
解説:今関 汐里 (1619文字)
更新日:2018年12月11日
解説:今関 汐里 (1619文字)
ムーツィオ・クレメンティは1752年1月23日に、ローマのサン・ロレンツォ教区に誕生した。父ニコロは銀細工職人であったが、息子に最善の音楽教育を受けさせようと努め、ソルフェージュ、通奏低音などのレッスンに通わせている。その英才教育が功を奏し、クレメンティは、弱冠13歳で、サン・ロレンツォ聖堂のオルガニストの地位を獲得した。この時のオルガニストとしての活動が、イギリスの貴族であるピーター・ベックフォード(1740~1811)の目に留まり、クレメンティは父のもとを離れ、彼と共にイギリス南西部のドーセットへと向かった。
1774年末か1775年の初めころ、クレメンティはドーセットからロンドンへと移り、本格的な音楽活動を始めている。そのころのロンドンでは、ヨハン・クリスティアン・バッハが活躍していたため、クレメンティはさほど注目されていなかったと考えられているが、次第にハープシコード奏者として名を成していった。1779年の春には、《クラヴィーア・ソナタ》Op. 2が人気を博し、その後の演奏会の出演回数も増加している。
1780年5月に、クレメンティは演奏旅行のために大陸へと向かった。この旅行での最大の出来事といえば、クレメンティがモーツァルトと共に、1781年12月24日に、オーストリアの皇帝ヨーゼフ二世の御前で演奏を披露したことである。この時、ヨーゼフ二世がクレメンティの演奏よりモーツァルトの演奏を気に入った、という証言は、モーツァルトの父宛ての手紙にみられる。しかしながら、モーツァルトがこの御前演奏から月日が経っても執拗に、クレメンティを「いかさま師」だとして、彼の演奏を非難していることに鑑みると、この出来事ないしクレメンティの演奏が、モーツァルトにとって非常に印象的であったことの裏付け、さらには、クレメンティの演奏家としての名声に対する妬みの現れであるともいえるかもしれない。
モーツァルトとの競演の後、クレメンティは1783年秋にロンドンへと戻り、再び、鍵盤楽器奏者として登場している。しかし、その7年後の1790年5月31日の演奏会への出演し、ソロのピアニストとしてのキャリアに終止符を打った。その明確な理由は不明であるが、クレメンティがその後も音楽界で活動しようと考えていたことは明らかである。
ソリスト引退後、クレメンティは、指揮者(当時は鍵盤楽器で通奏低音を担当)や、音楽出版、楽器製造会社の経営者、教育者として活動し、音楽界での活躍の場を広げていた。楽譜出版事業では、特にベートーヴェン作品のイギリス版権獲得のために、クレメンティ自らベートーヴェンを訪ね、ピアノ協奏曲第5番やピアノ・ソナタOp. 78、Op. 79などの作品を出版している。1813年1月には、ロンドンを中心に活躍する音楽家たちと共に「フィルハーモニック協会」を設立し、自作の交響曲ばかりではなく、様々な作品の指揮も務めていた。教育者としての彼の活動は、18世紀末から始まっており、ヨハン・バプティスト・クラーマーやジョン・フィールドなどの著名なピアニストを育てたことでも知られている。しかし、彼の教育者としての名声は、彼が《ピアノ演奏の手引き》Op. 42(1801)や《グラドゥス・アド・パルナッスム》Op. 44(1817、1819、1826)などいくつかのピアノ教育作品を出版したことで、さらに高まった。クレメンティの教育作品は、チェルニー、ショパン、リストなどが個人レッスンで、パリ音楽院のピアノ科でも教材として用いていたことから、彼の作品が、ピアニスト養成の要石として重きをなしていたことは明らかである。1832年3月10日この世を去ったクレメンティは、同年3月29日にロンドンのウェストミンスター寺院に埋葬された。その墓石には、「ピアノフォルテの父」と刻まれ、その名声がヨーロッパ全土に及んでいたことが讃えられている。
解説 : 上田 泰史
(5530 文字)
更新日:2013年10月15日
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解説 : 上田 泰史 (5530 文字)
