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シェーンベルク 1874-1951 Schönberg, Arnold

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  • 解説:内藤 眞帆 (4227文字)

  • 更新日:2019年3月4日
  •   アーノルト・シェーンベルクは、1874年9月13日にユダヤ人の両親のもとウィーンに生まれた。8歳の頃よりヴァイオリンを習うと同時に独学で作曲をはじめ、幼少期には慣れ親しんだヴァイオリン作品を模倣した楽曲を残している。1890年に父親が亡くなったのち、私立銀行に勤めるかたわら、オスカー・アドラーから和声や音楽理論の教育を受けたほか、アレクサンダー・ツェムリンスキーにも、短期間ではあるものの作曲を師事している。この頃、シェーンベルクはチェロも習い始めたが、その技術は職業音楽家のそれには程遠いものであったという。

      1895年に銀行を辞めたのち、シェーンベルクはまず、合唱指揮者として音楽家の道を歩み始める。当時指揮した合唱団には、ハイリゲンシュタットの男声合唱団『ベートーヴェン』も含まれ、こうした指揮活動は彼がベルリンに引っ越す1901年末まで続いた。1898年にはシェーンベルクが今後生涯にわたって携わることとなる、音楽教師としてのキャリアを開始する。なお、1890年代初頭にシェーンベルクの作曲上の関心が弦楽器中心の作品から大きく変化したため、この頃にはピアノ伴奏付き歌曲が多く書かれている。歌曲のほか、僅かながらもピアノ曲、合唱曲、オーケストラ曲が成立しているが、未完に終わったものも多い。

      1899年に作曲された、リヒャルト・デーメルの同名の詩を用いた弦楽六重奏曲《浄夜》Op. 4は、シェーンベルクの重要な初期作品の一つに数えられる。半音階の生み出す斬新な響きだけでなく、ソナタ形式とデーメルの詩の形式的な含意を組み合わせるという形式上の多義性を備えている。翌1901年には管弦楽伴奏付き歌曲《グレの歌》の作曲が開始された。本楽曲は当初、ウィーン楽友協会主催の作曲コンクールのために構想されたが、オーケストレーションが完成したのは1911年のことであった。同年末にベルリンに引っ越したシェーンベルクは、同地でリヒャルト・シュトラウスと知己になる。シュトラウスが彼の交響詩《ペレアスとメリザンド》を評価したことがきっかけとなり、シェーンベルクは大学での音楽講師の職や、助成金を得た。ベルリン滞在中には、ドライリリエン出版社を立ち上げたマックス・マルシャルクともコンタクトを取り、同社からはシェーンベルクの比較的小編成の作品が出版されている。1903年の夏にウィーンに帰ったのち、彼は当時ウィーン宮廷歌劇場の音楽監督をつとめていたグスタフ・マーラーと親交を結ぶ。また、1904年にはアルバン・ベルクとアントン・ウェーベルンを弟子として迎えた。この頃までに書かれた初期作品にはまだ、ワーグナーやマーラーといった、後期ロマン派の影響が色濃くあらわれている。時期を同じくして、他の作曲家の作品の編曲も行うようにもなった。

    1908年に完成した《弦楽四重奏曲第2番》Op. 10をもって、シェーンベルクは調性による作曲を完全に放棄し、無調に到達したと言われている。弦楽四重奏とソプラノの独唱というOp. 10のジャンル混合的な編成からは、従来とは異なる編成を用いて無調という未知の領域へ足を踏み入れるというシェーンベルクの試みが読み取れよう。同時期の重要な作品としては、《3つのピアノ曲》Op. 11、《5つの管弦楽曲》Op. 16や、モノドラマ《期待》Op. 17がある。これらの作品は、シェーンベルクが1909年にウィーンのウニヴェルザール出版社と出版契約を結んだことをきっかけに、世間に広まった。同社は、シェーンベルクの楽曲のみならず、『和声法』(1911)などの著作も出版し、この関係は彼がアメリカに移住するまで続くこととなる。

