作品の「成立」を作曲、出版のいずれの時点に認めるかは美学上の問題である。ここではこれらの議論は横に置き、まず作曲から出版に至る経緯について略述し、最後にアルカンの作曲における美学的背景として、初版に付された序文について解説する。
1. 作曲と出版の経緯
アルカンは1847年7月25日、音楽理論家・音楽史家・批評家のフランソワ=ジョゼフ・フェティスFrançois-Joseph Fétis(1784~1871)に宛てた手紙の中で、このソナタの作曲を示唆している。「もし神のお気に召されるなら、ごく最近作曲したものとして、また、一年ないし何年も前に遡るものとして、今後のためにとっておく合奏曲ではなく、このほど貴方が大変好意的に報告して下さった作品とは全く別の展開をもつピアノ用の諸作品を出版したいと思っています。それは例えば、1曲の長大なソナタ、ピアノのための大規模なスケルツォ1作と序曲1作、複数の練習曲――それには、かなりの大規模で労作された曲がいくつも含まれます――といった作品です」(2)。(太字強調は訳者による)
「長大なソナタ」が《大ソナタ》作品33であることはほぼ確実である。この手紙の記述は、この作品が1847年7月には完成していたことを示唆している(3)。当時アルカンは33歳で、体力・知力ともに旺盛な年代を迎えていた。コンサートの舞台からは引き下がり気味ではあったとはいえ、ピアニスト兼作曲家としての名声は高く、《全長短調による25の前奏曲》作品31(1847)は音楽雑誌『ルヴュ・エ・ガゼット・ミュジカル』紙上でフェティスの好意的な批評を受けていたし(上に引用した手紙の中で言及されている「報告」は恐らくこの批評であろう)、編曲集《パリ音楽院の想い出 第1集》(1847)では音楽の古典に通じた識者としての一面も示していた。
しかし、このソナタは1848年の春に出版されたとき、殆ど注目を集めなかった。この年、パリでは2月に暴動が起こり(いわゆる「二月革命」)、ブルジョワを優遇してきたルイ・フィリップの七月王政が打倒され臨時共和政府が樹立されたばかりで、共和国憲法制定の道が模索されていた。音楽雑誌にはこの作品の出版が告知されただけで、批評は掲載されなかった。多くの音楽家がパリを離れた2月革命の後で、彼の新作が注目を集めるにはまだ時期が早すぎたのである。アルカン自身が出版後、この作品を公の場で演奏したという事実は確認されていない。この年の8月、旧師ヅィメルマンが音楽院教授の引退を表明したことで、アルカンの関心事が後継者争いに移っていたことも、その一因であろう。その後も、彼は期待していた教授のポストを得られなかったことから殆ど公衆の前で演奏せず、出版活動も1857年まで中断する。かくして、このソナタは長い間、陽の目を見なかった。知られている限り、部分的初演は1964年にルーウェンサールがニューヨークで行った第2楽章の上演、全曲の初演は1973年8月10日、ヨーク大学におけるロナルド・スミスによる演奏とされる。作品の献呈先は父アルカン・モランジュ(ca 1780~1855)。
2. 序文:作曲における美学的背景
このソナタには、アルカン自身による序文が付いている。ここで、彼がなぜソナタ作曲の伝統から逸脱して、各楽章に独自の標題を与えたのか、その根拠を説明している。この序文は、彼がこのソナタを通して、なぜ音楽表現と言語表現を両立させる必然性があったのかを演奏者に理解してもらうための釈明でもある。
本文は3段落からなり、各段落では、話題の限定、各楽章に標題をつけた根拠の提示、自身の立場の権威付けが行われる。一読しただけでは意味が把握し難い序文なので、以下、段落ごとに解説する。
第1段落:話題の限定
「音楽的表現の限界については多くのことが語られ、記述されてきた。あれこれの規則を採用したり、あれこれの体系が提起する壮大な諸問題のいずれをも解決したりしようとするのではなく、私はただ、なぜ4つの楽章にかかるタイトルを与え、時には、通例全く用いられない用語を用いたのかを述べる。」
アルカンは学問的・理論的体系に依拠して持論を述べるのではなく、専らこのソナタの各楽章に独特なタイトル(「20歳」、「30歳――ファウストの如く」・・・)をつけた理由に話題を絞っている。
第2段落(前半):各楽章に標題をつけた根拠
「ここでは、断じて模倣的音楽が問題となるのではない。ましてや、音楽外的な領域の中で、その音楽自体の根拠付けや、効果、価値についての口実を求めるような音楽が問題となるのではない。第1楽章はスケルツォである。第2楽章はアレグロ、第3楽章と第4楽章はアンダンテとラルゴである。とはいえ、これらの各々は、私の精神においては、人生のある特定の時や、思考、想像力の個別的な有り様に対応している。どうして私がこのことを指示しない理由があるだろうか?」(太字箇所は、原文ではイタリック)