二つの世紀をまたいで 80 歳まで生きたクレメンティは社会的にもピアノ音楽発展においても激動の時代を生き抜いた。1789 年に始まるフランス革命の動乱、ナポレオンの帝政によって確立された秩序は 19 世紀を通して次第にヨーロッパを王制から共和的な理想の実現へと導いた。ピアノは 18 世紀後半にチェンバロを凌ぐ勢いで製造量が増加しはじめ、19 世紀初頭には大量生産を可能にした産業革命と資本主義の波に飲み込まれてクラヴサンは過去の遺物になった。クレメンティは、1793 年に出版された《3 つのソナタ》作品 32 以降、タイトルに「ピアノフォルテまたはハープシコード」と記載することをやめた。クレメンティの創作史は、18 世紀後半から 19 世紀にかけて発達した鍵盤楽器の歴史そのものでもあるといえる。
1. イタリアでの教育とイギリス移住(1752~1774)
1752 年 1 月 23 日、ローマで生まれたクレメンティは、幼いうちから地元で個人的な教師について音楽の道に入った。13 歳で教会オルガニストを任されるほど彼の才能は急速に開花する。1766 年、音楽を愛する英国の貴族がローマに立ち寄った。彼の名はピータ・ベックフォード卿(1740~1811)といい、小説家ウィリアム・ベックフォードの従兄弟である。7 年間、この天才少年の面倒を請け負うという条件で、ベックフォード卿はクレメンティをイギリスに連れて帰り、ドーセット州の所領で、物心両面で申し分ない環境を与えた。《ピアノフォルテまたはチェンバロの為の 6 つのソナタ》作品 1(1771)は勉学時代に書かれた数少ない鍵盤作品である。
2. 国際的な演奏旅行(1774~1785)、モーツァルトとの出会い
7 年の契約が切れた 74 年、ロンドンに移ってチェンバリストとして演奏活動を始める。75 年にデビューして以来、80 年までにロンドンで一流の演奏家としての地位を確立した。1780 年にクレメンティを紹介した事典項目では「クレメンティ氏は[オクターヴの連続を]非常に見事に演奏する。彼は最も輝かしい演奏家の一人である」と評されている。80 年の夏、さらなる成功を目指して海峡を渡り大陸でのコンサートツアーを敢行する。ベックフォード卿の庇護下に置かれていた時分より上流階級と接点のあったクレメンティはしばしばパリ、オーストリアで王族の御前で演奏する機会を得た。この演奏は、マリー・アントワネットの兄で神聖ローマ皇帝ヨーゼフ二世の宮廷で、モーツァルトと共に行なわれた。1781 年 12 月の御前演奏については《ソナタ》作品 24-2 の解説で述べられているとおりである。後にモーツァルトがクレメンティの巧みな指さばきを見て「単なる機械に過ぎない」と評し「ペテン師だ」とさえ述べている事実はしばしば引用されるが、こうした一時的な印象や個人的心情に基づく評価を、作曲家・演奏家としてのクレメンティの全体的評価に適用すべきではないし、この部分のみを拠り所にしてクレメンティの音楽家としての才能を論ずるのはそもそも客観性と公正さを欠く不毛な議論をもたらすだけである。
翌年 5 月にウィーンを発ったクレメンティはスイス、フランスのリヨンで成功を収め、しばらくリヨンに滞在した後、85 年 5 月にロンドンに戻った。教育者としてのキャリアはこの頃に始まる。
3. ロンドンでの名声確立:教育者、楽器製造者、作曲家(1785~1800頃)
3-1. 教育者として
1785 年から 1802 年まで、クレメンティはロンドンに住み続けた。既に経験豊かなピアニスト兼作曲家として、彼はロンドンの演奏会に度々出演して自作のソナタを演奏し、この都市の最も優れた音楽家としての地位を固めた。ピアノ奏者としてのみならず、90 年代半ばまで、クレメンティは交響曲作曲家としての成功をも夢見て自作交響曲の指揮や協奏曲の弾き振りも行っていた(協奏曲のオリジナル・スコアは発見されていない)。教育者として非常に声望があり、裕福な家庭の市民ばかりか王族までが彼のレッスンを所望した。