ヘラー 1813-1888 Heller, Stephen

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解説:上田 泰史  ( 13954文字 )

更新日:2012年4月12日

今日、ヘラーは概して中級者向けの練習曲作曲家とみなされている。1840年代に出版された一連の練習曲作品45、46、47は学習の過程で時折用いられる教材として有名である。今日我が国でも《旋律的練習曲》作品45(全音出版社)が出版されている。近年では《前奏曲集》作品81、150、《孤独者の散歩》作品78、《ベートーヴェンの主題による33の変奏曲》作品130など、彼の主要作品を録音するピアニストも増えてきてはいるものの、日本では相変わらず馴染みのない作曲家としての地位にとどまっている。

しかし、19世紀中葉から彼が亡くなるまで、ヨーロッパ音楽界におけるヘラーの存在は想像される以上に際立っていた。当時、数多の主要な音楽家・批評家たちは、ヘラーへの賛辞を惜しまなかった。シューマンベルリオーズをはじめケルン音楽院の院長でライン音楽祭の元締めF. ヒラー、パリ音楽院ピアノ科教授マルモンテルル・クペといった音楽家たち、さらにはベルギーの音楽学者兼作曲家フェティス、ヴィーンの美学者ハンスリックのような著述家までもが、口をそろえてヘラーを称賛した。彼の作品はフランス、ドイツ、イギリスを中心に各地で出版され、各国の音楽院は世紀後半、ヘラー作品の演奏を生徒に推奨し、彼の名は広く人々の知られるところとなっていたのである。19世紀中葉、時代に芸術の頽廃を見ていたフェティスは、ヘラーの作品に多大な期待を抱いていた。彼は自身の編纂した事典で次のように述べている。

かつて芸術家たちはヘラーの作品に冷淡な態度を見せたが、それもすっかり消え失せ、あれらの作品のエディションは増加した。このことは、彼の作品が成功したということをはっきりと示している。いつか、派閥のさまざまな勢力が消え失せ、事の真価に判断をさせる日がくるであろう。その時、必ずや人々はヘラーがショパン以上に、ピアノの現代詩人だということに気づくことになるだろう。*1

ヘラーはドイツで教育を受け、パリで活躍した。この背景を踏まえたうえで19世紀のピアノ音楽界におけるヘラーの位置づけを端的に示すならば、ドイツとフランス双方の音楽的性質をバランスよく身に付けた作曲家ということになろう。一方ではひと世代前のフンメルベートーヴェンシューベルト、より近い世代のメンデルスゾーンやシューマンといったドイツ・オーストリアの作品に敬意を表し、変奏曲や性格的小品のジャンルにおいて彼らの楽想や形式を踏襲した。また他方では、パリ音楽院のマルモンテルやこの首都で活躍したショパンなどの作曲家と交わり、時に「フランス近代」のシャブリエドビュッシーさえ思わせる大胆で色彩豊かな書法を用いた。しかしながら、この両面性・中間性が却って後世のヘラーの評価を落とす原因になっているのかもしれない。もし彼の音楽をシューマンやショパンの亜流と評するなら、その評価は著しく公正性を欠くものである。確かに、彼はシューマンにもショパンにも、メンデルスゾーンにも作曲家として多大な敬意を払ったし、彼らの音楽を直接的・間接的に自作品にとりこむことを躊躇わなかった。だが、ヘラーの場合、これは単なる影響でもなければ独創性の放棄でもない。なぜなら、彼はショパンやシューマン、さらにはベートーヴェンを模倣するのではなく、彼らの作品を完全に消化したうえで、彼らと同じかそれ以上の水準で作曲を行ったからである。ヘラーは、ベートーヴェンの変奏主題を用いて自ら二つの大規模な変奏曲を書いている。ベートーヴェンの器楽作品が「芸術音楽」の最高権威だった19世紀、すでにベートーヴェン自身によって変奏された主題をあえて自ら変奏し出版することは、余程心構えのある作曲家でなければできることではない。だが、ヘラーは自由自在に過去の作曲家の着想を捉え、それを思いのままに扱うことができた。その着想は、彼の作品において時に直接的な引用となって、また時に独創的な楽想として現れている。

