
解説:野原 泰子 (793文字)
更新日:2007年7月1日
解説:野原 泰子 (793文字)
ロシアの作曲家。「管弦楽法の大家」として知られるように、色彩的で描写的な管弦楽法は、ロシア内外の近代作曲家たちに多大な影響を与えた。
軍人の家系に生まれ、幼少から音楽に親しんだ。サンクト・ペテルブルグの海軍兵学校に在学中、17歳の時に「力強い一団」の最年少のメンバーになる。海軍軍人としての職務の傍ら、歌曲や管弦楽曲などを発表してゆく。
71年にペテルブルグ音楽院の教授に迎えられ、作曲と管弦楽法のクラスを受け持つ(門下からは、グラズノフやストラヴィンスキー、プロコフィエフなど、多くの著名な作曲家が輩出される)。音楽院での最初の年月には、古典派をモデルとする室内楽曲やピアノ曲を書き続け、これまで疎かにしてきた伝統的な作曲技法を習得する。74年に軍務を退いて軍楽隊の監督に就き、指揮活動も開始。またロシア民謡の採集・編曲、グリンカのオペラの編集・出版などの仕事は、グリンカの和声法や楽器法を模範としたオペラ《五月の夜》や《ロシアの主題による弦楽四重奏曲》(79年)など、創作にも影響を及ぼす。
オペラ《雪娘》(81年)の完成後、自作の創作から遠のき、ムソルグスキーやボロディンの遺稿の補筆・完成に専心。こうした空白期を経て《スペイン奇想曲》(87年)、《シェエラザード》、序曲《ロシアの復活祭》(ともに88年)といった管弦楽曲の傑作が生まれる。
89年の《指輪》の上演に触発され、ワーグナーの管弦楽法を研究。以後の創作はオペラが中心になる。93年にチャイコフスキーが死去したことで、帝室劇場でのチャンスが訪れ、ほぼ一年おきにオペラの新作を発表。1905年、ロシア革命の発端となる「血の日曜日」事件に参加した学生を支持したため、教授を解任される。最後のオペラ《金鶏》は、専制政治の愚かさを風刺したプーシキンのおとぎ話に基づくもので、この台本をめぐり検閲局との軋轢が生じ、心労から狭心症で没した。
作品(36)
ピアノ独奏曲 (8)
曲集・小品集 (4)
変奏曲 (3)
ピアノ合奏曲 (4)
種々の作品 (6)
その他 (4)