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アルカン, シャルル=ヴァランタン 1813-1888 Alkan, Charles-Valentin

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解説:上田 泰史  ( 4604文字 )

更新日:2011年5月13日

1820年代末から1830年代にかけて、ヨーロッパ中から若きピアノの才士が成功を夢見てパリを訪れた。ショパンリストローゼンハインヴォルフデーラードライショク…彼らは華麗な技巧と独自の音楽語法でパリの聴衆を席巻した。そんな中、パリでも国立音楽院を中心として、これら外国人ヴィルトゥオーゾに勝るとも劣らぬフランス人ピアニストの一団が生まれようとしていた。アルカンは、まさしくパリのピアノ界における「若きフランス派[エコール・フランセーズ]」の到来を告げる象徴的存在である。

アルカンの祖先は東方から中央ヨーロッパに移住し、フランス北東部のモランジュという村に定住したユダヤ人一族である。彼らはやがて村の名「モランジュ」を名乗った。アルカンは1813年11月30日、パリで音楽学校を営む敬虔なユダヤ教徒アルカン・モランジュ(1779~1855)と母ジュリ・モランジュの第二子として生まれた。彼の後には4人の弟が生まれたが、モランジュ家に生まれた6名の子どもは全員音楽家の道を辿った。子どもたちはある時期から父の名をとってアルカン姓を名乗ることとなる。 父の指導の下ピアノとヴァイオリンを学び始め、著しい音楽的才能を示したシャルル・ヴァランタンは1820年、僅か6歳でパリ音楽院に入学、7歳の時に人前でヴァイオリンを演奏し、10歳になるころには一等賞を得てピアノ科を修了、27年に師であるピアノ教授P.-J.-G.ヅィメルマンの片腕として助手を務めるようになる。26年、ピアニストとして行った最初のコンサートは来場者に鮮烈な印象を与えた。やがて上流階級のサロンに出入りするようになったアルカンは一躍サロンの寵児となり、リスト、ヒラーを始め一流の芸術家たちと交流を持つようになる。31年にパリに到着したショパンはほどなくアルカンに出会い、ヒラーと共に以後生涯続く友情で結ばれる。

作曲家としてのキャリアは早くも1828年に始まった。ヅィメルマンに捧げた優美で即興的な《シュタイベルトの主題に基づく変奏曲》作品1、ローッシーニ風の爽快な《乗合馬車》作品2(1829)はオクターヴや急速な同音連弾などの技巧が満載された10代の輝かしい成果である。30年代に入ると、新しいピアノ演奏技術への探究心はいよいよ高揚し、1837年《華麗様式による3つの即興曲》作品12から《3つのスケルツォ》作品16までの連作「12曲のカプリス」において他の追随を許さない苛烈を極めるテクニックを独自の音楽語法に結び付た。この一連の作品のうち、《追憶―悲愴的ジャンルの3曲》作品15はリストの概して好意的な批評を受けたが、アルカンは自身と対極的な美的立場をとるシューマンの酷評を甘受しなければならなかった。技巧性探究の一方、アルカンは後に《十二ヵ月》(c.1840)として補完されることになる《6つの性格的小品》作品8(1837)で四季折々の情景を鮮やかに描写した。この作品はまたしてもシューマンの目に留まる。アルカンを「フランスロマン主義の最右翼」と見做すシューマンは、以前よりは好意的にこれらの小品を受け止め、ピアニストとしての素質を評価したものの、ついに作曲家アルカンを肯定的評価することはなかった。

数々の演奏会の成功でアルカンは1830年代後半、今や栄光の絶頂にあった。ところが、ジャーナリズムをにぎわせていたアルカンは1839年から44年まで忽然と人前から姿を消し、出版も殆ど途絶えてしまう。この時期、アルカンは高貴な身分の既婚女性との間にエリ・ミリアム(1839~1913)という一人の子どもを設けた。おそらくこのプライベートな一件が、彼の活動自粛に何らかの影響を及ぼしたものと考えられている。後にドラボルドを名乗るこの子どもは優れたピアニスト兼作曲家、音楽院のピアノ教授となり、アルカン作品の普及に貢献した。

