
解説:上田 泰史 (3191文字)
更新日:2011年5月13日
解説:上田 泰史 (3191文字)
十九世紀、ピアニストは専らピアノ音楽にしか関心を示さないということはまずあり得なかった。「ピアノの詩人」と謳われるショパンでさえ室内楽を楽しみ、オペラに出かけ、自らも室内楽や歌曲を手掛けている。程度の差こそあれ、当時のピアニストは一様に身近に鳴り響く様々な音楽に身を浸し、演奏技術、音楽的教養、作曲技術、教授法をバランスよく身に着けた音楽家であった。このバランスの良さという点において、ヒラーの右に出る同世代のピアニストは見当たらない。ヒラーから発せられた創造力のベクトルはあらゆる方向に長く延びている。演奏家としてはショパン、リスト、アルカンら当時最高の名手と並び称され、指揮者としてはヨーロッパ各地を巡り、作曲家としてはピアノ曲、交響曲、オペラ、室内楽、歌曲などあらゆるジャンルを追究し、教育者としてはケルン音楽院創設の指揮をとり自ら院長となった。ベルギーの手堅い音楽学者フェティスでさえ、自身の編纂した音楽家列伝のなかでヒラーを当代最高のドイツの音楽家として称揚するのを躊躇わなかった。しかし皮肉なことに、一言では語り尽くせないヒラーの豊かな創造力と広範な活動領域ゆえに、ヒラーが何者であったのか、その像がなかなか焦点を結ばない。 今日では専らショパンの友人として知られるヒラーだが、この巨人を一人の作曲家として評価する機会は未だに少ないのはそのためかもしれない。
1811年10月24日、フランクフルトの裕福なユダヤ人の家に生まれたヒラーは、まず地元の名高いピアニスト兼作曲家、アロイス・シュミットの下で学んだ。10歳でモーツァルトの協奏曲を弾いて注目を集めた神童は、メンデルスゾーンやモシェレスといった若きピアノの才士たちと知己を得る。向上心に駆り立てられてヒラーはワイマールを訪れ、フンメルの下で研鑽を積む。モーツァルトに手ほどきを受けた即興ピアニストにして、あらゆる音楽ジャンルで縦横無尽に作曲したフンメルの下で、ヒラーはピアノ演奏にとどまらない幅広い教養を身に付けた。ヒラーは記念すべき最初の出版作品《ピアノ四重奏曲》を師フンメルに捧げている。
1828年、彼は更なる成長を求めてパリに移住した。10代にして「博学のヒラー」の異名をとったヒラーは、初めはパリの王立古典・宗教音楽学校のオルガン教師という安定した職についたが、ヴィルトゥオーゾとしての自立を目指して作曲・演奏活動に専念するようになる。やがて30年代の初めにはカルクブレンナー、ショパン、リスト、アルカン、ヘラーらパリのピアノ界を彩るピアノ音楽の旗手の一団に加わった。殊に年の近いショパン、アルカン、ヘラーとは音楽について気兼ねなく話し合う親友となり、互いの存在に敬意を払って作品を献呈し合った。彼を賞賛したのは同世代の音楽家ばかりではない。パリ楽壇の権威ケルビーニやアレヴィ、マイアベーアやロッシーニといった宗教曲・オペラ作曲を代表する先輩たちもまた、ヒラーへの激励を惜しまなかった。ロッシーニの私的な夜会、あるいはパリの主要なホールで彼が奏でるピアノは、時にはあたかも歌のような旋律を、時にはオーケストラのような色彩豊かな音色を響かせたという。ピアノ独奏に加え、彼は積極的にパリの著名な弦楽器奏者たちと室内楽演奏に加わった。この経験は、彼自身の室内楽作曲に大きな実りをもたらすこととなったであろう。さらに、指揮者として彼はパリ音楽院ホールの舞台に立ち自作の交響曲や合唱曲を指揮し、音楽家としての多彩な能力をアピールした。
1836年、ヒラーは故郷フランクフルトのチェチーリア協会を指揮するために約7年に亘るパリでの生活に終止符をうった。これを機に彼の活動はいっそう国際的な色合いを強めていく。翌年には不成功に終わったもののミラノのスカラ座で自作オペラ《ロミルダ》が上演され、ライプツィヒではメンデルスゾーンの助力を得て自作オラトリオ《イェルサレムの破壊》が演奏された。後者のオラトリオはドイツとその近隣諸国の諸都市で好評を博した。1841年には再びイタリアに旅立ち、フィレンツェ滞在中に結婚し後には子どもにも恵まれた。再びローマを訪れたヒラーは、当時16世紀イタリア音楽の大家パレストリーナ研究の第一人者として名高いバイーニ神父に会い、彼の協力を得てイタリア合唱曲の歴史的なレパートリーを同地で上演するなど同地の音楽活動に積極的に参与した。
