主催者であるセルゲイ・ディアギレフとともに《黒人狂詩曲》の初演を聴いてプーランクの才能を見抜き、彼の初期作品の出版を手助けしている。
10代のプーランクにとって、文学界の人物たちとの繋がりもまた重要だった。彼の文学に対する愛好心は少年時代からのものだが、特に大きな影響を及ぼしたのは、パリ左岸の6区にあった貸本屋兼書店の「ラ・メゾン・デ・ザミ・デ・リーヴル」と、この書店を作曲家に紹介した幼馴染のレイモンド・リノシエの存在だった。この書店は単に本を販売するだけでなく、作家による朗読会や読書会などを頻繁に行っており、1910〜20年代のフランス文学界の中心地でもあった。ここでプーランクは、アンドレ・ブルトン、ポール・エリュアール、ルイ・アラゴンらと出会ったり、ギヨーム・アポリネールの詩作品に親しんだりするなどして、自らと同時代の文学に対する興味関心を深めていった。1917年ごろには、ジャン・コクトーやマックス・ジャコブなど、生涯を通して交流することになる作家たちとも出会っており、こうした文学からの影響は、のちにプーランクが作曲した声楽作品やオペラの題材に色濃く反映されている。
2. 第一次世界大戦終結後から1920年代まで
1918年に第1次世界大戦が終結すると、プーランクはヨーロッパの他の国を旅行し、1921年にミヨーとともに訪れたウィーンでは、シェーンベルク、ベルク、ウェーベルンの3人に会っている。作曲活動も活発で、特にバレエ・リュスのために作曲した《牡鹿》は、プーランクにとっては初の国際的成功を収めた作品となった。1920年代のプーランクの作品において、オーケストラを使用する曲は1928年作曲の《田園のコンセール》などを除きそれほど多くなく、ピアノ作品や歌曲、室内楽作品を中心に作曲している。
このように、若い時期からプーランクが活発な音楽活動を展開できたのは、彼がフランスの知識階級や芸術サークルに頻繁に出入りする社交性を持ち合わせていたことだけでなく、1920年代のフランスという時期も影響している。当時のフランスでは、芸術創造に対する個人のパトロネージがまだ大きな力を持っていた。若手作曲家としてデビューしたプーランクには、エドモン・ド・ポリニャック公爵夫妻や、シャルル・ド・ノアイユ伯爵夫妻など、芸術愛好家の貴族階級が作品を委嘱することで、積極的な支援が行われた。こうした若手の時期の成功もあり、プーランクは1927年にフランス中部トゥーレーヌのノワゼーに邸宅を購入し、没するまでパリの自宅とともに重要な活動拠点とした。
3. 1930年代から第二次世界大戦期まで
1930年代のプーランクの作曲活動は、20年代にも増して大変充実していた。30年代にも作曲の中心になっていたのはピアノ作品、歌曲、室内楽で、《仮面舞踏会》(1932年)、2台ピアノとオーケストラのための協奏曲(1932年)、《エリュアールの5つの詩》(1935年)、歌曲《ある日ある夜》(1937年)、《オルガン協奏曲》(1938年)、《オーバード》(1938年)、六重奏曲(1939年)など、プーランクを代表する作品が次々と生まれた。また、ノワゼーの邸宅を購入したことで資産難に陥ったため、30年代からは映画音楽や舞台のための付随音楽なども手がけるようになった。1935年4月には、歌手のピエール・ベルナックとの演奏旅行を初めて行う。このベルナックとの演奏活動は作曲家が没する直前の1959年まで続き、90曲ほどの歌曲が生み出されることとなった。
1936年には、カトリックの巡礼地の一つであるフランス南西部のロカマドゥールを初めて訪れる。この地のノートル=ダム大聖堂を訪問した経験と、30年代に相次いだ身近な人々との死別(1930年1月のリノシエ、1935年5月の叔母リエナールなど)により、1930年代半ば以降のプーランクは、宗教的な題材の作品を手がけるようになった。《黒衣の聖母のリタニ》(1936年)、ミサ曲ト長調(1937年)、《悔悟節のための4つのモテット》(1939年)などは、30年代のプーランクにおける宗教的な作品の一例である。
1939年には第二次世界大戦が勃発したが、短期間軍隊に召集された以外は、プーランクは基本的に作曲活動を続けることができた。戦争が本格化するにつれ、親戚らとともにパリを離れてノワゼーなどに疎開することもあったが、1940年夏にリムーザン地方のブリーブ=ラ=ガイヤルドに滞在していた際には、のちに《小象ババールのおはなし》(1945年)に結実するエピソードなどが生まれている。1944年3月には、親しくしていたユダヤ系作家のジャコブが収容所で没するなど、戦時下ゆえに起こった別離に加え、1943年4月にはビニェスが、1945年11月には叔父マルセルが亡くなり、プーランクを音楽へ導いた人物との別れが続いた。しかし、1942年8月にはパリ・オペラ座ではバレエ《模範的動物》が初演されたほか、《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》(1943年)、《人間の顔》(1943年)、《ティレジアスの乳房》(1944年)などの代表作の作曲が進められた。また、《ティレジアスの乳房》の稽古中には、後期の声楽作品のミューズとなったドニーズ・デュヴァルとの出会いがあり、彼女とプーランクは亡くなる直前まで公私共に親しく交流することになる。一方、1946年には、20年代にトゥーレーヌで知り合った女性との間に娘のマリー=アンジュが生まれた(ただし、母親の女性とは結婚しておらず、プーランクはマリー=アンジュに親戚の一人として接していた)。
