アルカン, シャルル=ヴァランタン 1813-1888 Alkan, Charles-Valentin
解説:上田 泰史 (6737文字)
更新日:2019年1月14日
解説:上田 泰史 (6737文字)
1820年代末から1830年代にかけて、ヨーロッパ中から若きピアノの才士が成功を夢見てパリを訪れた。ショパン、リスト、ローゼンハイン、ヴォルフ、デーラー、ドライショク――彼らは、華麗な技巧と独自の音楽語法でパリの聴衆を席巻した。そんな中、パリでも国立音楽院を中心として、これら外国人ヴィルトゥオーゾに勝るとも劣らぬフランス人ピアニスト兼作曲家一団が形成されつつあった。アルカンは、ジョゼフ・ヅィメルマン(1785~1853)、カルクブレンナー(1785~1849)、アンリ・エルツ(1803~1888)ら世代に続いて登場した独創的な音楽家で、1810年代生まれの若き「フランス派(エコール・フランセーズ)」の到来を告げる象徴的存在である。
1. 誕生~学習時代(1813年~1820年代)
アルカンの祖先は東方から中央ヨーロッパに移住し、フランス北東部のモランジュという村に定住したユダヤ人一族である。彼らはやがて村の名「モランジュ」を名乗った。シャルル=ヴァランタン・アルカンは1813年11月30日、パリで音楽学校を営む敬虔なユダヤ教徒アルカン・モランジュ(1779~1855)と母ジュリ・モランジュの第二子として生まれた。アルカンには1人の姉と4人の弟がいたが、モランジュ家に生まれた6名の子どもたちは、全員音楽家の道を辿った。子どもたちは、早くから父の名を採ってアルカン姓を名乗った。 父の指導の下ピアノとヴァイオリンを学び始め、著しい音楽的才能を示したシャルル=ヴァランタンは1820年、6歳でパリ音楽院(復古王政下では、王立音楽学校と呼ばれていた)に入学、7歳の時に人前でヴァイオリンを演奏し、1824年に10歳で一等賞を得てピアノ科を修了した。1826年、父と音楽院におけるピアノの師ジョゼフ・ヅィメルマン教授の後援の下、ピアニストとして行った出演したコンサートで変奏曲(おそらく、同年に作曲された《シュタイベルトの主題による変奏曲》作品1)を演奏した。
1827年にヅィメルマンの助手(レペティトゥールと呼ばれる下見教員)を務めるようになる。やがて上流階級のサロンに出入りするようになったアルカンは一躍サロンの寵児となり、リスト、ヒラーを始め一流の芸術家たちと交流を持つようになる。1831年にパリに到着したショパンはほどなくアルカンに出会い、ヒラーと共に以後生涯続く友情で結ばれる。
作曲家のキャリアの開始を告げたのは、前述の《シュタイベルトの主題に基づく変奏曲》作品1(ヅィメルマンに献呈)、グリッサンドを伴うロッシーニ風の爽快な《乗合馬車》作品2(1828)はオクターヴや急速な同音連弾などの技巧が満載された10代の輝かしい成果である。
2. 名声と最初の隠退(1830年~1843年)
1830年の七月革命は、ロマン主義の芸術家たちの想像力を大いに鼓舞したが、アルカンも例にもれなかった。1833年、アルカンはイングランドを訪れ、おそらく現地の音楽家たちと交流した。翌年に刊行された《ピアノと弦楽器のための室内協奏曲第2番》は、イングランドのバースのヘンリー・フィールドというピアニストに献呈され、ロンドンで出版された。1836年には、姉妹作《ピアノと管弦楽のための室内協奏曲第1番》がパリで出版された。
技巧的で華麗な様式に取り組む一方で、アルカンはヅィメルマンから対位法――そして、おそらくオペラの作曲書法――の個人指導を受けていた。1832年、作曲家の登竜門であるローマ賞作曲コンクールで選外佳作を得た(この年の一等賞は、ピアノ科で同門だったアンブロワーズ・トマである)。厳格対位法の修練は、のちのアルカンの多声書法の礎となる。