ヘラーの生涯

ヘラーについて詳しく書かれた日本語の文献は殆ど見当たらない。以下の伝記的な記述は、代表的なショパン研究者として知られるスイスの研究者J.-J. エーゲルディンゲルの著書『シュテファン・ヘラー―パリのあるロマン主義音楽家の手紙』Stephen Heller―Lettres d’un musician romantique à Paris(Flammario, 1981、未翻訳、以下SHと略)に多くを負っていることを断わっておく。

§1. 誕生と少年時代

「未来の伝記作者が私の生年月日を確定するために困難な調査を行うことを思うと、私は憐憫の情を抱かずにはいられない」*2― ヘラーは亡くなる三年前にこう書いている。彼は自身の誕生日を5月15日と認識していたが、生年については曖昧で、時によって13年と言ったり14年*3と言ったりしている*4。また、彼のよき理解者だったド・フォルベルヴィル親子への手紙では、15年生まれだとしている*5。こうした混乱を招いているのは、彼の出生記録が焼失しているためである。だが、J.-J. エーゲルディンゲルはヘラーが13年生まれであることを示す有力な二つの証拠をその著書のなかで提示している。一つはシュテファンとその両親の洗礼証明書である。この書類は1822年5月14日、「9歳の誕生日」の前日に作成されているという。ここから逆算すれば彼は1813年生まれということになる。もうひとつの資料は彼が子どもの頃に通っていたペシュトの学校の名簿で、1822年のときには9歳、23年には10歳と記されている。この名簿がヘラーの誕生日より前に作成されたのか、後に作成されたのかはエーゲルディンゲルの報告からは定かではないが、何れにせよ、この二つの資料から、ヘラーが13年生まれであると考えるのが妥当とみなされている。

ヘラーの出自は必ずしも音楽的な家庭ではなかった。彼の父は、ハンガリーのペシュトで毛織物商店の現金出納係を営むユダヤ人だった。彼には三人の娘があったが、ひとり息子のシュテファンに関しては弁護士になることを望んでいた。幼いシュテファンは1822年から23年に至る二年間だけペシュトのギムナジウムに通った。彼が終生最良の友とした音楽と読書に目覚めたのはそのころだった。学校の神父にオルガンの手ほどきを受け才能の片鱗を見せたシュテファンは、軍楽隊員のファゴット奏者とクラリネット奏者の下で音楽の基礎を学ぶこととなった。最初のピアノ教師はペシュトの有力な指揮者、作曲家のブロイアーFerenc Bräuer (1799-1871)だった。同時にヘラーは同地の著名なオルガン奏者、作曲家のチブルカAlajos Czibulka (1768-1845)に和声を学んだ。彼の才能は急速に開花し、1824年、11歳のときにF. リースのピアノ協奏曲を師ブロイアーの指揮で演奏するまでになった。早くから神童ぶりを発揮したおかげで、彼はベートーヴェンから《熱情ソナタ》作品57を献呈された熱烈な音楽愛好家フランツ・フォン・ブルンスヴィク伯のような有力な後ろ盾を得ることができた。ヘラーは後にこの伯爵に《ピアノ・ソナタ》第1番(Leipzig : Kinster, 1839)を献呈している。39年に出版されたこの作品で、彼はシューマンに指摘された対位法の未熟さを克服し、ポリフォニックな書法と同時代のピアノの演奏技法を用いて新たな境地に足を踏み入れている。