1844年、アルカンは再び公衆の前に姿を現し、書き溜めた作品を一気に出版する。《騎士―演奏会用練習曲》作品17、《サルタレッロ》作品23、弟ナポレオン・アルカンに献じた《ジーグと古風な様式によるエール・ド・バレエ》作品24、《鉄道―練習曲》作品27はいずれもピアノの音域とアクションを最大限に生かし、新しい独自のピアノ音楽様式を探究した血気盛んな30代の野心作である。既に音楽院でオーケストラや声楽の書法も学び作曲コンクールで32年に選外佳作を得ていたアルカンは、同年、大オーケストラのための《交響曲》を手掛けるが、結局上演も出版もされることはなかった。現在このスコアが行方不明となっているのは惜しまれる。40年代後半、彼の創作力は《大ソナタ》作品33、《スケルツォ・フォコーゾ》作品34、《全長調による12の練習曲》作品35で前半期のピークを迎える(いずれも1848年刊)。

アルカンは単に演奏・作曲スタイルの奇抜さによって人々の注目を集めようとする音楽家ではなかった。恐らくは学習時代に師ヅィメルマン、ドイツの友人F. ヒラーの感化の下、過去の音楽に対する畏敬の念が彼の中で育まれていた。17、18世紀の鍵盤作品がまだ一般の聴衆には殆ど知られていなかった当時、彼はJ. S.バッハスカルラッティモーツァルトベートーヴェンフンメルシューベルトなどドイツ・オーストリアを中心とする作曲家の「古典」作品を自身の新作と共に何度も演奏会で取り上げ、識者たちを唸らせた。古典音楽への献身はマルチェッログルックハイドンなど過去の作曲家の管弦楽作品を集めたトランスクリプション集《音楽院演奏会の想い出》(1847)に結実している。

1848年、アルカンに出世のチャンスが巡ってくる。師ヅィメルマンが音楽院教授職を辞し、後任を決める選挙が行われることになったのである。アルカンは音楽院の後輩三名と共に候補者に選ばれたが、最終的にA.-F.マルモンテル(1816~1898)が院長オベールの後ろ盾を得て教授になった。一切の妥協を嫌う一流のピアニスト兼作曲家として、またヅィメルマンの片腕として音楽院の顔を立ててきたアルカンのプライドは深く傷つけられ、何年も癒えることがなかった。翌年、親友のショパンが病死、アルカンは精神的にきわめて辛い時期を過ごした。1853年、ようやく立ち直ったアルカンは再び人前に姿を現し、旧友のヴァイオリニストD. アラール(1815~1888)、チェリストのA. フランコム(1808~1884)と共に古典室内楽の演奏会を開いた。浮世の儚さ、人間関係のもろさを痛感したアルカンにとって、恒久的な理念を体現する存在として「古典音楽」は、以前にもまして彼の生きがいとなっていたのである。1850年、ドイツのバッハ協会設立に際してアルカンは最初の協会賛助者の一人となったが、バッハ作品が普及していなかった当時、この協会に賛助を申し込んだフランス人はアルカンを含め三名に過ぎなかった。1855年のパリ万博の折、彼は以前から関心を持っていた足鍵盤付きピアノを演奏するために人前に姿を現したが、それを除けば以後何年もアパルトマンに閉じこもって殆ど出版することなく作曲に没頭した。

