
解説:上田 泰史 (3928文字)
更新日:1900年1月1日
解説:上田 泰史 (3928文字)
19世紀にボヘミアに生まれ西欧で活躍したピアノの才人には、枚挙に暇(いとま)がない。ドゥシーク(デュセック)、I. テデスコ、ドライショク、ジュール(ユリウス)・シュルホフ等々。しかし、彼らの名は往々にして演奏家のレパートリーやピアノ音楽史の主流に位置づけられることなく評価の待っている。ドゥシークに続く世代で、独仏英の三国で多大な影響力を持った最初の人物はこのモシェレスであろう。
モシェレスは1794年5月23日、プラハに生まれた。卸売業を営むユダヤ人の家族に生まれ、父は早くから息子に音楽教育を施した。地元の音楽家から手ほどきを受けたのち、1804年よりプラハ音楽院の院長ドゥニ・ヴェーバー Bedřich Diviš WEBER(1766~1842)のもとでJ. S. バッハ、モーツァルト、クレメンティの諸作品を徹底的に叩き込まれた。生来のすぐれた記憶力と勤勉な練習により長足の進歩を遂げ、弱冠12歳で、公開演奏会を地元で開いて喝采を浴びた。更なる探究心に駆られ、モシェレスは1808年、ウィーンに移住する。この地で彼は音楽家を志す若者なら誰もが教え乞うた2人の作曲家サリエリとアルブレヒツベルガーの門を叩いた。彼は強い関心を寄せていたベートーヴェンをはじめ、古今の様々な作品に身を浸しながら作曲と演奏の双方に等しい情熱を注いだ。この時期、アルタリア社の依頼を受けてベートーヴェンの監修下で彼のオペラ《フィデリオ》のリダクションを手がけている。1815年に出版された《ある軍楽の主題による大変奏曲(アレクサンドル一世の行進)》作品32は「出世作」と呼ぶに相応しい成功を収めた(15年後、若きシューマンは公開演奏会でこの作品を演奏した)。ウィーン体制下のドイツ語圏でこの作品が人気を博したのは、第六次対仏同盟軍による1814年のパリ陥落を背景としている。
ナポレオンの支配が弱まると、モシェレスはウィーンを離れてドイツ各地に演奏旅行に出かけ、ドレスデン、ライプツィヒ、ケルン、ミュンヘン、さらにはオランダ、ベルギーでも喝采を浴びるようになった。華々しい活躍の一方、《性格的ソナタ》作品27(1814作)、《ピアノ協奏曲第1番》作品45(1819作)、単一楽章からなるシンフォニックな《ソナタ・メランコリック(憂鬱なソナタ)》作品49(1814~19作、友人のピアニスト兼作曲家ピクシスに献呈)などにはこの時までに培った堅実な作曲の手腕とロマン主義への傾倒を見ることができる。最後に挙げた作品49のタイトルにある「憂鬱」は、フランス王党派の作家シャトーブリアンが「世紀病」と呼んだあてどない情熱を主題としており、音楽においてもロマン主義のトポスとなった。ベルリオーズの《幻想交響曲》(1830年初演)にその反映が色濃いが、モシェレスのソナタはそれに先駆けており、一楽章で簡潔させるという形式も、リストのソナタに先んじている。
1820年、モシェレスはパリのオペラ座に姿を見せる。一連の演奏会で彼は一大センセーションを巻き起こした。モシェレスの類稀な演奏技量、豊かな着想と過不足のなく見事に構成された諸作品は荒探しをする批評家に何の手がかりも与えなかったという。モシェレスを直接知るパリ音楽院教授マルモンテルは、彼の作品について「フンメルを除くいかなる大家も、あの精彩、斬新な足取り、効果にかんする深い知識をもって曲を書くことはなかった」とのちに述懐している。ほどなくパリではアンリ・エルツをはじめ、熱狂的なモシェレスの崇拝者が次々に現れた。パリ音楽院ではその後モシェレスの作品がたびたび試験課題曲に取り上げられるようになり、モシェレスの方もまた後に学習用の全調による《50の前奏曲集》作品73(1827)出版してパリ音楽院に捧げた。翌年に刊行された《24の異なる調による練習曲》作品70は、同年にパリで出版されたJ. C. ケスラーの《練習曲集》、H. ベルティーニの《性格的練習曲集》作品66と並んで、若い世代のピアニスト兼作曲家たちに大きなインパクトを与えた。シューマンは、この練習曲に付された演奏への序言の体裁を自身の《パガニーニの〈カプリース〉に基づく練習曲》作品3に採り入れたし、ショパンは《12の練習曲》作品10の第2番イ短調を書くに当たり、第3番ト長調の書法に演奏技法発展の可能性を見出した。作曲と演奏の傍ら、彼はエラール社の依頼に応じてピアノのダブル・エスケープメント機構の開発にも協力した。
1821年、熱烈な歓迎を受けたパリに別れを告げ、イギリスに渡った。大陸からくる大家に寛容なこの国で、彼はその後1846年まで25年間住み続けることとなる。ロンドンに居を定めたモシェレスは、ここで同地の名手でピアノのヴィルトゥオーゾとしては大先輩にあたるM. クレメンティ、J. B. クラーマーと知己を得た。生来人当たりがよく、敵を作らない紳士モシェレスは直ちに貴族や一般市民の間で人気を勝ち取り、多くの弟子を抱えるようになった。その中にはロンドン出身の若きヴィルトゥオーゾ、アンリ・リトルフ(1818~1891)やドイツからロンドンに渡っていたS. タールベルクが含まれる。1824年、ベルリンで15歳の若きメンデルスゾーンに出会いレッスンを施し、その後この弟子がロンドンに来るたびに快く出迎え演奏会で共演した。1839年にはパリでショパンと自作の連弾ソナタ作品47を王族の御前で演奏している。この曲は、ショパンのお気に入りの作品でもあった。イギリスで暮らすようになってからも彼はアイルランド、スコットランドや大陸の諸都市へ演奏旅行に出かけたが、25年に結婚し、さらに王立音楽アカデミーのピアノ教授、フィルハーモニー協会の指揮者を兼ねるようになってからはロンドンを留守にすることは少なくなった。