父はシュテファンにいっそう高度な音楽教育を受けさせるために優れた音楽家が集うウィーンに移る決心をした。かくして1824~25年ころ彼らはウィーンに到着し、三年に亘る滞在期間の内に、三名の教師に師事することとなった。彼はまずベートーヴェンの高弟でリストタールベルクデーラーといった一流のピアニストを教えたチェルニーに教えを請い、半年間ベートーヴェンのソナタ二曲だけを勉強したという。次に彼が門を叩いたのはハルムAnton Halm(1789-1872)だった。このピアニスト兼作曲家の下で、二年間、ヘラーはピアノにかじりついてヴィルトゥオーゾのテクニックを磨いた。ベートーヴェンの知人だったハルムの下で、ヘラーはこの巨匠の作品に広く接する機会を得たであろう。ハルムはペシュトの神童に愛情を注いだ。ウィーン時代のヘラーを長期にわたって指導したのは彼だけである。のちにヘラーはハルムに敬意を表し《風俗的絵画》Tableau de genre op. 94を献呈している。ヘラーは続いてシューベルトの友人でヴァイオリニスト、ピアニストのボクレットKarl Maria von Bocklet(1801-1881)の下で数カ月間だけ指導を受けたが、彼はヘラーの初期の作曲の試みを評価せず彼を落胆させた。それでも音楽への意欲を失わなかったヘラーは音楽理論の大家でブルックナーらを指導したゼヒターSimon Sechter (1788-1887)に師事しようとしたが、結局謝礼が払えないためにこれを断念した。

ウィーン時代、長時間に亘りテクニック上の訓練に没頭したヘラーにとって、この都市で出会う音楽家や演奏会は何よりの慰めとなった。彼は晩年のベートーヴェンやシューベルトに会うこともあったし、ベートーヴェンの交響曲やモーツァルトの弦楽四重奏、イタリア・オペラが一流の奏者によって演奏されるのをたびたび聴く機会があった。ヘラー自身も1827年と28年に二度、一流の聴衆を前に演奏した。当時の慣例に従って彼は演奏会で即興演奏を披露したが、これによってヘラーは首尾よく評判をとることができた。

§2. ヨーロッパ・ツアーとアウクスブルク時代(1830年代)

シュテファンが十分に成長したと考えた父は、息子をペペシュトに呼び戻してヨーロッパ・ツアーに乗り出した。その行程はハンガリーの町をめぐり、次にクラクフ、ワルシャワなどポーランドの諸都市を経てドイツ中部と北部の都市に至るというもので、少年シュテファンにとっては二年半に及ぶ大旅行となった。ヘラーは演奏会を開いたワルシャワでショパンと知り合った。ヘラーはワルシャワの演奏会で、現在では行方不明となっているピアノ協奏曲を演奏した*6。各地の演奏会で、ヘラーはモシェレスやフンメルの協奏曲のほか、得意の即興を披露して衆目を集めた。旅の途中、ヘラーは体調を崩しながらも父の介抱によってなんとか持ち直し旅を続けた。彼はライプツィヒで最初の諸作品を発表する機会を得て《パガニーニの主題による変奏曲》作品1、序奏付きロンド《ハンブルクの魅力》作品2を出版した。いずれの作品にも、正確な和声と勤勉な練習によって獲得された敏捷な指の動きがはっきりと刻印されている。親子はライプツィヒからバイエルンへと南下し、1830年、終着地アウクスブルクに到達した。父はここに息子を残してペシュトに帰ってしまったが、それは常に父の監督下に置かれていたシュテファンにとっては音楽家としての自立を意味した。

この街でヘラーは8年間を過ごし、音楽家としてのアイデンティティーを固めていく。彼はフォン・ヘスリン=アイヒタール男爵von Hoeslin-Eichtal宅で男爵の息子のピアノ教師として住み込むことになった。男爵以外にも、ヘラーは芸術に造詣の深い貴族フッガーFriedrich Fugger-Kirchheim-Hoheneck伯爵(1895~1838)に気に入られ、彼の音楽や文学関連の蔵書を自由に閲覧させてもらえた。だが前世紀の趣味に根を下ろしていた伯爵は、ヘラーにモーツァルトやクレメンティのような曲を書くようにと注文を付けたので、若く野心に満ちたヘラーには少々悩みの種だったようである。1835年から36年にかけて、ケルビーニの弟子だったフランスのヴァイオリン奏者・指揮者・作曲家であるシュラールJean-Baptiste Chelard(1789-1861)がこの街にオペラを振りに来た時、彼はこの著名な音楽家と知り合い、作曲についての助言を受けることができた。

