ストラヴィンスキー 1882-1971 Stravinsky, Igor Fyodorovich
解説:山本 明尚 (5260文字)
更新日:2020年3月14日
解説:山本 明尚 (5260文字)
概論
イーゴリ・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキーは、20世紀音楽の代表者の中の代表者と言えるだろう。彼は20世紀において「最も多く演奏され、最も多く録音され、最も多くインタビューされ、最も写真を撮られ、最もよく語られた作曲家」と言われるほど、20世紀の初めから生涯を通してその活動の過去・現在・未来が全世界の注目を浴び続けた作曲家であった。また、彼の動向のみに着目したとしても、地理的にも活動的にも創作的にもその活動範囲が非常に広いことに驚かされる。地理面に関しては、帝政ロシアに生まれ、スイス、フランス、そしてアメリカと、大変動に巻き込まれながら世界を股にかけた活動を繰り広げた。活動面では作曲家だけでなく、指揮者、ピアニスト、音楽文筆家としても注目を浴び続けたと言える。創作面に関して言えば、ストラヴィンスキーの生涯をなぞるだけで、自然と20世紀音楽のあらゆる最重要の楽派への言及が避けられないことは特筆すべきことだ。初期の新国民楽派的な作風、第一次世界大戦時代の作品に見られる実験的なナショナリズム、1920年から30年間に渡って続く新古典主義、さらに晩年のセリー主義と簡単に挙げるだけで、「ストラヴィンスキーの音楽」と一口にいっても、それが非常に多岐にわたっていることがわかる。このような幅広さはストラヴィンスキーの音楽に対する理解を困難にするとともに、彼の音楽の奥深さを物語っている。
誕生~帝政ロシアでの活動
1882年6月17日(露暦5日)、ストラヴィンスキーはサンクト・ペテルブルク市の西部郊外に位置するオラニエンバーウム(現ロモノーソフ)で、音楽家の両親の4人兄弟の三男として生まれた。父フョードルは大学法学部出身ながらもマリインスキー劇場でソリストを務めるオペラ歌手で、母は夫の伴奏ピアニストだった。イーゴリもペテルブルク大学法学部を卒業したのち、検事や弁護士や法学者としてではなく作曲家として名声を得るという、父と同様の道をたどることになる。
音楽の道にストラヴィンスキーを歩ませたのは、音楽を生業とした父と、何よりも作曲の師匠ニコライ・リムスキー=コルサコフだったと言っていいだろう。1902年に父フョードルが世を去って以降、ストラヴィンスキーはリムスキー=コルサコフを作曲の師としても第二の父としても慕うようになった。1903年から始まった彼のもとでの本格的なレッスンでは、主にベートーヴェンやシューベルト作品を土台とした楽器法・管弦楽法の学習と、ストラヴィンスキーが持ってきた習作の批評・添削が主に行われ、若いイーゴリはめきめきと鍛え上げられていった。さらに、ストラヴィンスキーが師の周りに集う「ベリャーエフ・サークル」と呼ばれた様々な作曲家たちと交流を持てたということも、非常に有意義なことだったに違いない。
1908年にリムスキー=コルサコフは世を去るが、作曲家としてのストラヴィンスキーはすでに実質的に彼のもとから巣立っていた。師に捧ぐ《葬送の歌》を含むいくつかの管弦楽曲や、この時期唯一の習作でないピアノ作品である《4つの練習曲》を完成させた後、彼にとある仕事が舞い込む。19世紀末から先鋭的な芸術活動を主導し、1907年から外国でロシア人作曲家の紹介に励み、「ロシア・バレエ団」(バレエ・リュス)を立ち上げていた興行師セルゲイ・ディアギレフからの、ショパン作品をバレエ《シルフィード(ショパニアーナ)》の上演のために管弦楽編曲してほしいという依頼である。ストラヴィンスキーはそれに応じてノクターン作品32-2と《華麗なる大円舞曲》作品18を編曲し、これらはパリで行われた第4回セゾン・リュス(「ロシア・シーズン」)でフォーキンの振り付けにより初演された。
これを伏線として、ストラヴィンスキーは現代作曲家としての世界的な名声を一気に得ることになる。いわゆる「三大バレエ」の成立である。
1909年晩夏のディアギレフからの急な電報による《火の鳥》の作曲依頼が「三大バレエ」の始まりだった。期限内にしっかりと仕上げられたこのバレエは、6月25日にパリで第5回セゾン・リュスでの上演されると好評を得た。「グリンカからスクリャービンに至る祖国の音楽の総決算」と評されるほどの一大スペクタクルは、祖国ロシアの民俗学者アファナーシエフによって編纂された2つの民話から題材を取ったものだった。西欧人からするとあまりに「ロシア的」な東洋的要素は音楽の内実(旋法や民話旋律の引用)からも、民話的な登場人物、例えば魔王カッシェイ(リムスキー=コルサコフのオペラの題材にも取られている)などからも見て取れる。