      しかし、前衛的な作風で書かれたこれらの作品が、当時のウィーンの聴衆に受け入れられることは極めて困難であった。そのような周囲の状況もあり、1911年秋から再びベルリンにて教鞭をとることが決まると、彼はウィーンを去ったのであった。翌1912年には《月に憑かれたピエロ》Op. 21が誕生する。無調であるのみならず、シュプレッヒ・シュティンメといった語り歌いの手法や、ソプラノ、ピアノ、フルート、クラリネット、ヴァイオリン、チェロという編成の奇抜さを備えたこの作品は、ストラヴィンスキーなどの同時代人のみならず、ブーレーズをはじめとする後世の作曲家に大きな影響を与えた。

      第1次世界大戦の兵役のため、シェーンベルクは1915年に再びウィーンに戻っている。大戦中は創作活動こそ僅かであったが、様々な作品の構想を練っており、未完のオラトリオ《ヤコブの梯子》の台本もこの時期に完成した。1917年には弟子のベルクがオペラ《ヴォツェック》の作曲に着手しており、無調による作品が徐々に台頭してきた時代である。とはいえ、当時の現代音楽が一般に受け入れられ、演奏されることは未だに簡単なことではなかった。そのため、第一次世界大戦終結後の1918年、シェーンベルクは同時代の現代音楽の上演を目的とした「私的演奏協会」という団体を創設する。この団体には、ベルクやウェーベルンといった同時代の作曲家のみならず、彼らの作品に関心を持つ音楽愛好家も参加した。1918年から1922年までという短い活動期間にも関わらず、117回の演奏会でのべ154作品が演奏され、現代音楽のほか、マーラーやヨハン・シュトラウス2世などの作品も室内楽編成に編曲されて上演された。「ウィーン楽派」と呼ばれるハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンがウィーンで活躍した1800年前後からおよそ一世紀後、同地で頭角をあらわしてきたシェーンベルクとその2人の弟子は、今日では「新ウィーン楽派」と呼ばれている。

      大戦も終わり、最初期の無調作品の成立から10年以上が経過した頃、シェーンベルクは無調における方法論の確立を模索していた。その結果として彼がたどり着いたのが、十二音技法である。平均律のオクターヴ内の12の音を1回ずつ均等に使った基本となる音列を、反行形、逆行形などに変化させつつ用いるというこの作曲技法は、シェーンベルクや弟子のベルク、ウェーベルンのその後の創作の基礎となったことはもちろん、20世紀後半のセリー音楽に向けての出発点ともなった。シェーンベルクが十二音技法を用いて作曲した初めての作品は《5つのピアノ曲》Op. 23(1920–23)である。平均律で調律されているピアノは、十二音技法の実験にまさにうってつけであった。《組曲》Op. 25(1921–23)や、《ピアノ曲》Op. 33a/b(1929/31)といった、シェーンベルクのその後のピアノ作品はすべて、十二音技法により作曲されている。

      1925年夏、シェーンベルクはベルリンのプロイセン芸術アカデミー(現ベルリン芸術大学)の作曲科の教授としての声がかかったことで、再度ベルリンに引っ越した。彼は、ナチスの権力掌握により反ユダヤ政策が激化しはじめる1933年まで、同地で過ごしている。この約8年におよぶベルリン時代には、《弦楽四重奏曲第3番》Op. 30や、《管弦楽のための変奏曲》Op.31、十二音技法によるオペラ《今日から明日まで》Op. 32などが作曲され、未完のオペラ《モーゼとアロン》の創作もはじめられた。創作と並行して行われたのは、自作品や同時代音楽などにまつわるヨーロッパ各地での講演である。中でも重要なのは、ブラームスの音楽の革新性を「発展的変奏」という言葉でもってあらわした1933年の講演『進歩主義者ブラームス』である。のちにシェーンベルクは、この講演を論文に再編し、最晩年の1950年に出版した論文集『様式と思想』に収めた。ブラームスの作品を分析したこの講演からも、また後に書かれた自伝からも、シェーンベルクが常に古典派やロマン派の作品を徹底的に研究していたということが明らかである。過去の大作曲家の作品に対する彼のこうした姿勢は、彼が同時代人の作品のみならず、バッハやシューベルト、ブラームスといった数多くの作曲家の作品を編曲したという事実にもあらわれている。