同じころ、すでにいくつかの作品を出版していたヘラーはシューマンの目にとまり、書簡を交わすようになった。彼はシューマンから「ジャンキリJeanquirit」(フランス語で「笑うジャン」Jean qui rit をもじった言葉で、ジャンとは詩人のジャン・ポールをさす)というペンネームをもらいアウクスブルクの音楽情報記事をシューマンの雑誌『音楽新報Neue Zeitschrift für Musik』に投稿するようになった。シューマンが主宰する紙面上の芸術家サークル「ダヴィッド同盟」の一員に迎えられたヘラーは、彼に熱心に手紙を書き送り、仲間の音楽家や互いの作品について語り合った。しかし、両者が直接会うことは終ついになかった。

1838年、ヨーロッパ中にその名をとどろかせていたパリのピアニスト兼作曲家カルクブレンナーがアウクスブルクに訪れた際、ヘラーは彼と共演する機会を得た。パリへの憧れを募らせたヘラーは、この都市出向いてあわよくばそこで演奏したいと思うようになった。同じころ、長く世話になったフッガー伯爵が没したこともあって彼はパリを訪れる決心を固めた。そして1838年10月、彼はヨーロッパの音楽の中心地に降り立った。以後、彼は亡くなるまでこの地に半世紀にわたって住み続けることになる。

§3. パリでの成功(1840年代)

パリに到着してから、ヘラーはおそらくカルクブレンナーの誘いで彼に弟子入りすることを考えた。カルクブレンナーは親切にも出版者シュレジンガーMaurice-Adolphe Schlesinger (1797-1871)を紹介してくれたが、ヘラーはカルクブレンナーの貴族気取りと傲慢で高圧的な態度が気に入らず、やがて師事する気を完全に失ってしまった。このパリの巨匠がショパン、ヘラーという二人の大家に背を向けられたことを考えると、カルクブレンナーのたち振る舞いには余程強烈な何かがあったのだろう。カルクブレンナーに弟子入りすることは、同時に輝かしい社交界デビューへの第一歩でもあったが、彼との関係を絶ったためにヘラーはパリでの最初の二年間、主にドイツ人音楽家のサークルに出入りすることとなった。ここでヘラーはヴァイオリニスト兼作曲家のエルンストHeinrich Wilhelm Ernst(1814-1865)やパノフカHeinrich Panofka (1807-1887)、ピアニスト兼作曲家のシャルル・アレCharles Hallé(1819-1895)、フランク兄弟(兄Albert: 1809-?; 弟Eduard 1817-1893*セザール・フランクとは無関係)そして時折顔を出すベルリオーズや詩人ハイネらと交流を深め、芸術家同士気ままに語り合い互いに演奏し語り合った。このサークルの芸術家たちにとって、ヘラーは頼もしい存在だった。古今の音楽に精通していたベルリオーズは、リストに宛てた手紙でヘラーをこう描写している。

厳格な才能、まことに該博な音楽的知識、素早い着想力、きわめて巧みな演奏、こうしたものは作曲家、ピアニストの美点なのだが、ヘラーをよく知る人は誰しもこれらを彼に認めているし、私もその一人なのだよ。(1839年8月6日, SH, p. 13)

彼はパリに着いてから作曲家としての自覚を強め、創作活動に本腰を入れ始めた。パリでの最初の成功作は《24の練習曲》作品16(翌年改訂版が《フレージングの技法》と題されて出版された)だった。これは中級者向けの練習曲だが、全調を網羅し、豊かな歌唱的旋律と多様な性格の曲が含まれているため、学習者や教師にとってまたとない教材として広く受容された。名声を次第に高めていったおかげで、彼は出版者からの依頼に応じて人気のオペラを題材にしたロンドやカプリース、即興曲を書き、作曲家としての仕事にありついた。作品17から作品20番台にかけては、ドニゼッティやアレヴィ、ルベールらの人気オペラに基づく作品がずらりと並ぶ。1840年にフェティスとモシェレスが編纂したピアノ・メソッドに提供したスタッカートの練習曲がドイツで大変人気になったので、出版者は独立した作品として出版するようヘラーに要請し、《狩り》作品29として出版されることになった。また、1842年にはパリとベルリンで楽譜商を営んでいたシュレジンガーがシューベルトの歌曲《鱒》などを題材にした作品を依頼し、それらが作品33~36として翌年出版された。

