作曲家唯一の、フルートのためのソナタは、1956年12月から翌57年3月にかけて作曲された。プーランクは、フルート・ソナタを作曲するというアイデアを、すでに1952年には持っていた。しかしこの年、彼はミラノ・スカラ座から新作の作曲を提案され、以後数年は、この委嘱作品であるオペラ《カルメル会修道女の対話》の作曲に集中することになる。再びフルート・ソナタ作曲の計画が持ち上がったのは、1956年4月になってからのこと。この時、アメリカのピアニスト兼芸術家のパトロンで、プロコフィエフなどにも作品委嘱をしていた、エリザベス・スプレイグ=コーリッジ(1864-1953)の財団が、同年秋に予定されていた室内楽音楽フェスティバルのために、プーランクに室内楽作品の提供を相談してきたのである。
《カルメル会修道女の対話》のオーケストレーションに忙殺されていた作曲家は委嘱の話を断ったが、財団側は諦めず、作曲家に再度交渉してきた。プーランクは56年8月になってやっと財団に回答し、作品をコーリッジの思い出に捧げ、自筆譜をワシントンのアメリカ議会図書館に寄贈する代わりに、作品の初演は56年秋の室内楽フェスティバルではなく、1957年6月に予定されているストラスブール音楽祭で行う、という条件で、作品提供を引き受ける旨を知らせた。当初の予定から大きく外れた提案をされた財団だったが、ストラスブールの初演時に、コーリッジ財団の委嘱作品であることをプログラムに記載することで、プーランクの提案に合意し、完成を待つことになった。
こうした事情により、作品は1957年6月18日にストラスブールで公開初演されるはずだった。ところがその数日前、音楽祭のために現地入りしていたプーランクは、同地を訪れていたアルチュール・ルビンシュタインが、新作のフルート・ソナタに興味を持っていることを知る。ルビンシュタインは18日にはストラスブールを発たなければならなかったため、プーランクは急遽、初演者であるフルート奏者のジャン=ピエール・ランパルを呼び寄せ、ルビンシュタイン一人が客席に座る初演会場のホールで、前日の17日にプライベート初演を行った。なお、アメリカでの初演は1958年2月14日に、ランパルのフルートとロベール・ヴェイロン=ラクロワのピアノで行われ、大成功を収めた。
作品は第1楽章「アレグロ・マリンコリーコ(快活に、メランコリックに)」、第2楽章「カンティレーナ」、第3楽章「プレスト・ジョコーソ」の三楽章からなる。短三和音の分散和音形のモティーフから始まる第1楽章は、自筆譜では速度指定が「アレグレット」だったが、印刷譜では「アレグロ」に変更された。中間部の技巧的なフルート・パートが印象的である。第2楽章では、ピアノの和音連打の伴奏が、フルートの息の長い旋律を支えていく。第3楽章では途中にゆったりしたテンポの部分を一瞬挟みつつも、急速なテンポでソロとピアノが掛け合いを繰り返し、最後まで勢いを保ったまま駆け抜けていく。