シューマン, クララ 1819-1896 Schumann, Clara
解説:鄭 理耀 (6069文字)
更新日:2019年4月27日
解説:鄭 理耀 (6069文字)
⑴幼年時代
クララは1819年9月13日、父フリードリヒ・ヴィークと母マリアンネの長女として、ライプツィヒで生まれる。5歳の時に両親が離婚し、クララと弟達は母親と離れ、父親と暮らすようになる。「クララ」とは「輝き」や「著名人」を意味することから、ピアノ教師であった父ヴィークがその名を選んだ。ヴィークは、娘が名前の通り偉大なヴィルトゥオーソになることを確信しており、彼女が5歳のときにピアノ・レッスンを開始する。ピアノ教師のかたわら楽器製作と楽譜業も営んでいた父のもと、クララは幼い頃から非常に恵まれた環境で、音楽の英才教育を受けることができた。また、ヴィークは英語やフランス語などの語学の教育にも力を入れ、体力をつけるために数時間の散歩を日課とした。
⑵キャリアの幕開け
数回にわたる私的な演奏会への出演を経て、1828年10月、9歳になったばかりのクララは、ついにライプツィヒ・ゲヴァントハウスの演奏会に出演する。これは初の公の場での演奏で、クララのキャリアの始まりであった。この時クララは、カルクブレンナーの《ロッシーニの歌劇「モーゼ」の行進曲による華麗な変奏曲》op. 94を披露している。1830年には同じくゲヴァントハウスで初のリサイタルを行ない、翌年には音楽界の中心であったパリへ向けて、ヴィークと演奏旅行に出発する。道中、ヴァイマールで2度もゲーテの前で、カッセルではシュポーアの前で演奏する機会を得た。パリには2ヶ月間滞在し、私的な夜会や公的な演奏会に数回出演した。また、同地で開かれる演奏会で最先端の音楽に触れただけでなく、メンデルスゾーン、カルクブレンナー、エルツ、ショパンらと知り合い、パガニーニと再会するなど、多くの刺激を受けた。ライプツィヒに戻ったあとも演奏活動を続けながら、音楽理論や作曲、楽器法、ヴァイオリンなどを学んだ。1831年に出版された《ピアノのための4つのポロネーズ》op.1をはじめとして、この頃すでにいくつかのピアノ独奏用作品を世に出している。
ヨーロッパを舞台に展開した活発な演奏活動において、クララは次々と輝かしい成功を収めたが、青少年時代のキャリアの頂点は1837-38年のヴィーン演奏旅行である。オーストリアの代表的な劇詩人グリルパルツァーは『クララ・ヴィークとベートーヴェン』という詩を発表し、クララを大いに讃えた。また、彼女はオーストリアで最も栄誉ある「王室帝室室内楽奏者」の称号を与えられた。18歳という若さに加え、外国人、新教徒、さらに女性に授与されるのは特例であった。皇帝はクララを「天才少女」と呼んだ。
⑶ローベルト・シューマンとの結婚
クララとシューマンの出会いは1828年である。その後、音楽家を志したシューマンは1830年、ヴィーク家で下宿しながら本格的な音楽教育を受けることとなる。二人は毎日ヴィークのレッスンを受け、熱心に練習に取り組んだ。1835年、シューマンがエルネスティーネとの婚約を解消すると、二人の距離は急速に縮まっていく。クララ16歳、シューマン25歳のときであった。二人の関係に気付いたヴィークは交際を猛烈に反対し、あらゆる手を使って仲を引き裂こうとした。1837年二人は婚約するが、ヴィークの許しを得ることはできず、彼らの溝はますます深まっていった。1839年、クララは二度目のパリ演奏旅行へ、ヴィークの付き添いなしに出かける。それまで父が引き受けていたマネージャー的業務を、全て一人でこなさなければならなかった。クララはここで演奏会の成功だけでなく、ヅィメルマンやアルカンらと面識を得、《トッカータ》op. 7をはじめとするローベルトの作品の紹介にも尽力した。全てを父なしでやってのけたこの経験は、クララに大きな成長をもたらした。ローベルトとクララは、ヴィークとの和解は不可能であると考え、クララの帰国後、この問題を法廷に持ち込んだ。1840年、裁判所から結婚の許可が下り、ヴィークとの長く激しい抗争に決着がついた。クララの21歳の誕生日の前日、1840年9月12日に二人は結婚した。
ライプツィヒでスタートさせた新婚生活は幸せに満ちていた。二人はまもなく交換日記(Ehetagebuch)を始め、口下手な彼らはここに様々な感情や事柄をしたためることで、相互の理解を深めた。ライプツィヒでは、子供も二人生まれた(マリーとエリーゼ)。芸術活動にあたり、二人の結婚は互いに刺激を与えあうものであったが、クララは不満を抱かなかったわけではなかった。彼女は家事と育児に追われたほか、ローベルトが作曲中は彼の邪魔をしてはいけなかったので、思うように自分の練習と作曲の時間を確保できなかった。音楽活動を制限され、感情の起伏が激しい夫を支えながら、慣れない主婦業をこなす日々に、クララは常に思い悩んでいた。しかし、このような状況の中でも努力をつづけ、1841年3月31日に開いたクララ・シューマンとしての初の演奏会を皮切りに、ヨーロッパ各地での演奏活動を継続した。