1840年ころ、ヘラーは先のドイツ音楽家サークルでド・フロベルヴィルProsper-Eugène Juet de Froberville(1815-1904)という青年に出会い、懇意になった。彼の母ウジェニー・ド・フロベルヴィルはパリで輝かしいサロンを取り持っていて、ヘラーは彼の仲介でそこに出入りするようになった。夫人はヘラーを大変可愛がり、1841年の夏、パリの南西に位置するブロア地方のプレシス-ヴィルルエに所有していた邸宅にヘラーを招き滞在させた。夫人は読書家のヘラーに自宅の蔵書を開放したので、彼は古今のフランス文学に触れることができた。ド・フロベルヴィル家での生活を通して、ヘラーはフランス的思考・精神、振る舞いを身に付けた。のちに彼は夫人へこう書き送っている。

あのときの時間は私の人生全体に大きな影響を与えました。[…] 私が、真の美的感覚についての正確な基礎的知識、高貴で気取らない上品(エレガンス)さを学んだのは、まさにあなたの家においてでした。(SH, p. 295, 1858. 9. 24)

パリに到着した当初、いささか傲慢なピアノ貴公子カルクブレンナーにみたネガティヴな都会的ブルジョアのイメージを、フロベルヴィル夫人は前向きなものへと変えてくれたのだった。ド・フロベルヴィル親子に親しみと感謝をこめて、ヘラーはヒット作《狩り》作品29(夫人に献呈)などいくつかの作品を献呈している。ウジェーヌのほうも、ヘラーへの敬意と友情から、彼の名を楽壇に広く知らしめようと1841年11月にRGM紙のためにヘラーの伝記記事を執筆してくれた。

このころからヘラーは新聞閲覧室を兼ねたカフェに通い熱心にパリの定期刊行紙を読みあさり、言語、思考の両面でフランスに溶け込んでいった。ヘラーの安らぎの場であったドイツ人芸術家のサークルは、アレやウジェーヌらメンバーが結婚していくにつれ次第に活気を失っていったが、ヘラーはもはやフランスの生活に溶け込み、ドイツの古典的伝統と七月王政下のパリ特有の進取気性を併せ持つ音楽家として個性を確立していた。彼が備えたドイツとフランス双方の気質は、そのまま彼の個性として人々の目に映った。リストやタールベルクのような華々しいヴィルトゥオーゾというよりはむしろ堅実かつ創造力豊かな作曲をするピアニストというのが彼に対する評価だった。ある雑誌記者はヘラーの美点を次のように指摘している。

シュテファン・ヘラーは今日のすぐれたピ・ア・ニ・ス・ト・兼・作・曲・家・の一人だ。とはいっても、演奏家として広告に出るような芸術家ではなく、作・曲・家・兼・ピ・ア・ニ・ス・ト・としての当然の名声を手にした芸術家のひとりなのだ。過去の大家[モーツァルト、クレメンティ、ベートーヴェンといったドイツの作曲家をさす]たちとその厳格な様式に対する称賛と尊敬を公言しながらも、彼は突飛で大胆で独創的な着想を持っている。(ルヴュ・エ・ガゼット・ミュジカル紙 [以下RGM], 1843. 11. 19、傍点引用者)

ヘラーの作品の支持者は次第に増えていった。1844年、画家で筋金入りの音楽愛好家ローランJean-Joseph- Bonaventure LAURENS (1801-1890) は、モンペリエの町でふと目にしたヘラーの《24の練習曲》作品16に感銘を受け、手紙を書き送りヘラーと知り合いになった。以後彼らの友情は生涯続き、ローランは音楽雑誌で友の作品を紹介したり、その肖像を描いたりした。ヘラーのほうも《30の段階的練習曲》作品30(Paris : Troupenas, 1843)をローランに献呈している。1845年、ヘラーはこの作品30を《〈フレージングの技法〉[op. 16]への導入に用いる25の練習曲》作品45を出版したが、これは今日、《旋律的練習曲》として日本でも出版されている。この時期、ヘラーは教育的作品に加え《セレナード》(Paris :Brandus et Cie, 1846) 作品 56のような抒情的で劇的な性格的作品を発表した。

