
解説:上田 泰史 (3372文字)
更新日:2011年5月13日
解説:上田 泰史 (3372文字)
1814年4月20日、テオドール・デーラーはナポリでドイツ人の家庭に誕生した。デーラーはプロイセンからナポリに移った父から音楽の手ほどきを受けていたが、ピアノを始めたのは7歳になってからだった。著しい才能を示した少年テオドールは、1825年、ナポリの劇場指揮者に赴任したドイツの音楽家ユリウス・ベネディクト(1804~1885)の目に留まり、数年間彼の指導を受けた。フンメル、ウェーバーの高弟として知られる師から、デーラーはピアノと作曲の両面で多くの養分を汲み取ったことであろう。10歳を過ぎるころには師の計らいで同地のフォンド劇場の舞台に立ち、自作の変奏曲、幻想曲を披露して多くの聴衆を感嘆させた。ナポリの神童としてデーラーの名はたちまち知れ渡り、ナポリ王の激賞を受けるに至った。彼は後に初期の大作《ピアノ協奏曲》作品7を、ナポリとシチリアを治めた両シチリア王の妃マリーア・イザベッラ・ディ・スパーニャに捧げている。ある時、ナポリを訪れたルッカ公カルロ・ルドヴィーコ・ディ・ボルボーネ(1799~1883)はデーラー親子に関心を示し、二人を自身の公国に招聘することにした。公爵は父を太子の家庭教師とし、息子テオドールには才能を伸ばすために必要な環境を与えた。
だが、公爵の期待に応えるために外国でさらに腕を磨こうと考えたデーラーは、父親と共にウィーンに移住することを決意した。
1829年、デーラーはリスト、タールベルクら多くの才人たちを受け入れていたチェルニー門下の一員となり、演奏技術、作品解釈について多くを学んだ。人一倍強い向上心を持っていたデーラーは昼夜を問わず熱心に勉強したため、勤勉の権化として知られる師チェルニーさえも彼を気遣って散歩に連れ出さなければならなかったという。さらに著名な理論家・作曲家のS. ゼヒターのもとで厳格なエクリチュールを学んだことで、彼のピアニスト兼作曲家としての下地はいっそう確実なものとなった。ウィーンでもヴィルトゥオーゾとして十全な成功を収めると、ルッカ公爵はデーラーの成長を心から喜んで、1831年、彼を専属の室内ピアニストに任命した。勉強に一区切りつけてルッカに戻ると、デーラーは多くの演奏会でセンセーションを巻き起こした。だが、彼はさらなる名声を夢見て1836年、ヨーロッパ各地を巡る演奏旅行に出発し、ベルリンをはじめドイツ各地で演奏、翌年にはイタリア各地を巡演した。
デーラーが多くのヴィルトゥオーゾの集うパリに到着したのは1838年のことだった。デーラーがパリの著名なピアニストの列に加わるのに時間はかからなかった。デーラーは知人の催すサロンでの演奏会に参加し、《ランメルモールのルチア》や《ウィリアム・テル》など人気オペラをモチーフにした自作の幻想曲を演奏し俄然ジャーナリズムの注目を集め始める。デーラーの活躍場所はやがてサロンからパリ音楽院ホール、オペラ座へと拡大する。同年4月、パリの音楽界をにぎわせていた同じチェルニー門下の名手タールベルクとともにヴァンタドゥール座の舞台に立ち、自作の幻想曲を演奏して喝采を浴びた。これに対しタールベルクの方は、話題の新作《ロッシーニの〈モーゼ〉に基づく幻想曲》作品33を演奏し当世一のヴィルトゥオーゾとしての威信を示した。デーラーは《アンナ・ボレーナ幻想曲と変奏》作品17に代表される技巧的な演奏会用作品を書く一方で、多くのサロンピースを出版し、大衆から高い支持を得た。当時格式高い音楽サロンを開き多くの芸術家たちに多大な影響を及ぼしていたベルジオジョーゾ公爵夫人に捧げられた《ノクターン》作品24はその甘美で哀愁漂う旋律、タールベルクを思わせる華麗な技巧でヒット作となった。
39年、デーラーは更なる成功を求めてロンドン、オランダ、故郷のイタリアへと演奏旅行に出かけた。ロンドンで演奏した師ベネディクトのオペラによる《〈ジプシーの警告〉に基づく幻想曲》作品27(ベネディクトに献呈、1838)は、多種多様な手法で主題旋律を伴奏し、高度な技巧を駆使して変奏・展開する大作である。《演奏会用第大練習曲集》作品30(ベルリオーズに献呈)は、創作熱溢れる30年代を締め括る重要作に位置づけられる。