クレメンティの薫陶を受けた職業音楽家の中で特に有名な音楽家として、ヨハン・バプティスト・クラーマー、アンリ・ベルティーニの兄ブノワ=オーギュスト・ベルティーニ、ジョン・フィールド、そしてカルクブレンナー の名前をあげることができる。彼らはいずれも見識豊かなヴィルトゥオーゾとしてのみならずピアノの教育者として 19 世紀のピアノ音楽界にその名を轟かせた。クラーマーは 19 世紀の「ピアノ練習曲」の創始者として、アンリ・ベルティーニは「性格的練習曲」というジャンルの確立者として、フィールドは 19 世紀初期のロマン主義協奏曲と新たに確立したクターンにおける歌唱的表現の探求者として、そしてカルクブレンナーは両手の均質性と指の独立を体系化した理論家として、クレメンティの衣鉢を継いだ。
3-2. 楽器製造と出版
1790 年末から、クレメンティは演奏や教育活動で増やした資本をピアノの製造・販売業に投資するようになった。1798 年、楽器製造業者ジョン・ロングマンの破産に伴い、彼はロングマンと共同出資者 を集めて資金を集めロングマン=クレメンティ社として会社を再生、1800 年にロングマンが独立するまで共同経営を行なった。 以後、クレメンティは晩年の 1830 年まで会社の代表となりピアノのみならず楽譜出版にも手を広げながら経営の指揮にあたった。
3-3. 作曲家クレメンティ
ロンドンでの安定した生活のおかげでクレメンティは集中的に作曲・出版活動に取り組むことができた。二つの交響曲 作品 18 (変ロ長調、ニ長調)、ピアノ協奏曲として構想されたピアノ・ソナタ 作品 33-3、アルペッジョや技巧的走句に基づく即興的な序奏と歌唱的旋律を基調とし劇的な展開を見せるカプリッチョ(作品 17; 作品34-3,4)そして彼の創作の大部分を占めるピアノまたはチェンバロのための数々のソナタ。クレメンティが 18 世紀、とくにウィーン滞在以後に出版した鍵盤作品にはハイドン、モーツァルトにしばしば帰される盛期古典派の様式的特徴、高度な和声、対位法的造詣がはっきりと刻印されているばかりか(作品 24-2)、とくに 1790 年代以降はベートーヴェンに先立ってソナタというジャンルにおいて新しい楽章構成も試みた(冒頭にソナタ・アレグロを置かず緩徐楽章で開始する作品 25-4 イ長調、第 1楽章にアダージョの序奏を置く作品 33-2)。ピアノの製作に携わったクレメンティは、演奏技法においてもピアノの歌唱的表現、オクターヴで低音を響かせ分厚い和音を駆使した交響的音響を探求し(作品 33-3)ピアノによる新しい表現の可能性を押し広げた。教育的な意図の下に書かれた《6 つのソナチネ》作品 36(1797)は、今日クレメンティの代名詞のように取り扱われているが、彼の全出版作品における唯一の「ソナチネ」であり 、他の奇想曲やソナタ等を一顧だにせずこれを作曲家クレメンティの代表作とみなすのは大きな誤解である。
4. ヨーロッパ大陸への「出張」(1801~1810)
1801年、クレメンティは『ピアノ演奏法序説』を刊行する。このピアノ・メソッドにはコレッリ、クープランからハイドンといった先人に加え年下のモーツァルト、ドゥシーク、愛弟子クラーマーらの作品に運指、強弱、フレージングを入念に施した実例が収められている。高額なレッスンで知られるクレメンティが50歳を目前にして自身の教育法を公開した背景には、商業活動推進の目論見があった。かねてより取り組んでいたピアノ製造・販売と出版事業の拡大を図るため、1802年、彼は弟子のジョン・フィールドを引き連れて活動拠点のロンドンを出発し、故国イタリア、ドイツ、ロシアを訪問する旅に出る。ドイツを拠点とした彼の旅程は、L. プランティンガによれば次の通りである。
1802:ウィーン
1802~1803:ロシア
1804~1805:ウィーン、イタリア
1806:ロシア
1806~1807:ウィーン
1807~1808:イタリア
1808~1810:ウィーン