1849年11月から50年の8月にかけてヘラーはイギリスを訪れ演奏とレッスンに勤しんだ。このころからヘラーの創作は最盛期を迎える。47年に着手したとみられる*7大作《ソナタ》第2番の出版(Paris :Brandus et Cie, 1849)は、その規模ゆえに出版者をたじろがせたものの、続く20年の円熟期の幕開けとなった。ショパンの死(1849)を悼んで書かれた彼の前奏曲(op. 28-4)や練習曲(op. 10-1)を素材として作曲された大規模な変奏曲《フレデリック・ショパンの魂に―哀歌と葬送行進曲》Aux mânes de Frédéric Chopin: élégie et Marche funèbre op. 71(Paris, c.1850)、その前後に出版されたメンデルスゾーン作品を素材とした一連の作品、先人の慣例にならった全調による24の《前奏曲集》Préludes op. 81(Paris: Brandus et Cie, 1853)が50年代の主な成果である。先輩作曲家から主題を借りて作品を構築することは無論ヘラーのネガティヴナな作曲態度を示すのではない。ヘラーは彼らの素材から自身に可能なあらゆる楽想を引き出している。一つの作品を作ることができた。それはむしろ、ヘラーが彼らと同じ水準で作曲を行っていたことの証なのである。これらの作品は1846年にシュレジンガーを買収してできた出版社ブランデュ・エ・シBrandus & Cieのほかに51年にパリに店を構えたマオーJ. MAHOを窓口として出版された。

§4. 国際的名声の確立と作曲家としての円熟 (1850年代~60年代)

1850年代から60年代にかけて、ヘラーは音楽界に大きな潜在的影響力をもつようになった。パリ音楽院をはじめとして、ベルリン、ライプツィヒ、ヴィーンの音楽教育機関ではヘラー作品を生徒に推奨するようになった。ナポレオン三世統治下のパリでは、音楽院は生徒にドイツ・オーストリアの「古典音楽」の演奏を推奨する保守的傾向を帯び始めていた。次第にその傾向を強める音楽院で、ドイツの伝統的書法と同時代のピアニズムを調和させたヘラー作品は「現代の古典」として歓迎されたのである。パリ音楽院でピアノ科男子クラスを受け持つマルモンテルAntoine-François MARMONTEL (1816-1898)、女子クラスを受け持つル・クペFélix LE COUPPEY(1811-1887)は、ヘラーに多大な敬意を払い、生徒を集めてヘラーの作品だけを演奏する夕べを催すことさえあった*8。ヘラーはこの二人に感謝をこめてJ.-J. ルソーの自伝的著作『孤独な散歩者の夢想』に霊感を受けた曲集《ある孤独者の散歩―6つの無言歌》Promenades d’un solitaire ― Six mélodie sans paroles op. 78(Paris : Maho, 1851)を二人に連名で献呈している。彼らのほかにも、ロシアの大家ルービンシテインAnton RUBINSTEIN(1829-1894)、ヤエルAlfred JAËL(1832-1882)、シューマン夫人Clara SCHUMANN(1819-1896)をはじめとする著名なピアニスト兼作曲家がヘラーの作品の擁護者となった。

1855年、ヘラーはベルギーに近いドイツの都市デュッセルドルフで催されるライン音楽祭に参加した。音楽祭を取り持っていた作曲家、指揮者、ピアニストのヒラーFerdinand HILLER(1811-1885)とヘラーの間には遅くとも1851年までには交流が始まっており*9、以後、ヘラーとは手紙を通して音楽について議論する親密な間柄となっていた。ヘラーは彼から晩年のシューマンの病を知らされ、若いころから多くを学んだ先輩をひどく心配している*10。このほか、この音楽祭を通してウィーンの批評家・美学者ハンスリックと知己を得た。「音楽の内容とは鳴り響きつつ動く形式に他ならない」と考え、言葉や演劇を音による芸術とを直接的に結びつけるヴァーグナーに敵対したこの人物は、専らピアノで音楽を書き続けたヘラー作品にたびたび好感を示した*11。その後、ヘラーは56年にスイスへ、57年の夏にはケルンをはじめ、ライプツィヒ、フランクフルトに足を運び演奏した。