30年代の後半に入ると、彼の新しいピアノ演奏技術への探究心はいよいよ高揚し、1837年《華麗な様式による3つの即興曲》作品12(1837)から《3つのスケルツォ》作品16(同年刊行)までの連作「12のカプリース」(当時の出版カタログにはこのように記載されていた)において他の追随を許さない苛烈を極めるテクニックを独自の音楽語法に結び付けた。この一連の作品のうち、《追憶――悲愴的ジャンルの3曲》作品15はリストの概して好意的な批評を受けたが(それでも、強弱記号、表情記号を敢えて付けなかったことは、リストに不可解な印象を与えた)、アルカンは自身と対極的な美的立場をとるシューマンの酷評を甘受しなければならなかった。技巧探究の一方、アルカンは後に《十二ヵ月》(1838)として補完されることになる《6つの性格的小品》作品8(1837)で四季折々の情景を鮮やかに描写した。1839年の春、クララ・シューマンは、パリ滞在時にアルカンに会っており、婚約者ローベルトへの手紙で《十二か月》の〈過越の祭り〉を高く評価している。一方、アルカンをフランスロマン主義の最右翼とみなすローベルトは、以前よりは好意的にこれらの小品を受け止め、ピアニストとしての素質を評価したものの、以後、作曲家アルカンを肯定的に評価することはなかった。
数々の演奏会の成功でアルカンは1830年代後半、栄光の絶頂にあった。一流の友人からの信頼も厚く、1836年、フランツ・リストは、ベルギーの音楽院教授職に就くことをアルカンに打診した(しかし、アルカンはこの誘いを断った)。ショパンとは音楽的な交流を温め、1838年にヅィメルマン、ショパンとその弟子アドルフ・グートマンの4人で、アルカンが編曲したベートーヴェンの《交響曲第7番》の編曲(2台8手)を演奏した。
ところが、ジャーナリズムの注目を集めていたアルカンは、1839年から44年まで公開演奏会に姿を見せなくなり、出版も殆ど途絶えてしまう。いくつかの背景がこの隠退に関わっている。一つは、1838年に父が亡くなったこと、もう一つは、貴族階級の既婚女性との間にエリ・ミリアン(1839~1913)という一人の子どもを設けたことである。私生活におけるこの出来事が、彼の活動自粛に何らかの影響を及ぼしたものと考えられている。後にドラボルドを名乗るこの子どもは、優れたピアニスト兼作曲家、音楽院のピアノ教授となり、父の作品を自ら演奏したり、生徒に演奏させたり、再出版するなどして、普及に貢献した。
しかし、この時期にあっても、アルカンは《ピアノ三重奏曲》(1841)と《ヴァイオリンとピアノのための協奏的大二重奏曲》(1842)を世に送り出し、室内楽においていくつかの実験を試みた(前者の第一楽章では全音階の使用が、後者の第2楽章〈地獄〉ではクラスターのような不協和音が際立っている)。
3. 30代の輝き(1844年~1848年)
1844年、アルカンは再び公衆の前に姿を現し、書き溜めた作品を一気に出版する。《騎士――演奏会用練習曲》作品17、《サルタレッロ》作品23、弟ナポレオン・アルカンに献じた《ジーグと古風な様式によるエール・ド・バレエ》作品24、《鉄道――練習曲》作品27はいずれもピアノの音域とイギリス式アクションの機能性を最大限に生かし、新しい独自のピアノ音楽様式を探究した血気盛んな30代の野心作である。同年、大オーケストラのための《交響曲》を手掛けるが、結局上演も出版もされることはなかった(レオン・クロイツェルによる自筆譜に基づく作品評のみが残っている)。現在このスコアが行方不明となっているのは惜しまれる。40年代後半、彼の創作力は人生を辿る標題を持つ《大ソナタ》作品33、《スケルツォ・フォコーゾ》作品34(1847)、《全長調による12の練習曲》作品35(1848)で前半期のピークを迎える。
アルカンは演奏・作曲スタイルの奇抜さによって人々の注目を集めようとする音楽家ではなかった。恐らくは学習時代に師ヅィメルマン、ドイツの友人F. ヒラーと音楽理論家F.-J. フェティスの感化の下、過去の音楽に対する畏敬の念が彼の中で育まれていた。バロック時代の鍵盤作品がまだ一般の聴衆には殆ど知られていなかった当時、彼はJ. S.バッハやスカルラッティの作品に積極的に取り組み、前世紀の巨匠モーツァルト、ベートーヴェン、フンメル、シューベルトなどドイツ・オーストリアを中心とする作曲家の作品を自身の新作と共に何度も演奏会で取り上げ、識者たちを唸らせた。古典音楽への献身はマルチェッロ、グルック、ハイドンなど過去の作曲家の管弦楽作品を集めたトランスクリプション集《音楽院演奏会の想い出》(1847)に結実している。古今のレパートリーに精通したアルカンは、今や名実ともに還暦を過ぎていたヅィメルマンの後継者としてもっとも有力なパリ音楽院教授候補となっており、彼もまたそれを自任していた。