40年代初め、デーラーはベルギー、ドイツへと旅行に出かける。各地で成功を収めたデーラーは既に当代最高のヴィルトゥオーゾと目されるようになっていた。1843年5月、パリのイタリア座でフランツ・リストと二台ピアノ作品を含む演奏会が企画された。しかし、この演奏会はリスト側の都合でキャンセルされた。当時の音楽雑誌『ル・メネストレル』は、その原因がリストの手の故障にあったという風説を伝えている 。幻に終わったリストとの一大スペクタクルの後で、デーラーは直ちに大がかりな演奏旅行に出かけた。
イギリス、オランダ、デンマークを経てロシア到着した彼は、リスト、ヘンゼルトら西欧のヴィルトゥオーゾたちを歓迎していたロシア貴族たちの歓待を受け、数年間ここに留まることとなる。彼はサンクトペテルブルクで既にピアニスト兼作曲家、教育者としてのキャリアを確立していたドイツのA. v. ヘンゼルトやフランスのレオン・オノレといった音楽家たちと交友関係を築き、多大な創作上の刺激を受けた。彼は前者に《3つのロシアの歌》作品60(1846)を、後者に《
モスクワでデーラーは有力な貴族エリザベータ・シェレメティエフ伯爵夫人の寵愛を受けるようになった。伯爵夫人はショパンからピアノのレッスンを受けたこともある音楽愛好家だったので、二人はすぐに意気投合した。彼らはやがて結婚を望むようになるが、皇帝ニコラス一世は身分の釣り合わない二人が結ばれることを快く思わなかった。これに落胆したデーラーは、ロシアを離れ一時イタリアに戻り、ルッカで公爵に一部始終を話すと、公爵は結婚を実現させるためにデーラーに男爵の称号を与え再び彼をロシアに戻した。公爵の計らいと交渉によって、1846年、デーラーと伯爵夫人の結婚はようやく実現した。その後デーラー夫妻はパリに移って旧友と再会し、47年に何度か演奏会に参加したが、パリに長くは留まらずイタリアに向けて出発し、ジェノヴァに数年住んだ。この地で、デーラーはヴェルディのオペラを初演したことで知られる著名なソプラノ歌手E. フレッツオリーニ(1818~1884)に以前書いたオペラ《タンクレーダ》のスコアを見せたところ上演したいという意向を示した。そこで彼はわざわざスコアをもう一部浄書したところ、彼女がロシアに移ることになったため上演の夢は断たれた。
デーラーは1852年、ジェノヴァからフィレンツェに移ってこの地に居を定めた。すでに職業ピアニストは辞めていたものの、作曲の手を止めることはなく原稿を出版社に送り続けた。1853年、作品番号付きの最後の作品《ナポリを見て死ね―ナポリの唄に基づく幻想曲》作品71が出版された。この作品が発表されたとき、パリの『ラ・ルヴュ・エ・ガゼット・ミュジカール』紙は「デーラー、ローマにて没す」という趣旨の誤報を出版 している。デーラーはいささか面喰って出版社に訂正を求める手紙を送ったが、この誤報は忍び寄るデーラーの死とあながち無関係ではなかった。手紙の中で、デーラーは持病が悪化しつつあることを告白している。
私はまだ生者の一員です、しかし、ああ!数年来、私の芸術にとっては死んだようなものです。背中の痛みを伴う神経症のために、私はいつも横になっているか、背中を何かで支えていなければならないのです[…]。
1 Le Ménestrel, l5 mars 1843.
2 La revue et gazette musiale, 13 nov. 1853.
数年間、彼はこの苦しみに耐えたが、病は改善することなく彼の体を蝕んでいった。1856年2月21日の朝方、デーラーは妻を残し42歳の人生を終えた。彼は多くの作品を手稿のまま遺したとされ、没後、その内の幾つかは遺作として出版された。
デーラーの作品は今日全くと言って良いほど演奏される機会がなく、彼の名前自体もショパン、リストの同時代人として時折、研究書の中で言及されるにすぎない。
作品(89)
ピアノ独奏曲 (16)
ロンド (7)
曲集・小品集 (9)
幻想曲 (14)
変奏曲 (9)
ノクターン (14)