      シェーンベルクは1933年夏にフランスに滞在した後、同年10月31日、まずはニューヨークへと向かった。しかし、その後すぐに健康上の理由から、西海岸のロサンゼルスに引っ越している。彼は新天地においても、南カリフォルニア大学やカリフォルニア大学ロサンゼルス校において教鞭を執ったほか、シカゴ大学やカリフォルニア大学サンタバーバラ校に客員教授として呼ばれるなど、教育活動を精力的に行った。アメリカの学生のレベルの低さに失望したともいうが、当時の弟子には、後に現代音楽の極めて重要な作曲家となる、若きジョン・ケージもいた。1940年代初頭になると第二次世界大戦の影響により、トーマス・マン、ハンス・アイスラー、アドルノをはじめとする数多くのヨーロッパの芸術家がロサンゼルスに移住し、シェーンベルクは彼らとも親交を結んでいる。トーマス・マンの小説『ファウスト博士』の主人公のモデルはシェーンベルクであり、小説の中にはマンとシェーンベルクの実際の会話が引用されている。

      アメリカ時代には、現地の大学オーケストラなどから作品を委嘱されることが多々あったため、《主題と変奏》Op. 43などの調性作品がしばしば作曲された。しかし、移住後の唯一のピアノ作品《ピアノ協奏曲》Op. 42や、《ヴァイオリン協奏曲》Op. 36、《弦楽三重奏曲》Op. 45などは厳密な十二音技法によって書かれている。執筆活動も盛んに行い、様々な音楽理論書や、初学者向けの作曲理論書などがこの時代に成立した。最晩年の重要作品は、語り手、男声合唱、管弦楽のための《ワルシャワからの生き残り》Op. 46であろう。第二次世界大戦中にワルシャワの強制収容所から生き延びた男性を題材とした、ホロコーストを描いたこの作品では、十二音技法やシュプレッヒ・シュティンメといった、シェーンベルクの作曲技法が余すことなく用いられている。

      マーラーやシュトラウスらの次世代として後期ロマン派の時代に生まれ、2つの世界大戦を乗り越え、黎明期の現代音楽を牽引し続けたシェーンベルクは、1951年7月13日に喘息発作のためにロサンゼルスにてこの世を去った。

    執筆者: 内藤 眞帆
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    解説 : 実方 康介 (433文字)

    更新日:2010年1月1日
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    作品(11)

    ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ) (1)

    協奏曲 (1)

    ピアノ協奏曲 Op.42 ピアノ協奏曲

    作曲年:1942  総演奏時間:19分50秒 

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    ピアノ独奏曲 (2)

    曲集・小品集 (6)

    3つのピアノ曲 Op.11 3つのピアノ曲

    作曲年:1909  総演奏時間:14分30秒 

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    6つの小さなピアノ曲 Op.19 6つの小さなピアノ曲

    作曲年:1911  総演奏時間:6分00秒 

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    5つのピアノ曲 Op.23 5つのピアノ曲

    作曲年:1920  総演奏時間:12分30秒 

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    組曲 Op.25 組曲

    作曲年:1921  総演奏時間:16分30秒 

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    ピアノ曲 Op.33a ピアノ曲

    作曲年:1928  総演奏時間:2分30秒 

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    ピアノ曲 Op.33b ピアノ曲

    作曲年:1931  総演奏時間:3分30秒 

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    室内楽 (2)

    幻想曲 (1)

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    歌とピアノ (1)

    曲集・小品集 (1)

    4つの歌曲 op. 2 4つの歌曲

    総演奏時間:11分30秒 

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