プロコフィエフ 1891-1953 Prokof'ev, Sergei Sergeevich
解説:山本 明尚 (6105文字)
更新日:2019年6月25日
解説:山本 明尚 (6105文字)
出生と学習期、楽壇デビュー(1891〜1917年)
セルゲイ・プロコフィエフ(セルゲーイ・セルゲーエヴィチ・プロコーフィエフ)は、1891年4月11日(新暦23日)、ロシア帝国南西部(現在ウクライナ東部)のソンツォーフカに、裕福な出身で農学者の父と、農奴出身だが音楽教育を受けた母との間に生まれ、広大な平原と豊かな自然の中で育つ。母から音楽の手ほどきを受け、5歳のときには初めて作曲を試みる(その時の作品《インドのギャロップ》は現存している)。さらには、両親に連れられてモスクワで観たオペラ(特にグノーの《ファウスト》が印象に残ったそうである)に感化され、1900年にはオペラ《巨人》を作り上げるに至る。その後、少年セルゲイの才能を高く評価したタネーエフの紹介により、1902〜3年に、当時若手作曲家で、のちにキエフ音楽院院長、モスクワ音楽院教授を務め、ソヴィエトを代表する作曲家の一人となるレインゴリト・グリエールがソンツォーフカを訪れ、プロコフィエフ家に夏の間滞在し、家庭教師として基礎的な和声法、形式論、楽器法とピアノを指導した。この教育課程で、プロコフィエフはヴァイオリン・ソナタやピアノ・ソナタ、歌曲、習作集《小歌集》などを作り上げた。特に、《小歌集》は1902年の第1集から、最終的に1906年の第5集まで60曲にも及び、初期のプロコフィエフの創作の全体像と道程をたどる上で重要な資料である(惜しむらくは、現在に至るまでそれらが一部しか出版されていないことだ)。この時期の楽曲のいくつかには、数年後に作曲された楽曲へと主題が転用されたものもある。例えば、ヴァイオリン・ソナタの冒頭は、チェロとピアノのための《バラード》作品15へと借用され、《小歌集》第6集より〈行進曲〉(1906)は改作され、作品12の《10の小品》に収められた。
1904年から1916年まで、サンクト・ペテルブルク音楽院で、作曲科、ピアノ科、指揮科、オルガン科(修了せず)の4つの学科で学ぶ。アナトーリイ・リャードフに和声と対位法、ニコラーイ・リムスキー=コルサコフに楽器法、ヤーセプス・ヴィートリスに形式法、ニコラーイ・チェレプニンに指揮、アンナ・エシポヴァにピアノ――今日でも名前がよく知られた教授陣が少年セルゲイの教師となった。無論、気鋭の作曲科志望の若者によくあることだが、教師陣との関係は常に良好というわけではなかったという。
この学習期には、彼の今後の人生に大きく影響を与える出会いもあった。例えば、この時期に学友となり、生涯の友人となった人物の中には、27曲の交響曲、作曲教育活動でソヴィエト音楽史に燦然と名を輝かせることになる作曲家ニコラーイ・ミャスコーフスキイがおり、作曲家・批評家・音楽学者として、今日の東西の音楽学に広く影響を残したボリス・アサーフィエフ(筆名イーゴリ・グレーボフ)がいた。1911年には音楽評論家カラトゥィーギンらによって主催されていた「現代音楽の夕べ」に自作小品を携えて出演し、演奏家・作曲家として楽壇デビューを果たす。プロコフィエフは新進の現代作曲家として、多種多様な路線の作品を残す(新古典主義的な《シンフォニエッタ》や交響曲第1番(「古典」)、旋律に軸足をおいたヴァイオリン協奏曲第1番、大胆な書法を追求したピアノ小品やピアノ協奏曲第2番など)。
1913年、1914年の両年に、ジロティとクセヴィーツキーの二人が主催した演奏会で、プロコフィエフは自作演奏会を行い、その際バレエ・リュスで知られる事業家ディヤーギレフと出会った。その後プロコーフィエフは彼のために、バレエ《アラとロリー》(ディヤーギレフにより却下)、民話を原作とした《7人の道化師をだました道化師の物語》を作曲し、そしてドストエフスキー原作によるオペラ《賭博者》の作曲を試みた(未完に終わる)。