「模倣的音楽」とは、ベルリオーズの《幻想交響曲》に代表される、いわゆる標題音楽のことである。彼は、具体的な指示機能をもつ言語という「音楽外的」手段に訴えて、音楽の存在根拠を説明するという立場には否定的である。アルカンは、音楽と言葉の領域を厳格に区別し、音楽的表現を「音楽外的」事象や言語的表現に従属させることを望んでいない。しかし同時に、彼は言語表現を排除しようともしていない。では、彼にとって音楽表現と言語表現はどのように関係づけられるのか。
序文では、《大ソナタ》の各楽章が「スケルツォ」、「アレグロ」、「アンダンテ」、「ラルゴ」といった、一般的な楽想用語に対応していることが示されている。次にアルカンは一般性に個別性を対比させている。彼によれば、それぞれの楽章は、彼が生きている中で抱いた個々の「時」、「思考」、「想像力」の様態と呼応している。第2段落の後半では、この一般性と個別性の関係が、作曲者と演奏者(解釈者)説明される。
第2段落(後半)
「音楽的要素は[楽譜として]いつまでも残っていくものだから、表現はそこから何がしかを汲み取るしかない。演奏家とは、自身の個人的感情を捨てることなく、作曲者の着想そのものを自らに吹き込むものである。つまり、これこれの名称としかじか事柄は、物理的な意味で把握される限りでは相容れなくとも、知的領域では完全に結びつくということだ。ゆえに私は、これらの指示を用いれば、一瞥したときには野心的に見えるにせよ、その助けがない場合よりも、よりよく理解され、演奏されるはずだ、と考えたのである。」
「音楽的要素」(「スケルツォ」、「アレグロ」などの楽想やそれを表象する音符などの記号)は、ひとたび出版されると作曲家の手を離れて存続する。それゆえ、演奏者が表現しようとする作曲者の着想は、具体的に言葉で指示されない限り、楽譜のみから汲み取るしかない。ところで、演奏家の領分は作曲家の着想を汲み取って表現するということにある。この現象はどのようにして生じるのだろうか。演奏者が「作曲者の着想そのもの」を把握するためには、名称(指示する言葉)と事柄(指示される対象物)の関係が、作曲者と演奏者の間で共有されていなければならない。」ここで、「名称」とは、「20歳」、「30歳――ファウストの如く」等々の標題であり、「事柄」とは、第2段落前半で述べられた、「人生のある特定の時や、思考、想像力の個別的な有り様」に対応する音楽的要素、すなわち「スケルツォ」、「アレグロ」、「アンダンテ」、「ラルゴ」である。ところで、物理的視点から見た場合、「スケルツォ」や「アレグロ」といった抽象的で一般的な言葉で表される音楽的要素が、「20歳」、「30歳」、「ファウスト」といった具体的着想に対応する客観的理由はない。しかし、第2段落前半でみたように、作曲者の精神においては、標題と音楽的要素は完全に対応している。この対応関係を演奏者の精神の中にも確立するためには、個別的着想を言語で表明しておけばよい。そうすることで、演奏者は作曲者の着想に寄り添った解釈が可能になる、とアルカンはと考えたのである。
第3段落
「ベートーヴェンの権威を喚起することをお許し願いたい。かの偉人が、その経歴も終わる頃、主要な自作品の入念な一覧表を作成したということは周知の事実である。そこで、彼はどのような構想、思い出、どのような種類の霊感に基づいてこれらの作品が着想されたのかを書き留めることとなったのである。」
最後の段落は、これに先立つ2段落で提示した立場を、ベートーヴェン自身による自作品に対する注釈行為から権威付けている。(ここで言及される「一覧表」として可能性があるのは、ベートーヴェンの生前に出版社から出された作品目録である。ベートーヴェン生前、アルタリア社とホフマイスター社から、ベートーヴェンの既刊作品一覧が発行されている。アルタリア社のカタログは、作品番号が欠けている作品についてベートーヴェンに質問もしているので、ベートーヴェンがそのカタログについて知っていたことは確かだが、それらにベートーヴェン自身が注釈を書き込んだという事実は確認されていない。)
以上のように、アルカンは音楽的要素のもつ一般性と作曲者の着想の個別性を知的次元で統一するために、各作品に標題を付けている。標題のみならず、このソナタを通して、フランス語で記された言葉は楽譜の随所にちりばめられ、演奏者に個別的着想を示している。
(2)Brigitte François-Sappey, « Grande Sonate op. 33 “Les quatres âges : Un destin musical” », Charles Valentin Alkan, Paris, Fayard, 1991, p. 96. (3)これまでの研究は、このソナタの成立年代を1847年と断定しているが、その根拠は明示されていない(François Luguenot, « Catalogue d’œuvres d’Alkan », ibid., p. 284 ; Brigitte François-Sappey et François Luguenot, Charles-Valentin Alkan, Paris, Bleu nuit éditeur, 2013.)。この手紙の引用から判断するなら、このソナタの成立年代は1847年頃と看做すことができる。