1860年代、ヘラーはベルリオーズの友人でヴィオラ奏者兼作曲家のダムッケBerthold DAMCKE(1812-1875)を中心とした音楽家のサークルに加わるようになった。このサークルで、ヘラーはベルリオーズをはじめ、パリ音楽院教授のマサール夫妻、卓越した歌唱力を誇ったメゾ・ソプラノ歌手ヴィアルドPauline VIARDOT(1821-1910)らが集った。さらにパリを訪れる著名な音楽家、ヴァイオリニストのヨアヒム、未亡人となったピアニスト兼作曲家クララ・シューマン、それにモシェレス、ルービンシテインたちも時折このサークルに加わって演奏した*12。1862年の2月から5月にかけて、アレの呼びかけに応じてイギリス旅行に参加した。イギリスではすでにヘラーの作品は出版されていたし、大変人気になっていた。アレ、ヨアヒム、ヘラーの三人はリヴァプール、マンチェスター、ロンドンでヘラー作品やモーツァルトの協奏曲を共演した。周囲の音楽家と交流を深める一方で、彼の創作は外向的になるどころかいっそう内面的で洗練された世界へ向かっていった。《ノクターン第3番》3e Nocturne op. 103(Paris: Flaxland, 1862)のような作品において、書法はいよいよ透明度を増していく。一見簡素な音の並びの中には研ぎ澄まされた和声と控えめに用いられる同時代のピアノ語法が自然に同居している。一方、《ポロネーズ》Polonaise op. 104(Paris: G. Flaxland, 1862)はパリ風の明るく明快なスタイルで書かれているが、演奏技巧の誇張を抑えてベートーヴェン流に一つの主題で曲全体を構築し、引き締まった印象をあたえる。その他、《ファンタジー・カプリース》Fantaisie-Caprice op. 113(Mainz: Schott, 1865)、シューマンの同名の作品に想を得たと思われる《子どもの情景》Scènes d’enfans op. 124(Paris: Maho, 1868)はいずれも作曲家としての高みに達した1860年代の成果である。

§5. スイスでの創作活動と晩年(1870年代~80年代)

1869年のベルリオーズの死に続いて、普仏戦争という政治的な不幸がパリの音楽界を襲った。この戦争は、深い絆で結ばれた両国の音楽家たちの心を傷つけた。事態の悪化を見越したヘラーは70年9月3日、パリを離れスイスに避難し、湖畔の町ルツェルンに静かな一室を借りた。スイスではかつてパリのドイツ人芸術家サークルで一緒だったダムッケ夫妻、ヤエルと会い、夜に集まっては友人たちにベートーヴェン、メンデルスゾーン、シューマン、ショパン、そして自身の作品を聴かせた*13。スイスでの静かな時間はヘラーの霊感を研ぎ澄ませた。スイスのピアノ製作者から提供された「自分でも聴き分けられないほど音が小さい」*14ピアノに向かって創作に専念し、次々に傑作を生みだした。楽譜《ウェーバーの「魔弾の射手」による練習曲》Étude sur Freischütz de Weber op. 127、《ベートーヴェンの主題による33の変奏》33 Variations sur un thème de Beethoven op. 131、ベートーヴェン《熱情ソナタ》 作品57の第2楽章の主題を扱う《ベートーヴェンの主題による21の変奏》21 Variations sur un thème de Beethoven op. 133(Paris :Maho, 1872、左図はその表紙)をふくむ大規模作品を集中的に作曲することができた。

