
解説:上田 泰史 (2968文字)
更新日:2011年5月13日
解説:上田 泰史 (2968文字)
ピアニスト兼作曲家として活躍したショパンと同時代のポーランド人の殆どは、ショパンの影にすっぽりと覆われ、今日顧みられることがない。ウクライナ出身で、パリで活躍したA. ソヴィンスキ(1805~1880)、サンクトペテルブルクで教鞭をとったA. ゲルケ(1814~1870)、Ed. ヴォルフ(1816~1880)、日本を訪れたこともある当時の世界的ツアー・ピアニストA. de コンツキ(1817~1899)――。中でもヴォルフは経歴、作風がショパンと類似していることから、作曲家としては生前より影のように寄り添うショパンのドゥーブルとして見られる向きがあった。それ故か、ヴォルフは没後も正当な評価を受けることなく、作品番号にして330を超える作品ともども忘却の淵に沈んだ。
エドゥアール・ヴォルフは1816年9月15日、ワルシャワでユダヤ人の家庭に生まれた。父は優れた医師で、兄は父の職業を継いだ。姉のレジーナは後に二人の卓越したヴィルトウオーゾ、即ちヴァイオリニストのアンリ・ヴィエニヤフスキ(1835~1880)とピアニストのジョセフ・ヴィエニヤフスキ(1837~1912)の母となる。末子のエドウァールは始めザヴァツキという名の教師から音楽の手ほどきを受けた。 老教師の啓導によって音楽の道に進むことを決意したヴォルフは12歳の時にウィーンに出て、W.ヴュルフェル (1790~1832)の指導を仰いだ。ヴェルフェルはワルシャワ音楽院で教授を務めていたこともあり、ショパンにオルガンの手ほどきをしたことでも知られる。ウィーンで劇場の監督を務める劇場作曲家でピアニストとしても名高いこの大家の下で熱心にピアノの腕を磨き、ほどなく人々の注目を集めるようになった。ショパンは29年と30~31年にウィーンを訪れているが、恐らくヴェルフェルを通して二人は会ったことであろう。ショパンは31年、パリに向けて出発したが、ヴォルフは32年までウィーンに留まった。
1830年11月、ロシア帝国の支配に対して勃発したワルシャワ蜂起は失敗に終わった。悲しき故郷への想いを募らせたヴォルフは、革命熱の冷めやらぬワルシャワに戻り、ショパンの師でもあるJ. エルスネル(1769~1854)の下で和声と作曲の指導を受けた。交響曲、オペラ、宗教曲など多くの大規模作品の作者であるエルスネルの助言を受けながら、ヴォルフはヴェルフェルの下で培ったピアノ演奏能力と作曲技術を結びつけ、パリでヴィルトゥオーゾとしてのキャリアを積むことを夢見るようになった。
1835年、ヴォルフはショパンの後を追ってパリに到着する。ポーランドの亡命者に寛容なフランスの首都で、ヴォルフは音楽家のサークルに歓迎された。ヅィメルマン、エルツ、ショパン、ヒラー、リストを始めピアノ界の重要人物たちと知己を得たヴォルフは、30年代の後半に著名なピアニストの列に加わることができた。一躍時のピアニストとなったヴォルフはシュレジンガーを始め幾つかの出版者と契約し、驚くべき速度で作品を出版し始め、続く10年間の間に作品番号は100を超えた。パリ到着頃の作と思われる《3つの無言歌》作品11(c.1835)で既にショパンと共通点の多い語法を確立したヴォルフは、ノクターンやマヅルカを書く傍ら、タールベルクにも深く傾倒し、《ベルリオーズの〈ベンヴェヌート・チェッリーニ〉の想い出―華麗なカプリス》作品28(c.1839)など入念に練り上げられた華麗なオペラの主題によるパラフレーズを幾つも出版した。出版社に依頼されて書くパラフレーズや変奏曲は、多大な人気を博し多くの利益をもたらした。その一方、ヴォルフは《全長短調による前奏曲形式の24のエチュード》作品20(第1集:1839、第2集 :1840)、《スケルツォ》作品28(c.1839)、協奏曲形式による大作《演奏会用大アレグロ》作品39(c.1840、ショパンに献呈)などいっそうアカデミックな内容をもつ作品に取り組んでいる。このうち作品20と作品39はいずれもショパンの《24の前奏曲》(1839)、第3協奏曲とも言うべき《演奏会用アレグロ》作品46(1841)とほぼ同時期に出版されている。ヴォルフのこれらの作品が、いずれもショパンよりも僅かに早く出版されているのは興味深い事実である。