国外期(1918〜1935年)
革命後、プロコフィエフは教育人民委員を務めたルナチャールスキイからの「あなたは音楽における革命家で、我らは生における革命家です、一緒に働かなくては」、という引き止めを振り切り、許可のもとロシアを去る。1918年5月にシベリア鉄道に乗ると、日本を経由してアメリカに渡り、ピアニスト・作曲家として活発に仕事を続けた。彼の日記には、変わりゆく祖国に絶望し、いわゆるアメリカン・ドリームを夢見る若者の姿が見て取れる。「アメリカへ行く! もちろんだ! ここ[訳注:ロシア]は無気力、あちらは生が滾っている。ここは虐殺と戯言、あちらは文化的な生活。こちらはキスロヴォツク[訳注:ロシア最南西の保養地]での残念なコンサート、あちらではニューヨーク、シカゴだ。躊躇はない」(1917年12月の書き込みより)。その後、1922年からベルリンに移り、翌年からパリで暮らし始める。この国外生活中に、プロコフィエフは大規模作品・舞台作品を多く手がけるようになり、交響曲第2番〜第4番、ピアノ協奏曲第3〜5番、オペラ《3つのオレンジへの恋》、《炎の天使》、バレエ《鋼鉄のステップ》、《放蕩息子》、《ドニェプル川の岸辺で》を書き上げた。
また、私生活では、1923年にカロリーナ(リーナ)・コディーナと結婚し、翌年の2月に長男が生まれるなど充実した側面があった一方で、音楽の手ほどきをしてくれた母が長く患い、1924年の12月に世を去った。これらはプロコフィエフに「少なからぬ影響」を及ぼしたという。
1927年、1929年、1932年にソ連へコンサート旅行で一時帰国し、母国の人々に熱狂的に受け入れられると、1932年にソ連の市民権を獲得し、翌年ソ連邦のパスポートが発行され、1935年には家族が揃って完全帰国した。1932年からはソ連国内からの委嘱も受けるようになり、映画音楽《キジェー中尉》や付随音楽《エジプトの夜》が作曲された。
ソ連帰国後(1935〜1948年)
ソ連に帰国したのちまもなく、プロコフィエフは熱心に作曲を続け、様々なジャンルで今日でも頻繁に演奏される名曲を残した。そのような曲として、「戦争ソナタ」と我が国で呼ばれているピアノ・ソナタ第6〜8番、交響曲第5番、バレエ《ロメオとジュリエット》、朗読を伴う《ピーターと狼》が挙げられよう。帰国後の作品のなかで興味深いのは、ソヴィエト当局に寄り添うような作品である。ラジオからの委嘱を受けて創作された、マルクス、レーニン、スターリンをテキストとする《十月革命20周年に寄せるカンタータ》(1937)、スターリンの60歳の誕生日を祝うカンタータ《乾杯》(1939)などといった作品は、以前には作曲されえなかった、この時期特有の作品であると言えよう。また、先述の《キジェー中尉》を含む映画音楽、劇付随音楽は、この時期に初めて書かれたもので、特に映画音楽は以後盛んに書かれた。その中では、エイゼンシテイン監督作品《アレクサンドル・ネフスキー》(1938)や《イヴァン雷帝》(1942〜45)がよく知られている。オペラも継続的に制作され、カターエフによる小説「私は勤労人民の息子」に基づく《セミョーン・コトコー》、アイルランドの劇作家シェリダンの作品による《修道院での結婚》、トルストイ原作による大作《戦争と平和》が書き上げられた。
ソ連国内の名演奏家ともコラボレーションし、ヴァイオリニストのオイストラフやピアニストのオボーリン、リヒテル、ゲンリフ・ノイガウス、チェリストのロストロポーヴィチらと親交を深め、ソ連国内でのプロコフィエフ作品は、しばしば彼らによって初演された。このような親交は、作曲者・演奏者双方の名声を高め、保つ縁でもあった。音楽界で単独最多を数える6度のスターリン賞受賞のうち、5度がこの時期に集中している(1943年、1946年前期に2賞、後期に1賞、1947年)ことからも、この時期にプロコフィエフはソヴィエト音楽の「古典」としての立ち位置を確立したということがわかる。