1844年、一家はドレスデンに越す。理由は、病気で抑鬱状態であったローベルトの心身を回復させるためであった。ドレスデンは美しいエルベ河の河畔に位置し、山々にも囲まれていたため、ライプツィヒよりも空気が澄んでいた。ここでのクララの役目は夫を支えることで、自らのキャリアは後回しだった。ドレスデンでの最初の2年間、クララの演奏活動はドレスデンとライプツィヒに限られていたが、1847年以降は精力的な演奏活動を再開し、家計を助けた。さらに、再発を続けるローベルトの病気のため、クララは彼の仕事の多くに関与したり、それらを代行したりもした。ローベルトはどんどんクララへ依存していった。ドレスデン時代の最初の2年間には《ピアノのための3つのプレリュードとフーガ》op. 16や《ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重奏曲》op. 17などの重要な作品が生まれた。また、ここでは四人の子供に恵まれた(ユーリエ、エミール、ルートヴィヒ、フェルディナント。しかしエミールは誕生した翌年に亡くなる)。
1850年、ローベルトがデュッセルドルフの音楽監督として招かれたため、一家はライン河畔の同地に移り住むこととなった。クララもここでピアニストとして歓迎され、夫の指揮でオーケストラと共演したり、数々の演奏会に出演する機会を得たほか、ピアノの指導も行なった。1853年には一家で新しいアパートに引越し、ここでクララはついに自分の仕事部屋を持つことができた。夫を妨げることなく、練習や作曲に打ち込むことができるようになったのである。クララはこの部屋で再び作曲に取り組み、その年の3ヶ月間に彼女の最後の作品群、《ローベルト・シューマンの主題による変奏曲》op. 20、《ピアノのための3つのロマンス》op. 21、《ヴァイオリンとピアノのための3つのロマンス》op. 22、《6つの歌曲》op. 23が生まれた。ピアニストとしては、デュッセルドルフとその近郊で演奏会を行い、夫のリハーサルに付き添い合唱の伴奏を担当した。また1853年には、ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムと、若きヨハネス・ブラームスに知り合う。ヨアヒムとは幾度も共演を重ねて信頼する音楽仲間となり、ブラームスとは人間的にも芸術的にも深くつながった「最高の友」(本人同士がそう述べている)となった。ブラームスはクララのその後の悲劇的な生涯を、家族の一員であるかのように献身的に支え、またクララも彼に依存し、その音楽に慰められた。音楽界で影響力のあったクララは、ブラームスの作品を絶えず宣伝し、広く普及させた。二人の具体的な関係については、証拠となるような資料が全て破棄されたために明白にできないが、この複雑な関係はクララの死まで続いた。
一方で、ローベルトの容態は1852年から急速に悪化する。1853年の終わりには、彼は音楽監督を事実上辞任するに至る。1854年になると幻聴や頭痛はますます激しくなり、2月には自殺をはかる。翌月、彼はボン近郊のエンデニヒの精神病院へ運ばれた。ローベルトの入院中、クララと子供たちは面会を禁じられた。家族の生活を維持するため、そして自らの悲しみを紛らわせるため、クララは演奏活動を幅広く続けた。1856年6月、クララが初のイギリス旅行を終えようとしていたとき、ローベルトが危篤であるという報を聞く。クララは何度も夫を訪ねたが、ようやく面会の許可がおりたのは、ローベルトが亡くなる2日前だった。7月27日と28日、クララは約二年半ぶりに夫のもとで過ごした。そして29日、ついにローベルトは息を引きとる。クララは何よりも、夫がようやく苦しみから解放されたことに安堵した。夫婦はデュッセルドルフ時代に、さらに二人の子供に恵まれたが(オイゲーニエとフェーリクス)、1854年に生まれた末子が父に会うことはなかった。
⑷ローベルトの没後
クララは37歳で未亡人となり、7人の子供を一人で育てなければならなかった。冬の間は演奏旅行の予定を立て、ヨーロッパの随所を回った。中でもイギリスにはほぼ毎年訪れ、1864年のロシア旅行では大成功を収めた。クララは自らマネージャーとなり、広範囲にわたる仕事の書簡も交わした。また、ローベルトの作品の普及にも、これまでと同様に尽力した。一方で夏の間は演奏旅行のための準備期間としながら、休養をとったり、家族や来客のために時間を使った。ローベルトの没後、クララは母マリアンネと暮らすために1857年にベルリンへ、63年にはバーデン=バーデンへ、73年に再びベルリンへ移った。
1870年代に入ると、クララの家族を次々と不幸が襲う。まず70年には、息子ルートヴィヒが精神病院に入り、その弟フェルディナントが普仏戦争に徴兵された。72年には母マリアンネと娘ユーリエが、73年には父ヴィークが、79年には息子フェーリクスが相次いで亡くなる。このような悲劇的状況にあるとき、ピアノを弾くことはいつもクララの癒しとなった。そして、この苦しみをいくらか軽減してくれるピアニストという身に、彼女はいつも感謝していた。
