
解説:上田 泰史 (1878文字)
更新日:2011年5月13日
解説:上田 泰史 (1878文字)
1812年1月8日、ジュネーヴに生まれる。モーリツ・ディートリヒシュタイン伯爵とヴェッツラー男爵夫人という高貴な身分の男女の落胤とされる。10歳でウィーンを訪れ宮廷オペラ楽団のファゴット奏者に手ほどきを受けたのち、作曲理論の大家S. ゼヒターと著名なピアニスト兼作曲家ヨハン・ネポムク・フンメルに師事。卓越した演奏技術を修得したタールベルクは、14歳のときにはサロンの寵児となり16歳で最初の作品を出版した。パリで最初にステージに立ったのは1834年のことである。1836年、彼はパリ音楽院ホールで演奏し、センセーションを巻き起こした。ジャーナリズムはリストと比較してタールベルクを称賛し、なかば意図的に両者をライバルに仕立て上げようとしたために、スイスに滞在していたリストはパリに駆け付けることとなった。二人の競争はやがて1837年、イタリアの亡命貴族ベルジョヨーゾ侯妃のサロンで行われた「決闘」に発展した。二人の「和解」を名目とした演奏会で、両者は華々しいオペラ・パラフレーズを弾き合い、侯妃は「タールベルクは最高のピアニスト、リストは唯一のピアニスト」と二人の健闘を称えた。
タールベルクの主な功績は、1830年代に一連の作品で示したピアノ書法の刷新にある。。とくに注目を集めたのは、左右の手が担う分散和音の間に、中音域の歌唱的旋律を配置する演奏法であった。下の譜例は彼のヒット作の一つ《ロッシーニの〈モーゼ〉に基づく幻想曲》 作品33(1839年刊)の一節である。○で囲った音が主旋律、その上方の細かい音符と下方の分散和音が伴奏である。
この書法は、批評家たちがしばしば指摘したように、あたかも三本または四本の手で弾いているかのような効果をもたらした。聴き手を幻惑させるテクニックは多くのピアニストの間で一つの主要なピアノ書法として定着し、これを用いる創造力豊かな音楽家、例えばフランスのE.プリューダンのようなヴィルトゥオーゾたちによって新たな生命が吹き込まれていった。この書法は、ドビュッシーやラヴェルの世代になると、ごく普通に活用されるようになる(ドビュッシー《版画》より〈塔)。
ベルギーの音楽理論家フランソワ=ジョゼフ・フェティス(1784~1871)によれば、この書法の革新性は、それまで別個の様式として存在した「華麗様式」と「歌唱様式」を統合した点にある。華麗様式は、主に右手が急速な音符を奏でる器楽的な様式であり、歌唱様式は、左手の伴奏の上で奏でられるカンタービレな旋律である。1830年代、ピアノは中音域が豊かに持続し、伸びやかな旋律を奏でられるようになった一方で、高音域は持続は短いが、輝きのある響きを獲得した。タールベルクの新しい書法は、華麗なアルペッジョとイタリア風の旋律を同時に響かせることによって、歌唱様式とオペラに特徴的なハープの模倣、そしてオーケストラのようなダイナミックな強弱法を同時に体現することができた。それを可能にしたのは、パリのプレイエルやエラールといった楽器製造者がもたらした、ピアノ開発へのたゆまぬ努力でもある。
1844年、著名なバス歌手ルイージ・ラブラーシュの娘と結婚する。タールベルクは1855年に大西洋を渡りアメリカ、ブラジル、キューバで演奏し成功を収めた。1858年にタールベルクは義父の領地であるナポリ近郊のポジリポに居を移し一時的に音楽界から身を引いた。1862年、再びパリでかつて喝采を浴びた数々の幻想曲を演奏し、翌年には再びブラジルへと演奏旅行に出かけた。数知れない演奏旅行を重ねたのち、彼は音楽界から完全に引退し、ポジリポでブドウ園を経営しワイン商を営み余生を送った。
ショパンに比べてオリジナル曲が少ないために、タールベルクはこれまで作曲家として十分に評価されてこなかった。だが、マルモンテルが指摘するように、オペラの主題による優れたパラフレーズを書くにも、主題の選択やその展開、序奏、経過部分を巧みに扱う才能が必要である。実際、タールベルクが確かな手腕と豊かな着想を持つ作曲家であったということは、今回演奏される《12の練習曲》作品26のほか、一曲の《ピアノ・ソナタ》作品56、《ピアノ三重奏曲》作品69、《バラード》作品76、そしてポジリポでの生活から霊感を得た珠玉の小曲集《ポジリポの夜会―ロッシーニ賛》作品75など、彼の数少ないオリジナル作品が物語っている。また、彼の《ピアノによる歌唱法》作品70は声楽曲の極めて堅実な編曲集であり、ヨーロッパの多くのピアノ学習者たちに親しまれた。
解説 : 齊藤 紀子
(925 文字)
更新日:2008年12月1日
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解説 : 齊藤 紀子 (925 文字)
■学習・師事歴/作品とその手法/ピアニストとしてのタールベルク
スイス生まれの作曲家。貴族の出だが、私生児として生まれたと考えられている。
10歳の時に、ウィーンで外交官になるための準備教育と共に音楽を学んだ。音楽の基本的な手ほどきをしたのは、宮廷歌劇場のファゴット奏者ミッタークである。音楽理論はジーモン・ゼヒターに、ピアノはフンメルに師事した。その後、パリにてJ.P.ピクシスとフレデリック・カルクブレンナーに、ロンドンにてモシェレスにも師事している。
2.作品とその手法
16歳の時に、最初の作品を出版している。ヴィルトゥオーゾの慣習に従い、自ら演奏するために、当時のオペラのアリアに基づくファンタジアを数多く作曲した。その際、メロディーはピアノの中音域に配置し、その上下に対位声部をおいたり和声づけを施す手法が多用されている。「10本の手をもつタールベルク」という戯画が残されているほど技巧に長じていた。しかし、タールベルクは大仰な演奏スタイルに偏重していたわけではなく、「ピアノによるベル・カント」を志向していた。オペラのアリアに基づくピアノ教育のための作品《ピアノによる歌の装飾技法》から、そのようなタールベルクの姿勢がうかがえる。
3.ピアニストとしてのタールベルク
14歳の時に、サロン・ピアニストとして成功を収めた。1830年には、ヨーロッパ各地を演奏して回っている。1830年代中ごろには、パリで成功と名声を得た。ヴィルトゥオーゾの1人として、リストと音楽上の敵対関係をもつようになり、音楽雑誌等で煽られたこともある。リストとの演奏対決はこの時代のヴィルトゥオーソにまつわるエピソードの白眉となっている。
なお、この二人はピクシス、エルツ、チェルニー、ショパンと計6人で、《ヘクサメロン変奏曲》を合作したことでも知られる。
1855年には、ブラジルとハバナも訪れ、アメリカ合衆国にも滞在。1860年以降は引退し、葡萄栽培などをして余生を過ごした。
■参考文献:WANGERMEE, Robert.
「タールベルク, ジーギスモント(・フォルテネ・フランソワ)」『ニューグローブ世界音楽大事典』茂木, 一衛(日本語訳),第10巻,313-314頁。
作品(80)
ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ)
ピアノ独奏曲
幻想曲 (23)
変奏曲 (14)
ノクターン (5)
カプリス (4)
★ 種々の作品 ★ (4)