続けてストラヴィンスキーが作曲したのは、1910年8月末から着手した《ペトルーシカ》である。1911年6月13日に初演されたこの不思議なバレエは、前作に引き続きロシア的な要素をふんだんに含んでいた。ストラヴィンスキーは楽曲中に民謡をふんだんに取り入れるとともに、ロシアの民間風俗を主題として扱った。春迎えの祭りである「マースレニッツァ」という舞台や、劇中にみられる人形劇、のぞきからくりといった素材がそれである。
ストラヴィンスキーを「現代音楽の代表」的存在へと押し上げたのは、なんといっても1913年の3月に完成し、パリで5月に行われた第7回セゾン・リュスで初演された《春の祭典》だろう。今度は古代スラヴの異教徒祭礼を題材に取ったこの楽曲は、ニジンスキーの振付による「暴動にまで発展した」と悪名高い初演により、一大スキャンダルと化した。音楽には従来と同じく民謡的要素が混ぜ込まれていたが、ストラヴィンスキーの創意工夫によってそれらは自由に再構築され、今日よく知られる独特な音世界が構築されていた。
スイス期(1914-1920)
以上の「三大バレエ」の時期からロシア国内外を行き来しつつ生活していたストラヴィンスキーだが、1914年の第一次世界大戦の勃発と1917年のロシア革命が、ストラヴィンスキーの生活を決定的に変えた。ストラヴィンスキーは中立国のスイスに移住し、じっくりと音楽活動に取り組むこととなった。この時期は、小編成の作品もしばしば作曲されるようになるが、そのような作品には《兵士の物語》に代表されるように音響の実験的要素が目立つ。
この時期のストラヴィンスキーの創作に関する重要なファクターは、1913年から始まったサティ、「フランス六人組」、シェーンベルクとの交友や、ロシアから離れたのちの祖国との内面的結びつきが挙げられよう。前者に関してはサティと何十通もの書簡を交わすとともに、20世紀の巨人としてストラヴィンスキーと並び立つ作曲家シェーンベルクとは互いの作品を認めあう関係にあったことが知られている。後者に関しては、ロシア革命後の亡命ロシア人との深い交友関係や、それによって得た民族主義的・懐古的なユーラシア主義思想との関係がよく知られている。これ以降に書かれるいくつかの作品、例えば《結婚》におけるロシアの結婚儀礼の主題の使用、《管楽器のためのシンフォニー》で現れるロシアでの死者への礼拝のモチーフとこの思想とが関連しているとする論者もいる。
フランス期(1920~1939)
1920年にストラヴィンスキーはフランスに転居し、約20年間住居を転々としながら同国で創作活動を続けた。転居同年にディアギレフの委嘱により書かれた《プルチネッラ》(あるいは1923年のオペラ《マヴラ》)から始まるとされるストラヴィンスキーのいわゆる「新古典主義期」への移行が、この時期のストラヴィンスキーの創作の特色である。ここから1950年代まで、ストラヴィンスキーは古い西洋音楽を参照点としながら新しい音楽を創作する手法を創作に取り入れるようになった。それと並行するように、十二音技法の開発により新たな創作のフェーズに突入したシェーンベルクの関係は悪化した。シェーンベルクの《混声合唱のための3つの風刺》作品28(1925)には、ストラヴィンスキーと彼の新古典音楽に対する明らかな批判が組み込まれている。当時ストラヴィンスキーのアシスタントを務めていた亡命ロシア人作曲家アルトゥール・ルリエーなどが助長したこともあり、この対立構造は二人がアメリカに転居した後、シェーンベルクが亡くなるまで尾を引くことになった。
この時期の新古典主義への移行は、ストラヴィンスキーが祖国ロシアに有していた関心の薄れも連関しているとも論じられる。事実、オペラやバレエ作品、《詩篇交響曲》や《ハ調の交響曲》などの大作が引き続き書かれる一方、それ以前まで頻繁に書かれていた、ロシア語の歌唱による声楽作品がほとんど書かれなくなっていることは興味深い事実である。また、創作活動以外にもピアニストや指揮者という演奏活動の活発化もこの時期のことであることも特筆すべきであろう。さらに、亡命者仲間でバレエ・リュスの書記と雑務を担当していたヌーヴェリ(ヌヴェル)をゴーストライターに、1935・36年に二分冊で出版された自伝『私の人生の年代記』は、他者の力を借りつつ自己言及を行うことで自らの公的イメージを形作ろうとする彼の後半生の活動の嚆矢となった。