イタリア旅行からドイツに戻ったヒラーはライプツィヒに移り、1843年から44年にかけてメンデルスゾーンに代わってゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者を務めた。しかしその職も長くは続かず、今度はシューマンの住むドレスデンに移り、音楽アカデミーの指揮者となった。シューマンとヒラーが親交を結んだのはこのときであった。ヒラーに一目置いていたシューマンは、自身のピアノ協奏曲をヒラーに献呈している。1850年、彼はシューマンにアカデミーの指揮者を任せてケルン市の音楽監督の座に就いた。彼が余生を過ごすこととなるこの地で、ヒラーはメンデルスゾーンが創設したライプツィヒ音楽院に倣ってケルン音楽院を新たに創設する。それは作曲、楽器法、ピアノ演奏、音楽の歴史など音楽のあらゆる方面に深い洞察と見識を持ち合わせるヒラーにしか成しえない一大事業であった。彼の周囲には直ちにライネッケをはじめとする優れた音楽家・教育者が集まり、ほどなくして世紀後半のヨーロッパにおける主要な音楽学校に成長した。この学校はこんにちでもドイツの有名な音楽院として存続している。ケルンに住みながら彼は時折冬にパリを訪れアルカンら旧友を訪ね、また公衆の前で自作を披露した。だが、1870年に勃発する普仏戦争で、想い出深いパリと彼の祖国は引き離された。
ケルン音楽院院長を務めながら、ヒラーはピアノ演奏・指揮をするために各地へ赴いた。著名な音楽家たちが集う大規模なライン音楽祭では企画の中枢を担ったほか、ドイツの多くの主要都市の音楽祭にも招かれて指揮をとった。彼はドイツ内外への膨大な数の演奏旅行を通して比類ない名声を築きあげたが、とりわけモーツァルトをはじめとする古典的レパートリーの演奏者として評価が定まっていった。リストやヴァーグナーに代表される当時の前衛的かつ強烈な個性を前面に押し出す音楽家たちが活躍する19世紀後半にあって、一部の批評家や音楽家の中には、ヒラーのレパートリーを保守的と見なし、また一定の作曲スタイルを持たない没個性的な音楽家だとする者もあった。だが、世紀後半のドイツ楽壇における「保守⇔前衛」の図式を創り出す背景には多分に政治的な背景も絡んでいるだけに、現代の我々が彼の作品を聴くこともせず、単純に過去の消極的な言説になびいてヒラーを凡庸な作曲家と断ずるならば、それはヒラーという存在の本質を大きく捉え損なうことにつながる。というのも、確かにヒラーは精神的には古典に重きを置いているが、実際の作風は極めて柔軟で多様であり、17世紀から18世紀、同時代のスタイルを知り尽くし自在に利用し、時には古い形式の中に、才気走った独自の響きを織り込んでいるからだ。「博学のヒラー」のこのカメレオン的な創作態度が、却ってヒラーに一定の評価を与えることを困難にしてきた要因となっている。このことは18世紀と19世紀のスタイルを自在に操った師フンメルにも言える。若きヒラーはフンメルの中に将来の自分の姿、すなわち学者、即興演奏家、ピアニスト、作曲家の全ての素質を兼備する総合的音楽家としての自分を見出していたに違いない。
1884年、ヒラーは重い病に倒れ、音楽活動から退き翌年6月11日、教鞭をとっていたケルンで世を去った。没後、その過剰なまでに豊かな才能ゆえか、僅か数十年の間に急速に忘却の淵に追いやられた。
作品(89)
ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ) (2)
ピアノ独奏曲 (17)
ソナタ (3)
曲集・小品集 (17)
練習曲 (5)
カプリス (6)
種々の作品 (9)
ピアノ合奏曲 (5)
種々の作品 (4)
室内楽 (2)
室内楽 (9)