4. 挫折と二度目の隠退
フランス2月革命が勃発した1848年、アルカンに出世のチャンスが巡ってくる。師ヅィメルマンが同僚との不和から音楽院教授職を辞し、後任をめぐる人事が行われることになった。アルカンは音楽院の後輩三名(A.-F. マルモンテル、É. プリューダン、L. ラコンブ)と共に候補者リストに名前が記載された。この人事は、指名権が院長のD.-F.-E. オベールにあり、任命権は内務大臣が握っていた。したがって、ヅィメルマンは後任人事に口出しすることはできず、オベールとの関係が決定的に重要であった。作曲家・ピアニストとしての経歴が浅いアントワーヌ=フランソワ・マルモンテル(1816~1898)が有力候補だという噂に焦ったアルカンは、ジョルジュ・サンドの助力を得て大臣に直談判を試みたが、それは常識的に考えてリスクの大きい方法だった。しかも、アルカンは大臣への手紙のなかで筆頭候補者として指名を受けていたマルモンテルを激しく攻撃した。任命は、この行動が裏目に出た形となった。院長オベールの後ろ盾を得て、マルモンテルが1848年、ピアノ科男子クラス教授に就任した。一切の妥協を嫌う一流のピアニスト兼作曲家として、またヅィメルマンの一番弟子として音楽院ピアノ科の顔を立ててきたアルカンのプライドは深く傷つけられ、何年もその傷は癒えることがなかった。
1849年、親友のショパンが病死した。ショセ=ダンタン地区の団地スクワール・ドルレアンで約7年をともに過ごしたショパンは、死の床にあって、書きかけの自作を焼却するよう友人に頼んだ一方、未完のメソッドの原稿をアルカンとパリ音楽院作曲科教授アンリ・ルベールに託すよう言い残したという(これらの原稿は、実際にはショパンの姉が引き取った)。1853年、ようやく立ち直ったのか、アルカンは再び人前に姿を現し、旧友のヴァイオリニスト、デルファン・アラール(1815~1888)、チェリストのオーギュスト・フランコーム(1808~1884)と共に古典室内楽の演奏会を開いた。1850年、ドイツのバッハ協会設立に際してアルカンは最初の協会賛助者の一人となった。当時、この協会に賛助を申し込んだフランス人はアルカンを含め三名に過ぎなかった。1855年、パリ万博の折、彼は以前から関心を持っていた足鍵盤付きピアノを演奏するために人前に姿を現したが、それを除けば以後何年もアパルトマンに閉じこもって殆ど出版することなく作曲に没頭した。
5. 作曲家としての再起(1857年~1870年)
1857年、アルカンは突然作品出版を再開する。独創的なアイディアをまとめたピアノのための性格小品集《歌曲集》作品38(二集)に続いて彼が世に送り出したのは、尊敬するベルギーの音楽史家・音楽理論家・作曲家のフランソワ=ジョゼフ・ フェティスに捧げた《全ての短調による12の練習曲》作品39、親友でケルン音楽院の院長のフェルディナント・ヒラーに捧げた連弾用の《3つの大行進曲》作品40、パリ音楽院の旧友アンリ・ラヴィ―ナに捧げた《ドイツ風メヌエット》作品46といった幾つもの大規模作品だった。これらの作品で、彼はそれまで探究してきた超絶技巧と簡潔な古典様式という一見相容れない要素を決然と折衷させることで、独創的な個人様式を確立した。その一方で、彼は《こおろぎ――ノクターン第4番》作品60bis(1859)や《48のモチーフ》(素描集)作品63(1861)などの短編でも、ピアノによる大胆かつ実験的な描写を試みた。
作曲とレッスンに専念していたアルカンは1858年を過ぎても公開の演奏会には姿を見せなかった。人が家を訪ねてきても体調不良を理由に面会を謝絶し、独りの時間を旧約聖書の翻訳――アルカンは生涯敬虔なユダヤ教徒だった――や作曲、読書に充てた。60年代に入ると創作の勢いは次第に減退していくが、とりわけ足鍵盤付きピアノの作品で充実した成果を上げた。足鍵盤付きピアノのための《ルターのコラール〈我らが神は固き砦〉に基づく即興曲》作品69(オルガンの師フランソワ・ブノワに献呈、1866)、足の超絶技巧を探究した《足鍵盤のみのための練習曲》(オルガンの名手で同門の友人のルフェビュール=ヴェリーに献呈)は、それぞれドイツ・オルガン音楽に関する深い見識と特異な発想力を示す傑作である。この時期、アルカンは社会的成功の野心を絶やしてしまったわけではなかった。彼は、1867年に開かれたパリ万博の折、コンクールで募られた平和の賛歌を作曲し応募した。