アメリカ期(1940~1971)
第二次世界大戦が開戦するとともに、ストラヴィンスキーは『音楽の詩学』として刊行される連続講義をハーバード大学で行った後に正式に転居を決め、1941年からは、かのビバリー・ヒルズに居を構えた。すでに彼は50代後半になっていた。アメリカにはしばしば旅行し、《ダンバートン・オークス協奏曲》などの作品もアメリカからの委嘱で書かれたものとはいえ、20年過ごして馴染んだ第二の故郷を去る決断(1936年にフランス国籍を取得していた)、三度目の異国への転居は容易いものではなかっただろう。しかし結果的に、ストラヴィンスキーはこの地で新たな音楽的パートナーを見出し、新しい音楽言語を意欲的に探求するようになり、音楽活動における新たな地平にたどり着くことになる。
第二次世界大戦に文化人が多く移住してきたロサンゼルスには、オットー・クレンペラー、アルトゥール・ルービンシュタイン、ジョージ・バランシンら、著名な芸術家が移住していた。また、ストラヴィンスキーの近所には彼の宿敵シェーンベルクが住んでいたが、そのような環境下でも彼らの仲は改善しなかったという。この時期得た最も重要な知己は、弟子でアシスタントの指揮者ロバート・クラフトであろう。作曲活動に際する手助け、劇脚本の提案、その他の雑事も担ったクラフトが残した最も注目すべき仕事は、ストラヴィンスキーとの共著による数々の著書であろう。この著作は「奇妙な、寄せ集め的な、風変わりな」問題作で、ストラヴィンスキーの伝記的事実や彼の実像の把握や評価の妨げになっていると考える論者も少なくない。我々も「ストラヴィンスキーが書いた」とされている著作を読んで彼の考えを辿ろうとする際は、その背後にゴーストライターがいた事実や、彼らによる望ましい答えを導くための恣意的な質問によって、ストラヴィンスキーが誘導されている箇所が少なくないという事実に留意しなければなるまい。
音楽面でもストラヴィンスキーの活動は幾分奇妙な発展を見せた。シェーンベルクが世を去った1950年代から、ストラヴィンスキーは十二音技法から発展した音列技法に手を染めるようになるのである。バレエ《アゴン》、オペラ《洪水》、合唱《カンティクム・サクルム》、《ピアノと管弦楽のためのムーヴメント》、歌曲《J.F.Kへのエレジー》など、ジャンルや規模も様々な作品を意欲的に作曲した彼の心境の変化を正確に把握することは困難だが、齢70にして、過去の自分から脱皮しようと新しいものを追い求めようとしたストラヴィンスキーの意欲には、驚異的なものがある。音列技法の探求は、彼が1971年4月6日に88歳で没するまで続いた。
ピアノ作品概観
ストラヴィンスキーはありとあらゆる音楽ジャンルに手を伸ばしていた。ピアノ曲もその例外ではない。初期作品の中では4つの練習曲、《ペトルーシュカからの三楽章》、四手のための《春の祭典》が代表的で、自分での演奏を想定していない部分もあったためか、超絶技巧が目立つ作品も少なくない。新古典主義時代は、作風の変化以外にも自らがピアニストとして活動していたこともあってか、1924年のピアノ・ソナタや翌年の《イ調のセレナーデ》から、アメリカ移住後に作曲された2台のピアノのためのソナタ(1944年)まで、初期よりもテクスチャが複雑でない曲が目立つようになる。後期作品になるとピアノのための新作はほとんどなくなってしまうが、そんな中でもピアノ協奏曲は音列時代のストラヴィンスキーの代表作であると同時に、彼の音色に関する優れた感覚が遺憾なく発揮されている作品でもある。
作品(33)
ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ) (1)
協奏曲 (4)
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ピアノ独奏曲 (8)
ソナタ (2)
練習曲 (3)
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種々の作品 (3)
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ピアノ合奏曲 (7)
曲集・小品集 (2)
リダクション/アレンジメント (2)
室内楽 (2)