実り多い「避難生活」を終えパリに戻ったヘラーは、以前にもまして読書に耽り、親子ほども齢の違うエミール・ゾラやG. モーパッサンの新作にまで手を伸ばした。一方、彼が創作の手を休めることはなかった。ヘラー作品を熱烈に愛したポルトガルの伯爵にささげた《私の部屋を巡る旅―5つの小品》Voyage autour de ma chambre op.140(Paris: Maho, 1876)、シューマンの《幻想曲集》作品12の第3番〈何処へ?〉を素材とした大規模な《シューマンの主題による変奏曲》Variations sur un thème de R. Schumann op. 142(Paris: Hamelle c.1877)、《ピアノ・ソナタ 第4番》4e Sonate op. 143(Paris: Hamelle c.1877)を次々に出版した。当時パリ音楽院に在籍していたドビュッシーは、おそらくはマルモンテル教授の勧めで、このシューマン変奏曲 作品142を1878年の定期試験で演奏している。しかも、このとき、ヘラーは試験官として彼の演奏を聴いていたのだという*15

楽譜1880年代に入ると、ヘラーは知り合ったばかりの作曲家キルヒナーTheodor KIRCHNER(1823-1903)に《12のピアノ曲》作品51を捧げられた返礼として《20の前奏曲》20 préludesを出版し彼への返礼とした。このほかにも彼は《ショパン作品の演奏を準備するための21のテクニック練習曲》 21 études techniques pour preparer à l’exécution des ouvrages de Fr. Chopin (Paris, 1884)のような教育的作品、長らく自作品を出版してくれた出版者ブランデュに献呈した《お伽ばなし》Fabliau op. 155(Paris: Paris: Brandus et Cie, 1884)といった性格小品を出版した。1885年、彼は最後の出版作品となる《マズルカ》Mazurka op. 158(Paris: Maho, 1885)を仕上げた。だが、その時までに彼は目を患っており、正確に記譜することさえ困難になっていた(上は晩年の写真)。彼は旧友のアレにこう書き送っている。

[…]僕はちょっとした《マズルカ》[op. 158] を書くのに二カ月かかったよ、僕の記譜を修正してくれる音楽家に相も変わらず助けてもらいながらね。[…] 僕はうんざりしているよ、それは確かだ。僕はたくさんの苦しみを慰めてくれる愛しい書物が読めないんだ。うっとりするような時間を過ごさせてくれる交響曲や弦楽四重奏の愛しい楽譜たちにざっと目を通すこともできない。新聞も、細かい字の手紙も読めない。けれど少しだけ改善したこともいくらかはある。知らない人の顔つきが前より良く見分けられるようになったんだ。それに振り子時計の針もね。もっともそれはそんなに離れたところにあるわけじゃないのだがね[…]。(1885年3月4日、アレへの手紙、SH, p. 266)

ヘラーの容体は以後、劇的に改善することも、失明することもなく、亡くなる数カ月までアレに想い出や身辺の出来事をつづった手紙を交わした。

1888年1月14日、ヘラーはパリで息を引き取った。彼が1813年生まれだとすれば、ヘラーはすでに74歳と8カ月という高齢だった。彼の遺体は今もパリのペール・ラシェーズ墓地に眠っている。

*1 F.-J. Fétis, Biographie universelle des musiciens et bibliographie générale de la musique. vol. 4, Paris : Firmin-Didot, 1866-1868, p. 288.

*2 SH, p. 85.

*3 SH, p. 171. 1845年12月23日、フェティスへの手紙。

*4 SH, p. 268. 1855年7月1日、アレへの手紙で自分が「1813年または14年の5月15日」生まれだと述べている。

*5 SH, p. 85. ヘラーが生年に言及したこの親子あての手紙はSHには含まれていない。

*6 SH, p.218, n.

*7 SH, p. 181, ローランへの手紙。

*8 ル・クペが開いたヘラー作品演奏会については、ル・メネストレル紙(1858.12.12)、RGM紙(1858.11.28)、マルモンテル家での演奏会についてはRGM紙(1866 4.8)で報告されている。

*9 SH, p.299

*10 SH, pp.209-210, 1854年3月14日、ヒラー宛ての手紙。ヒラーはシューマンに直接会ったことはなかった。

*11 Ibid.

*12 SH, p.16

*13 SH, p. 233、1871年12月17日、ド・フロベルヴィル婦人への手紙。

*14 Ibid. p. 234

*15 SH, p. 23. Original source : Paris, Archives Nationales, AJ/37/286.

執筆者: 上田 泰史 
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解説 : 宮本 優美 (244文字)

更新日:2007年5月1日
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