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1857年、アルカンは突然作品出版を再開する。独創的なアイディアをまとめたピアノのための性格小品集《歌曲集》作品38(二集)に続いて彼が世に送り出したのは、尊敬する音楽史家・音楽理論家・作曲家のF.-J. フェティスに捧げた世紀の超大作《全ての短調による12の練習曲》作品39、親友でケルン音楽院の院長のフェルディナント・ヒラーに捧げた連弾用の《3つの大行進曲》作品40、パリ音楽院の旧友に捧げた《ドイツ風メヌエット》作品46といった幾つもの大作だった。これらの作品で、彼はそれまで探究してきた超絶技巧と簡潔な古典様式という一見相容れない要素を決然と折衷させることで、独創的な個人様式を確立した。その一方で、彼は《こおろぎ―ノクターン第4番》作品60bis(1859)や《48のモチーフ》(素描集)作品63(1861)などの短編で、ピアノによる大胆かつ実験的な描写表現を試みている。

作曲とレッスンに専念していたアルカンは58年を過ぎても公開の演奏会には姿を見せなかった。人が家を訪ねてきても体調不良を理由に面会を断り、一人の時間を旧約聖書の翻訳―アルカンは生涯敬虔なユダヤ教徒だった―や作曲、読書に充てた。60年代に入ると創作の勢いは次第に減退していくが、とりわけ足鍵盤付きピアノの作品で充実した成果を上げた。足鍵盤付きピアノのための《ルターのコラール〈我らが神は型き砦〉に基づく即興曲》作品69(オルガンの師F.ブノワに献呈、1866)、「足の超絶技巧」を探究した《足鍵盤のみのための練習曲》(オルガンの名手で友人のルフェビュル=ヴェリーに献呈)は、それぞれドイツ・オルガン音楽に関する深い見識と奇抜な発想力を示す傑作である(上の写真はカメラに背を向けるアルカン)。

1873年、59歳のアルカンはようやくステージに帰ってきた。彼は「6つの古典音楽小演奏会」と銘打った年6回の演奏会シリーズを自ら企画し、楽器製造会社エラールのサロンで定期的に演奏した。そのプログラムはクープラン、ラモー、ヘンデル、J. S. バッハ、D.スカルラッティ等バロックの鍵盤作品からモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ウェーバー、さらには同時代を生きたメンデルスゾーン、シューマン、S. ヘラー、F. ショパン、そして自身のピアノ曲に至るまで幅広い時代の作品を演奏するという野心的なものだった。室内楽や歌曲を演奏する際には旧友アラールやフランコム、著名な歌手P.ヴィアルド夫人(1821~1910)、C.サン=サーンス(1835~1921)、ドラボルドらを招いて共演した。この演奏会は1880年頃まで続き、晩年は静かに余生を送り1888年3月29日に自宅で息を引き取った。1886年に作成された遺書で彼はフランス学士院音楽部門に足鍵盤付きペダルのコンクール創設を要請したが、結局実現することはなかった。後にドラボルドと共にアルカン作品の編集に携わったイシドール・フィリップ(1863~1958)は、アルカンが本棚の下敷きになって命を落としたという話をまことしやかに語っているが、フィリップの言説には不自然な点が少なくなく、今日では心不全などの病で亡くなったのではないかと考えられている。

幸いにも、アルカンの作品は彼の死後F.ブゾーニ(1866~1924)、J.ヴィアンナ・ダ・モッタ(1868~1948)、K. ソラブジ(1892~1988)など一部のピアニスト兼作曲家たちによって演奏され、完全に忘れ去られることはなかった。アルカン作品の版権はフランスのコスタラ社を経てビヨード社の手に渡り、20世紀以降も出版され続けている。1977年にはイギリスで、1984年にはフランスでアルカン作品の普及を目的としたアルカン協会が設立され、演奏会の開催とアルカン研究に貢献してきた。アルカンに関する資料研究の分野では近年際立った発見はないが、日本の研究者が1867年のパリ万博のコンクールに応募した賛歌の原稿を発見するなど興味深い発見が時折見られる。

執筆者: 上田 泰史 
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解説 : 上田 泰史  (547文字)

更新日:2010年1月1日
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