1870年、普仏戦争が勃発し、パリコミューンがこれに続いた。多くの音楽家は安全を求めてパリの外に避難したが、アルカンは銃声の響くパリの街に留まった。
6. 舞台への復帰と晩年
1873年、59歳のアルカンはようやく舞台に帰ってきた。彼は「6つの古典音楽小演奏会」と銘打った年6回の演奏会シリーズを自ら企画し、楽器製造会社エラールのサロンで定期的に演奏した。そのプログラムはクープラン、ラモー、ヘンデル、J. S. バッハ、D.スカルラッティ等バロックの鍵盤作品からモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ウェーバー、さらには同時代を生きたメンデルスゾーン、シューマン、S. ヘラー、F. ショパン、そして自身のピアノ曲に至るまで幅広い時代の作品を演奏するという野心的なものだった。室内楽や歌曲を演奏する際には旧友アラールやフランコーム、著名な歌手ポリーヌ・ヴィアルド夫人(1821~1910)、カミーユ・サン=サーンス(1835~1921)、ドラボルドらを招いて共演した。この演奏会は1881年頃まで続いた。1886年に作成された遺書で、彼はフランス学士院音楽部門に足鍵盤付きペダルのコンクール創設を要請したが、結局実現することはなかった。晩年は静かに余生を送り、1888年3月29日に自宅で息を引き取った。死因について、後にドラボルドと共にアルカン作品の編集に携わったパリ音楽院ピアノ科教授イジドール・フィリップ(1863~1958)は、アルカンが本棚の下敷きになって命を落としたという話をまことしやかに語ったため、これが伝説として伝えられてきたが、アルカンの晩年の弟子マリー=アントワネット・コラが息子に語ったことによると、重たい傘立てが落下し、その下敷きになったことが原因で亡くなったとされる。彼の亡骸はモンマルトル墓地に葬られ、後に姉セルストも同じ墓に埋葬された。
アルカンの作品は彼の死後、版権がフランスのコスタラ社を経てビヨード社の手に渡り、20世紀以降も出版され続けている。これらの楽譜の多くは、初版に基づいてはいるものの、編集者I. フィリップやドラボルドによって添削された強弱や表情記号が少なからずあり、必ずしも初版の状態を留めるものではないため、批判校訂版の刊行が望まれる。
演奏に関しては、20世紀前半、ドラボルドとその門下生をはじめ、F.ブゾーニ(1866~1924)、J. ヴィアンナ・ダ・モッタ(1868~1948)、K. ソラブジ(1892~1988)、ジャンヌ=マリー・ダルレー(1905~1999)といったピアニストや作曲家たちによって演奏され、以後も今日まで忘れ去られることはなく受け継がれてきた。しかし、そうした演奏家による受容は広く聴衆を巻き込む体系的なものではなく、商業的な広がりを見せることはなかった(伝記も長らく刊行されなかった)。アルカンについての本格的な研究と録音の普及が進んだのは、戦後、とくに1977年にイギリスで、1984年にフランスでアルカン作品の普及を目的とした協会が設立されて以後のことである。
作品(101)
ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ) (1)
協奏曲 (2)
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ピアノ独奏曲 (22)
ロンド (4)
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練習曲 (8)
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ソナタ (1)
サルタレッロ:ピアノとチェロのための演奏会用ソナタのフィナーレ(ピアノ4手) Op.47bis サルタレッロ:ピアノとチェロのための演奏会用ソナタのフィナーレ(ピアノ4手)
作曲年:1865 総演奏時間:33分00秒
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