このような順風満帆な創作活動の一方で、私生活上のトラブルが起こったのもこの時期である。結婚生活に関しては、1941年にプロコフィエフは妻リーナと不和の末、家を飛び出していってしまった。その後彼は1940年に出会って親交を深めていたリブレッティスト、ミーラ・メンデリソーンと同居し始め、事実婚の関係になった。ミーラは夫のリブレッティストとして活動し、セルゲイの活動を家庭の面からも仕事の面からも支えた。健康面に関しては、1945年ごろから循環器系の病気を患い、創作活動に影響を及ぼすことになる。
「ジダーノフ批判」、晩年(1948〜1953年)
1948年、プロコフィエフの親友ミャスコーフスキイの弟子に当たる作曲家ヴァノー・ムラデーリによるオペラ《偉大なる友情》をきっかけとして、音楽における当局公式の激烈な形式主義批判キャンペーンが沸き起こった。「ジダーノフ批判」として知られるこの出来事は、プロコフィエフの創作活動にも痛烈な一撃を浴びせた。「正しくない傾向」、「反民族的形式主義」のレッテルを貼られた作曲家のなかに、プロコフィエフの名があった。交響曲第6番、「戦争ソナタ」の三部作といった最新作に加え、過去の「ブルジョア的モダニズムの例」として、交響曲第3番、第4番、ピアノ・ソナタ第5番やピアノ協奏曲第5番といった作品が、不道徳であるとしてやり玉に挙がった。これらの作品は、演奏家らの「自己検閲」の結果、実質的にレパートリーから外れてしまった。また、公式的にもピアノ・ソナタ第6番や《十月革命20周年に寄せるカンタータ》などの7作品が演奏禁止とされた。
以後の5年間のプロコフィエフの創作活動は、晩年にあって、新たな表現様式の模索に宛てられていたと言っていいだろう。明白な旋律性、明瞭に聴き取れる調性や、薄めの楽器編成などが、この時期の作品に共通して見られる特徴だろう。特に、交響曲第7番やピアノ・ソナタ第9番は、場合によっては陳腐になってしまうそれらの特徴を、芸術的水準に引き上げた記念碑的作品と言えるだろう。
完成された最後の新作としてバレエ《石の花》とチェロと管弦楽のための交響協奏曲を書き上げたのち、1953年3月5日、プロコフィエフは、奇しくもスターリンと同日に脳出血で死去した。没後、《石の花》と交響曲第7番の二作品の業績を称え、7度目のスターリン賞の受章が賞委員会の間で議論されたが、結局スターリン賞の消滅により、1957年にレーニン賞を受章することとなった。
作風について
プロコフィエフの作風は、初期から晩年まで、たとえ同時期であっても多彩で変化に富み、何か一つの大きな特徴を見出すことは難しい。しかし、手がかりとして、プロコフィエフが1941年の自伝に示した、自らの作風に存在するとする5つの「路線」を、ここで参考に上げておきたい。その5つとは曰く、「古典的」、「革新的」、「トッカータ的/モーター的」、「叙情的」、「スケルツォ的」路線であるという。少々長くなるが、ここで彼の言葉をそのまま引用しよう。
第一の路線は、古典的路線である。これは、私が母からベートーヴェンのソナタを聴かされていた、ほんの幼少期に端緒をもつものである。これは、新古典的な形(ソナタ、協奏曲)をとることもあれば、18世紀の古典(ガヴォット、《古典交響曲》、《シンフォニエッタ》の一部)を手本にすることもある。第二の路線は、革新的路線である。[中略]まずこの路線は自らの和声言語の探求であったが、その後、強い感情を表現するための言語の探求(《きざし》、《絶望》、《悪魔的暗示》、《サルカズム》、《スキタイ組曲》、作品23の歌曲集や《賭博者》における多少の要素、《彼らは七人》、《五重奏曲》、交響曲第2番)へと変化した。