そのような中、1878年にフランクフルト音楽学校(現フランクフルト国立音楽大学)が開校すると、クララはピアノ科主任教授の地位につく。彼女は当時、唯一の女性教授であった。この職をクララは92年まで続ける。また、1878年にはデビュー50周年記念演奏会を、88年には60周年記念演奏会を盛大に行なう。教育および演奏活動のほか、79年には夫ローベルトの全集出版のため、作品の校訂作業も始める。クララは校訂に際して、夫の自筆譜や初版などを丁寧に精査した。ブラームスの協力もあり、ローベルトの作品全集は1881年〜93年に出版された。加えて、クララが自らの考えを率直に示した『教育版(Instruktive Ausgabe)』が86年に出版された。これは、ローベルトのピアノ作品に限ったものであるが、テンポやメトロノーム指示、強弱記号や運指法、ペダル記号などが、クララの考えによって追加・変更されている。また楽譜だけでなく、ローベルトの若い頃の手紙も編集し、『青年時代の書簡(Jugendbriefe)』と題して教育版と同年に出版した。
世界最高のピアニストとして輝かしい演奏家人生を歩んだクララは、1891年フランクフルトで最後の公開演奏会を行なう。その後もリウマチと難聴に苦しみながら、最後まで、私的な場で演奏し、即興し、ピアノを教え、編曲し、楽譜を編集した。1896年、クララは脳卒中で倒れ、5月20日にその生涯を終えた。
⑸作品について
クララの作品のうち、作品番号が付けられたものは23あり(ただし18、19番はなし)、ピアノ曲が15曲、歌曲が3曲、協奏曲および室内楽曲が3曲という内訳である。作品1を筆頭に、初期のピアノ曲は技巧的で耳馴染みが良く、少女クララのレパートリーであったヴィルトゥオーソ達の作品に倣って書かれている。また、ところどころに、シューマン作品との旋律や楽想の共有が見られる(例えば、《ピアノのためのロマンティックなワルツ》op. 4の前奏後のオクターヴの下行音型は、シューマン《謝肉祭》op. 9の〈ドイツ風ワルツ〉にも用いられている)。1836年頃に書かれた《4つの性格的小品》op. 5や《音楽の夜会》op. 6のピアノ作品は、メンデルスゾーンやショパン、シューマンの作品との類似性が指摘される。彼らと直接関わりをもち、当時のロマン派音楽の風潮を理解していたクララは、その作風を自然と自らの作品に取り入れることができた。両作品は、ロマン的心情と文学的想像力が溢れた、1830年代の典型的な性格小品である。とくにop. 5では、ゲーテの『ファウスト』から想を得た奇怪な情景を音で描き、ベルリオーズが熱狂したロマン主義文学への傾倒が刻印されている。そしてこれらもまた、シューマン作品との直接的な関連性を持つ。《ピアノ協奏曲》op. 7は、シューマンがオーケストレーションを手助けした作品としても知られる。全3楽章からなるが、全体が切れ目なく連続して演奏され、第1楽章においては展開部で第2楽章に移っていく。この独創的な構造と、主題の巧妙な扱いによる全楽章の統一感により、15歳のクララの傑作として注目される。1840年の結婚後、初の出版作品は夫と同じく歌曲で、これはシューマンのop. 37に組み込まれて出版された(《3つの歌曲》op. 12)。また結婚後、夫婦で対位法と古典派作品の研究を熱心に行った成果が、《3つのプレリュードとフーガ》op. 16と《ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重奏曲》op.17にあらわれている。特に三重奏曲は、クララのそれまでの作品の中でも突出した秀作で、古典的伝統に従いながらもロマン的情緒に溢れている。1853年はクララの最後の創作期で、作品20から23までが一気に書かれた。《6つの歌曲》op. 23では、歌とピアノの旋律が独立し、伴奏のリズムも非常に多様的である。
クララは常に自分の創作能力に自信を持てずにいた。それは、女性が作曲家として名を馳せることに冷ややかであった当時の社会にも起因している。1839年1月のクララの日記には、次のような記述が見られる。「私は、自分に創造的才能があると思ったこともあった。しかし、この考えはもう諦めた。女は作曲したいと望んではならないのだ。それができた女性は一人としていないのだから」。夫の死後、クララが作曲に打ち込むことはなかった。
作品(35)
ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ) (1)
協奏曲 (2)
ピアノ独奏曲 (14)
スケルツォ (2)
曲集・小品集 (4)
即興曲 (2)
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変奏曲 (4)
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カデンツァ (3)
ワルツ (2)
無言歌(ロマンス) (5)
リダクション/アレンジメント (2)
室内楽 (2)
無言歌(ロマンス) (1)