イギリス時代、彼は18世紀以前の音楽探究にも余念がなかった。「歴史的演奏会」と銘打たれた音楽の夕べで、彼は当時既に過去の遺物と化していたチェンバロを使ってバッハやヘンデル、スカルラッティといったバロックの鍵盤作品を披露したほか、パーセルやモーツァルトの声楽曲、また自身がそのスペシャリストであるベートーヴェンやC. M. v. ウェーバーのソナタを演奏した。ピアニストとしてのモシェレスは卓越した即興家でもあり、フェティスの伝えるところによると、彼がブリュッセルでモシェレスの演奏を聴いた時、モシェレスは与えられた 3 つの主題を一度に引き受け、立て続けにそれぞれの主題に基づいて即興した後で右手、左手に交互に主題を登場させ、一つの主題を他の主題に組み合わせ、「一度もためらう瞬間なく、しかも興味の歩みを止めることなく」即興を終えたという。彼が即興する幻想曲の枠組みは予め書かれたものだと思う人もおり、彼自身、1835 年のモシェレスの即興を「今聴いたばかりのものがほとんど信じられなかった」と書いている780。こうした即興における構築性を、フェティスは修辞学と演奏の伝統的な類比を用いて、「才能ある弁論家が演説の中で築きあげる秩序」と比較している。
彼が指揮者を務めたロンドンのフィルハーモニー協会の存在はモシェレスにピアノ曲以外にも豊かな作曲の足がかりを与えた。彼はこの楽団のためにハ長調の《交響曲》作品81(1828~1829)を書くことができたし、また弦楽器と管楽器とピアノのための《七重奏曲》作品88もまたこの協会によって演奏された作品である。指揮者としてはベートーヴェンの《荘厳ミサ曲》、《第九交響曲》の上演を成功させイギリスのベートーヴェン受容に大きく貢献した。また、モシェレスによるシントラーの『ベートーヴェン伝』(その記述の信憑性は今日大いに疑われている)英訳版が(1841)は一般の読者たちにベートーヴェンのイメージを定着させるのに一役かったことも付け加えておこう。
1846年、モシェレスは住み慣れたロンドンを後にし、メンデルスゾーンの招きでライプツィヒ音楽院のピアノ教授に迎えられる(メンデルスゾーンは12年前に《幻想曲》作品28をモシェレスに献呈している)。ピアノ教育者としての手腕はすでにイギリスでの教職やベルギーの作曲家兼音楽著述家フェティスと共編・出版した《諸メソッドから導き出されたメソッド》(1841)で広く人々に知られるようになっていた。モシェレスの到来で、この学校の生徒たちはたちまちに名高い一派を成すに至った。ライプツィィヒでの門弟には、E. グリーグ、A. サリヴァン (1842~1900)、同国人Z. フィビヒ(フィビフ)(1850~1900)らがいる。モシェレスは家族と共に75歳で亡くなるまでこの街に留まった。彼が踏み固めた教育の基礎はその後ライネッケへと引き継がれライプツィヒ音楽院はヨーロッパを代表する教育機関として明治期の日本にまでその名を轟かせるに至った。
モシェレスは18世紀以前のドイツ音楽の伝道者として多くの楽譜編纂や編曲を行っている。ベートーヴェンだけを見てもピアノ・ソナタ、室内楽、序曲、オペラ《フィデリオ》のヴォーカル・スコア、交響曲のピアノ用編曲、ピアノ協奏曲の独奏版編曲、ピアノ協奏曲へのカデンツァがある。さらにヘンデル、ハイドン、クレメンティ、ウェーバーの鍵盤作品の編纂も行い歴史的探究の成果を広く人々に知らせた。彼の生涯一貫した「古典」の探究作業はその後の近代的なピアノ教育のレパートリーの土台を創る一つの契機となった意味でも、彼の教育的貢献を思い返しておく価値があるだろう。
解説 : 齊藤 紀子
(237 文字)
更新日:2008年10月1日
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解説 : 齊藤 紀子 (237 文字)
チェコに生まれ、ドイツで活動した。作曲の他に、ピアニストやピアノ教育者、指揮者としても知られている。モシェレスの活動の中核をなすのはピアノ関連のものである。
プラハ音楽院でウェーバーに師事した。当時、完成したばかりのベートーヴェンのピアノ・ソナタに強い関心を示し、ウィーンに出てベートーヴェンのもとを訪れた。同地では、対位法をアルブレヒツベルガーに、作曲をサリエリに師事している。ピアニストとしては、当時、ドイツ国内の各地、パリ、ロンドン、プラハのどこへ行っても名声を博した。
作品(29)
ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ) (1)
協奏曲 (8)
ピアノ独奏曲 (7)
ソナタ (4)
ピアノ合奏曲 (4)