解説:宮本 汀 (6673文字)
更新日:2026年7月26日
解説:宮本 汀 (6673文字)
ヨハン・ネポムク・フンメルは、18世紀末から19世紀初頭にかけて活躍した、プレスブルク(現スロヴァキアのブラチスラバ)出身の作曲家およびピアノのヴィルトゥオーソである。フランツ・ヨーゼフ・ハイドンやヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトに師事し、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンとは良きライバル関係にあった。当時は絶大な人気を誇っていたものの、作品が保守的であると見なされたため、没後はフランツ・リストなどの新しいヴィルトゥオーソ世代とベートーヴェンの革新性の陰に隠れることとなった。しかし、フレデリック・ショパンやロベルト・シューマンといった次世代の作曲家たちに多大な影響を与え、続くロマン派への架け橋となった人物であることは、再評価されるべきだろう。
1. 神童フンメル(1778~1792年)
1778年11月14日、弦楽器奏者兼指揮者のヨハネス・フンメルの息子として生まれたフンメルは、幼い頃から音楽の手ほどきを受けた。5歳の時点でヴァイオリンとピアノを演奏し、完璧なイントネーションで歌うこともできたと言われている。1786年に父ヨハネスがアウフ・デア・ヴィーデン劇場の音楽監督に就任し、一家はウィーンへ移ることとなった。この出来事が、フンメルの音楽人生に大きな影響を与えることとなる。ヨハネスは音楽監督に就任した際、アウフ・デア・ヴィーデン劇場を管理していたエマヌエル・シカネーダーと知り合うが、このシカネーダーは後にモーツァルトと《魔笛》K. 620で手を組む人物であった。そのような繋がりがあったからか、幼いフンメルはモーツァルトとの出会いを果たした。フンメルのピアノ演奏を聴いたモーツァルトは自宅にその少年を住まわせ、1788年までの2年間、無償でレッスンを行った。また《ドン・ジョヴァンニ》K. 527の初演に向けて、フンメルは音楽稽古やリハーサルに携わっていたともされている。多くの著名な音楽関係者がモーツァルトの自宅を訪れ、フンメルは彼らと接する機会が何度かあったが、その訪問者には台本作家ロレンツォ・ダ・ポンテやハイドンらも含まれていた。これらの貴重な経験は、フンメルのその後の作曲活動に多大な刺激を与えたと考えられる。
1787年、モーツァルトの監督下で初めての公開演奏会が行われたとされているが、この時期の証拠資料に矛盾があるため、未だ定かではない。しかし同年にモーツァルトの父レオポルトが亡くなり、モーツァルト自身の財政状況や当時の政治的不安が重なったため、1788年にフンメルは独り立ちを提案された。2年間にわたる住み込みのレッスンに終止符が打たれたのである。それによりフンメル父子は4年に及ぶ演奏旅行を行うこととなった。彼らはプラハ、ドレスデン、ベルリン、ハノーファー、ハンブルク、コペンハーゲンなど各地を周り、全体的に好評を得た。1790年春に父子はスコットランド・エディンバラに渡り、秋頃にロンドンに到着した。ちょうど同時期に、ザロモン演奏会に出演していたハイドンが同地に滞在しており、フンメルはモーツァルトの弟子としてではなく、プロの音楽家として彼との再会を果たした。ハイドンはそのザロモン演奏会にフンメルを何度か出演させ、フンメルもロンドンで初となる公開演奏会(1792年4月)でハイドンのピアノ三重奏曲変イ長調Hob.XV:14を演奏したという記録が残っている。同年5月にハノーヴァー・スクエア・ルームズで演奏会を行い、そこではモーツァルトのピアノ協奏曲と自作のソナタを演奏した。また、フンメルはロンドンに滞在している間、イギリスで活躍していたイタリア人の作曲家兼ピアニストのムツィオ・クレメンティからピアノの指導を受けており、彼のギャラント様式的な特徴(上声部の優位性や装飾の豊かさなど)を深く吸収したと考えられる。
2年間に及ぶイギリスでの滞在後、フンメル父子はフランスやスペインへ赴こうとしたが、1789年に勃発し混乱が続いていたフランス革命の影響により断念し、オランダへ向かった。しかしフランス軍の侵攻により彼らは止むを得ずウィーンへ戻り、1788年から続いた初めての演奏旅行は一つの区切りを迎えた。
2. エステルハージ時代(1792〜1811年)
