オーリック 1899-1983 Auric, Georges
解説:平野 貴俊 (2632文字)
更新日:2015年4月27日
解説:平野 貴俊 (2632文字)
20世紀フランスの作曲家。1920年代に「六人組」のひとりとなり、以後ピアノ曲、室内楽作品からバレエ音楽、映画音楽に至るまで、さまざまな分野で作品を残した。批評家としても精力的に活動し、第2次大戦後はフランス音楽行政の重要なポストを歴任。若いころにはコクトー、サティらと交流し、戦後はオペラ座監督としてベルク《ヴォツェック》の同劇場での初演を実現するなど、その約70年におよぶ音楽活動を通して、20世紀フランス音楽界の重要な立役者であり続けた。 ジョルジュ・オーリックは、1899年2月15日、南フランスのラングドックに位置するロデーヴで生まれた。まもなく両親とともにモンペリエに移り、アマチュアの音楽家であった母の勧めでヴァイオリンを始めるが、すぐにピアノに転向し、モンペリエ音楽院でルイ・コンブにピアノを師事する。このころオーリックは、ドビュッシー、ラヴェル、ストラヴィンスキーの音楽を知り、コンブの書斎でフランスのさまざまな傾向の詩に触れる。 こうして音楽と文学双方に通じた早熟な少年は、コンブを通してセヴラック、フロラン・シュミットと出会い、音楽雑誌の編集者レオン・ヴァラスの仲介で、サティの音楽を論じた文章を発表した。作曲を始めたのは、パリ音楽院に入学した1913年ころからとされるが、数にして300以上といわれるこれらの習作は、自身の手によって破棄されたようである。 パリ音楽院ではジョルジュ・コサードの対位法クラスに入学し、オネゲル、ミヨー、タイユフェールらと出会った。しかし翌年には音楽院を離れ、スコラ・カントルムでダンディに学ぶ。この1914年には、ルーセルの推薦により初めて公開で作品が演奏されている。このように、当時10代半ばの少年の音楽が、40~50代の著名な作曲家によって支持されていたことは、当時の若い世代の旗手としてその将来が期待されていたことを如実に表している。批評や映画音楽の作曲といった、オーリックの多面的な活動の土台が築かれたのもこのころである。ストラヴィンスキー、プーランク、サティのほか、文学ではコクトー、アポリネール、ラディゲ、ブルトン、絵画ではブラック、ピカソなど、1920年代のパリを代表する文化人との交流が、オーリックのキャリアを実りあるものにしていった。1924年、モリエールのコメディ・バレエにもとづくバレエ音楽《うるさがた》がディアギレフのバレエ・リュスで初演され、1925年と1926年にも1作ずつバレエ・リュスのための音楽を書いた。バレエは以後オーリックにとって重要な分野となり、イダ・ルビンシュタインのバレエ団、シャンゼリゼ・バレエ団、パリ・オペラ座バレエ団などに音楽を提供した。1930年10月には、ロシア出身の画家エレオノール・ヴィルテール(通称ノラ)(1903~1982)と結婚。 1930~1931年に作曲された《ピアノ・ソナタ》は、オーリックのキャリアにおける転換点としてしばしば位置づけられる作品である。批評家の反応は、バレエ音楽のような軽快さが欠けているという非難と、技法に著しく洗練がみられるという称賛の両極に分かれたが、概ねその評価は辛辣なものであった。後にオーリックに関する本を執筆した批評家アントワーヌ・ゴレアは、《ピアノ・ソナタ》に対する批評が芳しくなかったことを受けて、オーリックは映画音楽の作曲に傾注するようになったのではないかと推測している。しかし、そうした重点の移り変わりは、映画産業の興隆から生じる需要に彼が忠実に応えていったことを証するにすぎず、《木管三重奏曲》(1938)など演奏会用の作品も引き続き作曲されていた、と主張する研究者もいる。 オーリックは、演奏会用の音楽と、バレエや劇、映画といった媒体のための音楽の間にヒエラルキーを設けることはなかった。むしろ、多くの人びとの耳に音楽を届けることこそ重要であると考えていたようだ。1930年代には、フランスで人民戦線の内閣が成立し、一般の人びとへ音楽を普及することが重視されたことに伴って、民謡の編曲などを行っている。同様の観点から、音楽の普及におけるラジオの役割も重視していた。演奏会用の作品としては、バレエ音楽の抜粋、歌曲、ピアノ曲、室内楽作品がほとんどであり、交響曲や交響詩、およびオペラは作曲していない。ジャンルにおけるこうした傾向は、「六人組」やその周辺の作曲家にも認められるが、オーリックの場合、それは音楽文化の振興という公的な問題への関心にもとづいていた。批評と行政という作曲と異なる分野での活動も、彼においては創作と同じ信念に裏打ちされていたのである。 オーリックが音楽を書いた映画はおよそ130にのぼるが、そのなかには映画史上重要な作品および大衆的な人気を獲得した作品も少なくない(※1)。オーリックが映画音楽を書き始めた時期は、トーキー映画が登場して間もないころであり、コクトーとの共作に始まった彼のキャリアは、徐々に英米の映画会社に注目されるようになったのである。このほか、1921年から1961までの間に30以上の劇作品を書いている。 批評家としては、アンドレ・ジッドらが創刊したフランスを代表する文芸誌『フランス新評論』、フランスの主要な音楽雑誌『ルヴュ・ミュジカル』のほか、『レ・ヌーヴェル・リテレール』、大衆向けの新聞『マリアンヌ』や『パリ=ソワール』などに寄稿した。 1954年には、オネゲルを継いで作家・作曲家・音楽出版社協会(SACEM)の会長に就任、以後幾度かの中断を挟みながら1978年までその座を占め、1979年には名誉会長となった。1962年にはフランス学士院アカデミー・デ・ボザールの会員に選出され、国立オペラ劇場連合(RTLN)の支配人に就任、オペラ座とオペラ・コミック座の監督となった。1971年にはカンヌ国際映画祭審査員を務めている。1983年7月23日、パリの自宅で84年の生涯を閉じた。 フランス音楽の「巨匠」たるフォーレ、ドビュッシー、ラヴェルに反発したサティやプーランクと同様、オーリックはフランスのアカデミズムを受け継ぐ作曲家ではなかった。とはいえ、戦後はその多方面におよぶ業績に対して公的な評価と栄誉が与えられた。それは彼が、多様な分野の芸術家との交流のなかから作品を生み出していくという創作姿勢をつねに失わなかったからであろう。
作品(29)
ピアノ独奏曲 (9)
即興曲 (4)
★ 種々の作品 ★ (9)
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編曲0
ピアノ合奏曲 (5)
性格小品 (3)