著名なヴィルトゥオーゾとして、ヴォルフは40年代の始め、友人のヴァイオリニストとベルギー、マインツを訪れ喝采を浴び、また国王ルイ・フィリップの夏の離宮があるノルマンディー地方にもしばしば足を運び、王族の御前で演奏する機会も得た。ジャーナリズムの注目を集め、十分な富と名声を得たヴォルフは1844年5月、ピアニストで教師のメラニー・マースと結婚し、旧2区のメール通りに居を定め、多くの生徒を抱えるようになった。作曲、演奏で安定した収入を得ていたので、彼はレッスン料のことは気にかけず弟子たちに惜しみない助言を与えたという。甥にあたるジョゼフ・ヴィエニアフスキを始め、彼の教えを受けた生徒たちはしばしば批評家たちの称賛を受けた。後年の弟子には、エマニュエル・シャブリエ(1841~1894)が含まれることをここで付け加えておこう。
ショパンが没した1849年ころから、ヴォルフは以前ほどジャーナリズムの注目を集めなくなる。大衆の趣味が大規模で華々しい作品から次第に気のきいたサロン用小品へと移行していくなかで、新しい作曲家たちが次々に名声をさらうようになっていった。次第に薄れゆくかつての栄光のなかで、ヴォルフはそれでも妥協することなく、激しい感情が波立つ《舟歌》作品159、瞑想的な《ショパン讃―夢想曲-ノクターン》作品169(1852)など質の高い作品を書き続けた。だが、自身が作曲家として正当に評価されないことを不満に思うと同時に、「月並み」な音楽家たちに対する苛立ちは心に収まりきらず、しばしば辛辣な批評となって彼の口から漏れ出し、多くの敵対者を生み出した。
輝かしい名声に包まれた前半生とは対照的にヴォルフの後半生は多くの悲しみに満ちていた。生前のヴォルフを知るパリ音楽院教授マルモンテルによれば、ヴォルフはある時期に胃がんを患い、食後には耐えがたい苦しみを味わっていた。彼は食べ物を口にすることを恐れるようになり、多くのストレスを抱えるようになる。さらに追い打ちをかけるように、妻との性格の食い違いから結婚生活は破綻し、精神的にきわめて苦しい日々を余儀なくされた。1871年、ショパンと共に彼の心を支えていた音楽家タールベルクの訃報に接し、ヴォルフは心を痛め《涙―タールベルクの墓碑に寄せる哀歌》作品300を亡き心の師に捧げた。
次第に孤立していく中で、ヴォルフの活動を支えてきたピアノ製造者エラール、ヴォルフと固い友情で結ばれていた出版社デュランの共同経営者シェーネヴェルクらは彼のかけがえのない仲間だった。だが友人たちの献身にもかかわらず、彼の病は悪化の一途を辿った。1880年、自身の最期が近いことを悟ったヴォルフは白鳥の歌《孤独!―詩的な想い》作品333をシェーネヴェルク=デュラン社に託し、10月16日、メール通り14番の自宅で息を引き取った。
解説 : 金澤 攝
(316 文字)
更新日:2010年1月1日
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解説 : 金澤 攝 (316 文字)
ショパンと同じようにポーランド出身でワルシャワでヨゼフ・エルスナー、ヴィーシでウェンツェル・ヴェルフェルに学び、パリへ移住したピアニスト・コンポーザーにエドゥアール・ヴォルフがいる。彼の姉、レジーナは名ヴァイオリニスト、ヘンリーク・ヴィエニヤフスキー(1835-1880)の母である。ヴォルフはショパンの側近の一人であり、相互の影響感化は大きいがそれ以上に同じ出自と経歴ゆえの共通性があり、ショパンとは光の影の関係になぞらえよう。1835年パリ移住。ヴォルフは後年シャブリエのピアノの師となるが時折見せる唐突な転調・展開はシャブリエを予見させるものがある。Op.番号にして333を数えるピアノ曲があり、その他Op.なしの作品も多い。
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