この路線は第一に和声言語に関係しているが、ここには旋律のイントネーション、管弦楽法やドラマツルギーにおける新機軸も関係している。第三の路線は、トッカータ的路線、あるいは、強いていうならば、モーター的路線である。おそらくこれは、当時私に大きな印象を与えてくれたシューマンの《トッカータ》から来るものである(《練習曲》作品2、《トッカータ》作品11、協奏曲第2番のスケルツォ、協奏曲第5番のトッカータ、《スキタイ組曲》の再現部の圧搾的反復音形、《鋼鉄のステップ》や、協奏曲第3番のパッセージにみられる)。この路線はおそらく、この中で最も意義のないものであろう。第四の路線は、叙情的路線である。この路線は叙情的・内観的路線として現れるものである。[中略]これの路線は全く注目されていなかったか、あるいはあとになってようやく注目されたものだ。長年の間、私は叙情性には関係ないとみなされ、またそれを奨励されない存在であり、この路線はゆっくりと発展していった。とはいえ、私は最近叙情性によりさらに注意を払うようになった。
私はこの4つの路線に限定したくはない。そして5番目の、他人が私にレッテル貼りをしようと尽力している「グロテスクな」路線を、いっそ、先述の路線の変形したものとして考えてみたい。何にせよ、私は嫌気が差すほどに使い古されてしまった「グロテスク」という言葉自体には反対である。フランス語の単語 “grotesque” の意義は、ここでは非常に曲解されている。私の音楽に適用する際には、この言葉を「スケルツォ性」という用語で置き換えることや、強いていうならば、それにグラデーションを与えてくれる3つのロシア語の単語に置き換えることを提案したい。すなわち、冗談、笑い、嘲りである。(『プロコフィエフ:資料・回想集(第2版)[ロシア語]』1961年、148〜149頁)
この記述は自叙特有の問題を孕んでいる。それは、「書かれる私」と「書く私」とがどれくらい隔たっているのか、筆者は過去の自分にどれほど脚色を加えているのかが確かめようもないという問題である。しかし、プロコフィエフとその作品を研究・解釈・演奏する上で、以上の言葉は重要な鍵、出発点となるだろう。
現状の研究状況について
プロコフィエフは、20世紀の大作曲家のひとりでありながら、学術的研究がそれほど進んでいるとも言えない。それは、彼が帝政ロシアから欧米へ、さらには社会主義国家ソヴィエト連邦へと住まいを移したことにより、国内外に重要資料が散在していることに起因している。その結果として、ソ連人、ロシア人による伝記研究には海外時代の情報が乏しく、一冊にまとまった書簡集もほとんど出版されていないという実情がある。一次資料で、今日最も重要なものは1907〜1933年まで彼が書いた日記(2002年)であろう。そんな中で、ロシアで出版された生誕125周年に寄せた記念論集(2016年)は、彼の生涯の諸局面に、一次資料を通て新たな光を投ずる論文集であり、今後の研究のさらなる進展に希望をもたせてくれる数々の新研究が収められている。
作品(54)
ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ) (1)
協奏曲 (6)
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ピアノ独奏曲 (10)
ソナタ (10)
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スケルツォ (1)
曲集・小品集 (18)
行進曲 (1)
性格小品 (3)
トランスクリプション (2)
室内楽 (2)
ソナタ (5)
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その他 (3)