1792年にウィーンへ戻ったフンメルは、アントニオ・サリエリから声楽作曲法、音楽哲学、美学を学び、ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーから対位法を学んだ。同じくこの両者から学んでいたのがベートーヴェンである。おそらく彼らはこの頃に知り合い、波乱に満ちた友人関係を開始することとなった。ベートーヴェンとフンメルはウィーンでのピアノ演奏家としての地位を争い、演奏会が開催されるたびに相手の会場へ足を運んでは、意見交換や批評のやり取りをしていた。また、ベートーヴェンが弦楽四重奏曲を出版するとすぐにフンメルも出版するなど、常に互いを意識する関係となった。演奏に限らず楽譜の出版においてもこの二人が高い人気を誇っていたが、当時は作曲家としての評価はフンメルの方が上であったと言われている。しかし、ライバルの才能を目の当たりにしたフンメルは自信を失い、作曲・演奏活動に支障をきたすこととなってしまう。
フンメルは、ロンドンから帰国してエステルハージ家の宮廷楽長に再就任していたハイドンからオルガンを学びはじめ、2人の交流はその後も続いた。ハイドンは当初、彼をシュトゥットガルトの楽長に推薦したが、この地位にはヴァイマールの楽長であったヨハン・フリードリヒ・クランツが就任したため、代わりにエステルハージ家のコンサートマスターに就任することとなった。しかしハイドンが体調を崩し、以前のように仕事ができない状態となっていたため、事実上はフンメルが宮廷楽長の職務を代行していた。ハイドンは名目上その肩書きを保持していたが、彼の引退後、フンメルが正式に宮廷楽長となった。彼の代表作品であるトランペット協奏曲ホ長調 WoO.1, S.49は、コンサートマスターに就任してすぐに行われたエステルハージ宮殿の新年祝賀会(1804年1月1日)にて初演されている。モーツァルトやベートーヴェンらを筆頭に現れ始めたフリーランス音楽家という存在が増える中、フンメルは宮廷に仕える音楽家としての人生をスタートさせたのである。エステルハージ家での主な仕事は作曲、指揮、そして音楽教育であった。それまでピアノのヴィルトゥオーソとして活躍していたフンメルは、オーケストラ作曲家としての実績がなかったものの、オペラやミサ曲などの創作に着手して成功を収めた。指揮者としての最初の大きな仕事は、体調不良で参加できなかったハイドンに代わって《天地創造》Hob. XXI : 2を振ることだった。この演奏会はエステルハージ宮殿で行われ、ハイドンはフンメルへ賞賛の書簡を送っている。音楽教育の主な仕事内容は、少年合唱団にピアノ、ヴァイオリン、チェロを指導することであった。しかしフンメルは規制された中での活動に不満を抱き始め、宮廷のためではなく、ウィーン市民を対象としたピアノ小品やピアノ用編曲作品を多く作曲するようになった。そのため、彼はエステルハージ家との専属契約を全うしていないと見なされ、1808年冬に一度解雇されてしまうが、ハイドンの仲裁によって取り下げられたとされている。1811年5月に契約の任期満了によりフンメルは辞職し、ウィーンへ戻ることとなった。
3. フリーランス時代(1811〜1818年)
再びウィーンへ戻ったフンメルはピアノ公演を行わず、作曲活動に専念した。エステルハージ家に勤めていた頃は多忙さゆえに演奏会を行っていなかったが、フリーランスとしての活動を始めても演奏会を再開しなかったのは、ベートーヴェンを意識して自信喪失してしまったからであると考えられている。フンメルがベートーヴェンを意識していたのは、両者がウィーンで活躍していた同世代のヴィルトゥオーソかつ作曲家であったからだけではなく、フンメル派とベートーヴェン派の衝突が絶えず生じていたことも原因の一つであろう。現に、フンメルはベートーヴェンの存在を強く意識していたからか、生涯に一曲も交響曲を残さなかった。また、この頃からフンメルとベートーヴェンの関係性は不安定であった。両者の関係性に亀裂が入ったのは早くも1807年のことであり、ベートーヴェンがエステルハージ宮殿でミサ曲ハ長調op. 86を上演した際、エステルハージ公の批判的な見解に対してフンメルが暗黙のうちに同意するような反応を示したことが原因であった。事態が悪化したのは1813年に入ってからである。フンメルはソプラノ歌手のエリーザベト・レッケルと結婚し、2人の息子に恵まれたが、ベートーヴェンは以前から密かにエリーザベトに恋心を抱いていたとされている。また、フンメルはベートーヴェンの《フィデリオ》op. 72のピアノ連弾用編曲を行なっていたが、ベートーヴェンがその楽譜を破り捨て、代わりにイグナーツ・モシェレスに任せてしまうという事件も起きた。このような出来事が何度も起こったものの、両者の友情が完全に断絶することはなかった。1813〜14年に行われたベートーヴェン指揮による《ウェリントンの勝利》op. 91の上演で、フンメルが打楽器奏者を務めていたという記録も残っている。
