プーランクは1943年頃から、ピアノ協奏曲を書く計画を持っており、そのことは、友人の歌手ピエール・ベルナックへの手紙などで明らかにされていた。しかし、実際に作曲が始められたのは1949年5月になってからのこと。作曲は夏から秋にかけて進められ、同年10月に完成した。初演は1949年の終わりごろ、楽譜出版社サラベールの社長夫人宅にて、プライベートに行われた。この時は、オーケストラによる伴奏ではなく、ジャック・フェヴリエとプーランクによる2台ピアノ版での演奏だった。その直後の12月28日、プーランクはベルナックとのアメリカ演奏ツアーに出発し、年明けにボストンに立ち寄った際、シャルル・ミュンシュからの依頼で《ピアノ協奏曲》の公開初演を行うことになった。こうして、公開初演は1950年1月6日に、作曲者によるソロ、ミュンシュの指揮、ボストン交響楽団との共演で行われた。なお、作品はプーランクが愛してやまなかったソプラノ歌手のドニーズ・デュヴァルと、レーモン・デトゥシュに献呈されている。
ボストンでの公開初演の際、プーランクは「彼の作品スタイルよりも、シベリウスとブルックナーのほうに慣れている」土地の聴衆のことを、多少心配していたという。それはプーランクが、この協奏曲に当時の自分自身を最も投影していたためであろう。実際、第1楽章に関して、プーランクは「50歳のプープール(注:プーランクの愛称)様式」と述べているほか、第3楽章がボストンでの初演で、「その生意気さといたずらっこ的な側面ゆえに」、聴衆にショックを与えたと回想している。
第1楽章「アレグレット」は2つの部分からなる中間部を主題提示部分で挟む、A-B-C-Aの構成をとる。ピアノが弾きだしたメランコリックな主題はオーケストラに引き継がれ、一度トゥッティで区切りを迎えると、短い移行部分を経て、雰囲気の異なる大変軽快なB部分へ入る。C部分では、上行するピアノの和音ソロに先導されて、金管楽器によるファンファーレが繰り返される。オーケストラによる旋律が緩やかに上昇して一旦音楽が休止すると、冒頭の主題部分に戻り、B部分が一度回想されてから、最後は全楽器の強奏で締めくくられる。
第2楽章「アンダンテ・コン・モート」は、様々な表情の主題を、オーケストラとピアノ・ソロとで交代して演奏していくスタイル。冒頭の主題を形成する大きな跳躍の繰り返しや、同じリズムの連続などは、プーランク作品の旋律に良く聴かれる特徴である。
第3楽章「フランス風ロンド」は、次にどの主題が来るか予想がつかないほど、非常に自由なロンド形式といえる。プーランクの形式的な作品に共通する第3楽章の軽快さは、この協奏曲でも見られる。最後は、ピアノの一気に下行する旋律とともに締めくくられる。