4. 第二次世界大戦後から晩年まで
第二次世界大戦後のプーランクは、活動の場所をヨーロッパ大陸だけでなくアメリカにも広げた。1948年からは、特にベルナックやデュヴァルとの、歌とピアノのコンビで様々な都市を訪れている。彼らのこうした演奏活動は、プーランクの自作はもちろんのこと、他のフランス歌曲作品をアメリカに広める一助となった。また、プーランク自身もアメリカからの作品委嘱を積極的に引き受けるようになり、作曲活動がさらに発展することとなった。さらにこのころのプーランクはラジオ放送に大きな関心を抱き、自作や音楽について、フランス国立放送などのラジオ番組を通して語ることも始めた。それらの一部は、今日ではプーランクの著作集『私に歌いかけるものを書くJ’écris ce qui me chante』に収録されており、20世紀前半のフランスで活動した作曲家や当時の音楽文化について証言する貴重な資料のひとつとなっている。
1950年代に入ると、プーランクは引き続き室内楽やピアノ作品、声楽作品の作曲を中心としつつ、より規模の大きな作品も手がけるようになる。その代表がオペラで、プーランクは1944年にはすでに1作目のオペラ《ティレジアスの乳房》を完成させていたが、1957年には《カルメル会修道女の対話》を、1959年には《人間の声》を初演するなど、オペラに集中的に取り組む姿勢をとっていた。また、50年代のプーランクの作品には、彼の代表作として評価されるものが多数あり、1950年から51年にかけて作曲した《スターバト・マーテル》、同じく1951年作曲の2台ピアノのための《シテール島への船出》、1953年作曲の2台ピアノのためのソナタ、1956年作曲の歌曲《エリュアールの詩による「画家の仕事」》、1956年から57年にかけて作曲した「フルートとピアノのためのソナタ」、1959年作曲の《グロリア》などを次々と生み出している。一方、当時のフランスに興り始めた「現代音楽」に対しても敏感で、ピエール・ブーレーズが創設した「ドメーヌ・ミュジカル」のコンサートには頻繁に出席していた。プーランク自身は、そうした若い世代の音楽語法と自らの方向性が大きく異なることを承知しており、《カルメル会修道女の対話》作曲中には「私は調性のある音楽しか書けない」と知人に書き送っている。
フランス音楽界における存在感を保ちつつ、1960年代のプーランクは《モンテ・カルロの女》や《テネブルの7つの応唱》などを作曲していくが、1963年1月30日に、昼食をともにする約束のあったデュヴァルにキャンセルの電話を入れたあと、心臓発作を原因として64歳の生涯を閉じた。「六人組」のメンバーの中では、1955年に亡くなったオネゲルに続く死であり、新たなオペラなど、様々な作品の構想を抱えていた中での出来事だった。未完成の作品はなく、最後の作品となったオーボエとピアノのためのソナタは、1963年6月に初演された。なお、プーランクの死は日本の新聞でも報道されており、1月31日の読売新聞夕刊では、「オネゲル、オーリック氏らとともに第一次大戦後の仏楽壇に新風を吹き込んだ(中略)新古典主義的な独自の作風で知られていた」と紹介されている。
5. 音楽語法、ピアノ曲の特徴について
プーランクは、キャリアを通して調性感のある音楽語法を使用し、和声の複雑な連結や合成などを避けた明快な響きを特徴とした。それゆえに、彼の音楽については「軽く」「真面目さに欠ける」という見方をされることもしばしばだったが、1954年に作曲家にインタビューを行ったクロード・ロスタンは、プーランクの作品を耳にした瞬間に、誰もが作曲家の名前を挙げることができるほどの特徴を持っている、と指摘している。
また、卓越したピアニストでもあったプーランクにとって、ピアノは彼の音楽活動を支える重要な楽器だった。作曲も机ではなくピアノに向かって行うことが多く、第二次世界大戦での疎開先や休暇先にも楽器を持ち込んだり、借りたりすることがあった。ピアノのための作品、あるいは編成にピアノを含む作品は100曲以上あり、特に顕著なのはピアノを伴奏楽器として用いる作品である。その大半が声楽とピアノ伴奏の組み合わせで、プーランクは、自身のピアノ作品の書法で最も独創的なのが声楽作品のピアノ伴奏パートにある、としている。一方、独奏ピアノあるいは連弾や2台ピアノのための作品も多い。ピアノのための作品の大半は1930年代前半に作曲されており、ロジャー・ニコルズによると、これはプーランクが自身の20年代までの作品を見直した時期に当たるという。作曲家が最も好んでいた自らのピアノ作品は、1932年から1959年に渡る長期間をかけて仕上げた《15の即興曲》で、同じ30年代に作曲された《ナゼルの夜》については、周囲の高評価にも関わらず好ましく思っていなかったと言われている。
ピアニストとしてのプーランクは、師のヴィニェスから多くを学んでおり、演奏では特にサスティン・ペダルの多用が特徴的だったことが伝えられている。この点は彼のピアノ作品に「ペダルをたっぷり使ってbeaucoup de pédale」の指示が頻繁に見られることに反映されていることにも見てとれよう。
作品(45)
ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ) (2)
協奏曲 (3)
管弦楽付き作品 (1)
ピアノ独奏曲 (13)
曲集・小品集 (6)
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