1814年頃、妻エリーザベトの説得により、フンメルはウィーン会議のために開催された演奏会でピアノ奏者としての復帰を果たし、大成功を収めた。また、長らく避けていた演奏旅行を1816年春にドイツで行なったことによって彼の名声は不動のものとなり、演奏家としての自信を取り戻した。これらの演奏活動の再開により、彼は愛好家向けの作品や劇場音楽ではなく、自身の演奏会用のピアノ作品を多く作曲するようになった。彼のピアノ協奏曲の大半は、1810年代後半に入ってから立て続けに作曲されている。
しかしフリーランスとしての活動は安定した収入を得られないため、フンメルは再び職を探すこととなった。1816年にシュトゥットガルトのヴュルテンベルク宮廷楽団の楽長に就任するも、作曲の時間が取れない上に、演奏旅行については常に許可を取らなければならず、彼は職場環境に満足しなかった。結局、フンメルは1818年秋に辞職し、同年11月にヴァイマール宮廷楽団の楽長となったのである。
4. ヴァイマール時代(1818〜1828年)
芸術に深い関心を持っていたヴァイマール宮廷との契約内容は、フンメルにとって非常に快適なものであった。彼は年に3ヶ月の休暇を、演奏会が盛んな時期である春に取ることが許された。また、カトリック教徒であったフンメルは、このプロテスタント宮廷における宗教音楽の監督義務を免除された。更に、ヴァイマールで宮廷顧問を務めていたヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテと親交を深めたことによって様々な知識人らと交流を持つようになり、多くの若手音楽家が自身の演奏や作品を見てもらおうとフンメルの元を訪れた。フンメルの弟子となるフェルディナント・ヒラーやルイーズ・ファランクに加え、メンデルスゾーン姉弟やシューマンも彼に師事するか検討したと言われている。また、リストもフンメルからピアノを学ぼうとしたものの、レッスン料が高額であったため断念し、代わりにカール・チェルニーに師事したというエピソードも残されている。
ヴァイマールでの主な職務は宮廷劇場で指揮することであったが、レパートリーの幅が大きく広がり、モーツァルトのような過去の重要な作曲家の作品に加え、ジョアキーノ・ロッシーニやジャコモ・マイヤーベーア、ルイ・シュポーア、ヴィンチェンツォ・ベッリーニらの新しいオペラも上演されるようになった。その際、フンメルは演奏旅行中に知り合った才能ある外国人歌手を雇ったこともあってか、オペラ公演は大成功を収めた。またフンメルは来訪音楽家の演奏会を主催し、当時ヨーロッパ各地で人気を博していた音楽家(ニコロ・パガニーニなど)をヴァイマールに招き、最新の音楽と演奏を聴くことができる環境を整えた。
フンメルは演奏旅行の時間を十分に確保できたため、各地を転々としていた。1820年にはプラハからウィーンにかけて旅行し、1822年にはロシアへ赴いている。この時、彼はクレメンティの弟子ジョン・フィールドと出会っている。1825年のパリ演奏旅行では、広報活動に関心のあったフンメルは訪れる都市に先行して大々的な宣伝を行なった。この宣伝活動において一翼を担ったのが、当時のパリ音楽院院長ルイジ・ケルビーニであり、演奏会は大成功に終わった。フンメルの名声は大きく膨れ上がり、フランスの最も名誉あるレジオンドヌール勲章の受賞、そしてウィーン楽友協会会員としての選出へと繋がった。
パリ演奏旅行の途中で、フンメルは様々な主要都市で自作品の海賊版が出回っていることを知り、著作権の確立を目指すようになった。出版業者の依頼に応えるために多くの序曲や交響曲、協奏曲の編曲を行なっていたことや、自作品の楽譜出版に力を入れていたことで、彼の作品が各地で広く販売されるようになっていた。こうした彼の知名度の高まりが重なったことで、かえって海賊版の増加を引き起こしたのではないかと考えられる。しかしフンメルがこの時期に最も時間をかけたのは執筆活動であり、1828年に『ピアノ奏法の理論と実践詳論 Auführlich theoreitisch-practische Anweisung zum Piano-Forte Spiel 』を出版した。この著書は「初めの基本的なレッスンから完全な専門教育まで」という副題付きの全3部で構成されたピアノ教則本である。ピアノの前での座り方や指の構え方といった入門的な内容から、装飾の弾き方やペダルの使い方、即興演奏法、イギリス式ピアノとウィーン式ピアノの各アクション機構によって引き起こされるタッチの違いなどの上級者向けの内容まで書かれている。その他にも1816年に発明されたばかりのメトロノームに関する言及がされており、当時の演奏方法を知るための貴重な資料となっている。
