
解説:齊藤 紀子 (1421文字)
更新日:2008年8月1日
解説:齊藤 紀子 (1421文字)
1.出身・主たる活動国
ドイツの音楽一家に生まれる。ヴァイオリニストの多かったクラーマー一家の中では、このヨハン・バプティスト・クラーマーが最もよく知られている。クラーマーが幼少の頃に、一家はロンドンに移っている。
2.学習・師事歴
当初、ヴァイオリニストである父親からヴァイオリンを習っていた。しかし、クレメンティらに師事して学んだピアノで才能を示した。その他に、アーベルに音楽理論も学習している。これらの学習を通じて、クラーマーは20歳を迎えるまでに、クレメンティやJ. S. バッハ、C. P. E. バッハ、スカルラッティ、ハイドン、モーツァルトといった作曲家の作品にふれていた。とりわけ、《平均律クラヴィア曲集》の作曲者、J. S. バッハに傾倒したとされている。後に、パリを訪れた際に、バッハの作品の筆写譜を多数、入手している。
3.作風
クラーマーの作品は、「保守的」であるといわれることが多い。モーツァルトを始めとする古典派の作品の系譜を受け継ごうとした。しかし、実際には、そのような保守性の中に、当時において斬新なピアノの書法を融合させている。
4.ピアニストとしてのクラーマー
クラーマー主たる音楽活動はピアノの演奏であった。1781年春にピアニストとしてのデビューを果たしたクラーマーは、1780年後半からヨーロッパ各地で演奏会を催し、私的な演奏会にも積極的に参加した。バッハやモーツァルトの作品を演奏することが多かった。また、ベートーヴェンのピアノ・ソナタをイギリスで紹介した。
5.ピアノ指導歴
ピアノの教育にも携わった。そのレッスン料は、当時の経済事情において高額なものであったという。
6.その他の活動
ピアノの師、クレメンティに倣い、1824年に、ロンドンで一家の名を冠した楽譜の出版社※を設立した。それ以前の事柄として、1813年にフィルハーモニック協会の設立メンバーに名を連ねたこと、1822年にロイヤル音楽アカデミーの創立に伴い評議員に任命されたことが挙げられる。また、『Anweisung das Pianoforte zu spielen(ピアノ演奏の指針)』として、ピアノの運指法とペダルの用法を著した。
7.関わりのあった作曲家
1790年代にロンドンではハイドンと、演奏旅行で訪れたウィーンではベートーヴェンと出会い。ハイドンとの再会も果たした。その他に、フンメルやドゥセク、ヴェーバー、カルクブレンナー、ケルビーニらとも関わりがあり、後年、チェルニーやモシェレス、メンデルスゾーン、リスト、ベルリオーズとも出会っている。
8.ピアノ作品の傾向
ピアノ作品の中でも、練習曲のピアノ教育への貢献は大きく、今日もなお用いられている。その他には、ソナタも100曲以上作曲した。なお、概して、初期の作品にソナタが多い。
※クラーマーの設立した出版社
ピアノの製造業者を前身として、1824年に設立した。ロバート・アディソンとトマス・フレデリック・ビールと共に「クラーマー・アディソン&ビール社」として着手した。主たる事業は、ピアノ曲の楽譜を出版した。設立から約5年を経た1830年には、ロイヤル・ハーモニック・インスティテューション社の所有していた印刷原版を入手し、ベートーヴェンやクレメンティ、ハイドン、フンメル、モーツァルトといった作曲家の作品も手がけるようになった。ピアノ作品の他には、イタリア歌曲や二重唱、オペラも出版している。
作品(83)
ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ) (1)
協奏曲 (8)
ピアノ独奏曲 (12)
ソナタ (35)
練習曲 (16)
室内楽 (2)