ヴェーベルン 1883-1945 Webern, Anton
解説:岡田 安樹浩 (996文字)
更新日:2009年7月1日
解説:岡田 安樹浩 (996文字)
アントン・(フリードリヒ・ヴィルヘルム・)ヴェーベルンは、1883年12月3日ウィーンに生まれた。幼少の頃よりピアノやチェロを習い、姉妹とともにトリオを演奏したり、オーケストラで演奏したりしていたヴェーベルンは、最初期の作品として、チェロとピアノのための、あるいはピアノのための小品や、ピアノ伴奏付きの歌曲などを残している。音楽の教育は受けていたものの、1904年にシェーンベルクに師事するまで作曲はまったくの独学であった。
1902年にウィーン大学に入学したヴェーベルンは、グィド・アードラーのもとでルネッサンス期ポリフォニーの研究を行い、博士の学位を取得したほか、和声法や対位法も学んだ。ワーグナーやマーラーの音楽に傾倒し、シェーンベルクのもとから独立した最初の作品『パッサカリア』Op.1にはブラームスの『第4交響曲』からの影響もみられる。
独立後は生計を立てるために指揮者として各地で活動し、第1次世界大戦終結後に、ウィーンにおいてシェーンベルクとともに私的演奏家協会を設立し、新作の発表を行っていった。ヴェーベルンの指揮者としての活動で最も重要なのは、ベルクの『ヴァイオリン協奏曲』の世界初録音をロンドンで行ったことであろう。
ヴェーベルンが音列技法に接近した最初の作品は、おそらく『子供のための小品』である。この作品においては、その技法は非常に単純に用いられているが、以降、ヴェーベルンはこの技法に対称性(シンメトリー)を持ち込むことで、独自の技法として発展させてゆく。
このような技法によって作り出された作品が、第2次世界大戦後の音楽史において、ブーレーズをはじめとした知的前衛主義の作曲家による「ヴェーベルン・ルネッサンス」の運動を促した。「新ウィーン楽派」(「第2次ウィーン楽派)とも)の1人として、とりわけ「音列技法」の作曲家として、ヴェーベルンが広く知られるようになったのは、こうした運動によるところが大きい。
1938年にオーストリアがナチス・ドイツに併合されて以降、ヴェーベルンの作品は「退廃音楽」の烙印を押され、公式の活動を制限されたにもかかわらず、彼は体制へ絶対的な信頼を寄せていた。
すでにドイツは無条件降伏し、オーストリアもアメリカ軍によって占領されていた1945年9月15日、ザルツブルク近郊のミッタージルにて、ヴェーベルンはアメリカ兵に誤射され、突然この世を去った。
作品(5)
ピアノ独奏曲 (4)