5. 晩年(1828〜1837年)
フンメルにとって、1820年代末に起こった大きな出来事はベートーヴェンの死である。1827年、フンメル夫妻は弟子ヒラーと共に、病床に伏せていたベートーヴェンに会うためにウィーンを訪れた。彼らはベートーヴェンが亡くなる3日前まで計4回も見舞い、フンメルは葬儀で棺を運ぶ役を務め、追悼演奏会ではベートーヴェンの作品の主題による即興演奏をいくつか行ったとされている。ベートーヴェンの死を境に、人々はより新しい音楽の流れや若い世代の音楽家を求めるようになり、フンメルのキャリアにも陰りが見え始めた。
1828年のポーランド演奏旅行(ここでショパンとの出会いを果たし、彼のピアノ協奏曲に大きな影響を与える)と1830年のパリ・ロンドン演奏旅行で大成功を収めたことにより、フンメルはキャリアのピークを迎えたが、その栄光は長く続かなかった。1831年のロンドン演奏旅行は、当時人気絶頂にあったパガニーニの滞在と重なってしまい、圧倒的な成功を収めるまでには至らなかった。また、リストをはじめとする若い世代による超絶技巧的な演奏や、従来の形式にとらわれない音楽が台頭していたため、フンメルの作品が古典的な枠組みに留まっているという印象を強める結果となった。体調が悪化したことも重なって1833年のロンドン滞在も成果が上がらず、1834年のウィーン訪問が、彼にとって最後の演奏旅行となった。その後、フンメルは闘病生活を続け、1837年10月17日にヴァイマールで生涯を終えた。葬儀では彼のカンタータが演奏され、ウィーンで行われた追悼式典ではモーツァルトの《レクイエム》K. 626が演奏された。
こうして、時代が古典派からロマン派へと移り変わる中で、音楽家として第一線を走り続けたフンメルの生涯は、静かに幕を閉じたのである。
解説 : 宮本 優美
(644 文字)
更新日:2007年5月1日
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解説 : 宮本 優美 (644 文字)
オーストリアのピアニスト、作曲家、教師、指揮者。存命中はヨーロッパ最大の作曲家の一人と評され、またおそらく最高のピアニストであった。
4歳で楽譜を読み、5歳でヴァイオリン、6歳でピアノを演奏する神童であった。8歳でウィーンに移り、モーツァルトにピアノを師事した。
88年にモーツァルトと別れ、父とともに長期の演奏旅行に出発する。父子はプラハ、ドレスデン、ベルリン、ゲッティンゲン、カッセル、ハノーヴァー、ツェレ、ハンブルク、キール、リューベック、コペンハーゲン、オーゼンセなどを回り、1790年からはイギリスで生活した。
フランス革命後の混乱によりフランス訪問を断念し、オランダとドイツを経由して93年にウィーンに帰還。アルブレヒツベルガーに対位法を、サリエリに声楽作曲法、美学、音楽哲学を師事。95年にはハイドンにオルガンを習う。またこの時期、ベートーヴェンに出会う。
1804年よりアイゼンシュタットにてエステルハージ侯の楽士長を務める。11年にウィーンに戻り作曲家として活躍、その後ピアニストとしての活動も再開し、ドイツ演奏旅行により名声を得る。また経済的安定を求め、シュトゥットガルト、ワイマールの楽長を歴任。ワイマールでは厚遇を受け、ゲーテにも出会う。
20年代にはロシアやポーランドでも演奏し、ピアニスト、教師、作曲家として最も多忙な時期を迎えるが、30年代にはその名声も下降線をたどる。1837年ワイマールにて没。ウィーンではフンメルの死を悼み、モーツァルトのレクイエムが演奏された。
作品(108)
ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ)
協奏曲 (9)
ロンド (4)
ピアノ独奏曲
ソナタ (7)
ロンド (7)
曲集・小品集 (9)
幻想曲 (6)
変奏曲 (21)
種々の作品 (11)
ピアノ合奏曲
室内楽

ステップレベル:基礎4,基礎5