1810年までの約8年に亘るこの長期出張の間、クレメンティは版権獲得を目的とした作曲家たちと交渉やピアノの売り込みに余年がなかった。楽譜出版に関してもっとも大きな成果は、1807年に次に挙げるベートーヴェン作品の版権を獲得したことだった。『ピアノ協奏曲第4番』 作品58、『弦楽四重奏曲』(ラズモフスキー四重奏曲)作品59、『ヴァイオリン協奏曲』 作品61、『コリオラン』序曲 作品62、『交響曲 第5番』 作品67。1810年から11年にはさらにベートーヴェンの10作品の版権が彼の手中に収まった。『ヴァイオリン協奏曲』に関しては、ベートーヴェン自身にこのヴァイオリン協奏曲をピアノ協奏曲に編曲させ、クレメンティ社から出版することにも成功した。
ピアノ販売においては彼の弟子たちが大いに貢献した。古株の門弟フィールド同様、ドイツで弟子入りしたアレクサンダー・クレンゲル(1783~1852)、ルードヴィヒ・ベルガー(1777~1830)は師に随伴しサンクトペテルブルクを訪れピアノの宣伝を兼ねて演奏会を開いた。彼らはやがて優れた音楽家に成長し、クレンゲルの作曲した48のカノンとフーガは若きショパンを魅了した。ベルガーはメンデルスゾーン(1809-1847)、ヴィルヘルム・タウベルト(1811-1891)、アドルフ・ヘンゼルト(1814-1889)ら若きドイツの名手の師として、クレメンティの教えを後代に伝えた。また、フランスの作曲家では世紀前半のフランスで一世を風靡したフレデリック・カルクブレンナー(1785~1849)もクレメンティのメソッドを引き継ぎ発展させることとなる。
私生活においては1804年、30年以上も年の離れた若い女性カロリーヌ・レーマンと結婚するが、翌年、出産時に命を落とすという不幸に見舞われた。
5.交響曲作曲家 (1810~1822)
1810年、クレメンティは長らく不在にしていたロンドンに戻った。還暦を目前に控えたこのベテラン音楽家は、翌年エンマ・ギスボーンというイギリス女性と再婚、前妻との死別を乗り越えて二男二女を設けた。1807年、留守中の火事に見舞われた会社の経営は再び軌道に乗り、音楽家としても安定した生活が続く。1813年、ロンドンにおけるフィルハーモニー協会の創立は多忙な業務・レッスンの合間を縫って交響曲を作曲・演奏する契機をクレメンティに与えた。クレメンティには実際、同時代に国際的な名声を博していたベートーヴェン(1770~1827)に交響曲作曲家として肩を並べたいという野心を抱いていた。自作交響曲を大陸の聴衆に紹介すべく、彼は自らフランス、ドイツに出向きオーケストラ団体に働きかけた。1816・17年はパリのコンセール・スピリチュエルで、22年にはベルリンのゲヴァントハウス管弦楽団で三度自作交響曲を指揮した。しかし、オーケストラ作曲家としての名声は持続することはなかった。
6.後期作品
この時期、彼の名を高からしめたのはむしろピアノ曲の分野においてである。1817年に出版が始まり1819年、26年の三度に分けて出版された『グラドゥス・アド・パルナッスム―あるいはピアノ演奏の技法』作品44はフーガ、カノン、ソナタ、練習曲など様々な書法・ジャンルを包含する100曲の音楽帳として編まれ、以後クレメンティの代名詞として定着する。
70歳を目前に控えた1820年から21年にかけては恐らく書き溜めていた後期の大作を一挙に発表する。高弟カルクブレンナーに献呈された『ソナタ』変ロ長調 作品46(1820)、妻に捧げた『2つの奇想曲』作品47、モロー元帥夫人に捧げられた『民謡「月の光」に基づく幻想曲』作品48、軽妙かつ繊細な魅力を湛える小品集『12のモンフェッリーナ』作品49、そして創作人生を締めくくる傑作『3つのソナタ』作品50(1821)。この最後のソナタは翌年からパリ音楽院院長に就任する重鎮ルイージ・ケルビーニへの献辞を添えて刊行された。とくに一種の標題音楽に属する第3番「見捨てられたディドーネ―悲劇的情景」は後に版を重ね見識ある音楽家たちの間で評価された。
7.晩年と最期 (1820年代~1832)
長い人生の夕暮れに、クレメンティは会社経営から手を引き、最晩年、ロンドン北西に位置する街イヴシャムに隠居した。フランスの教育者、ピアニスト兼作曲家のアントワーヌ=フランソワ・マルモンテル(1816-1898)はこの時期のクレメンティに関する逸話を伝えている。
珍しくロンドンを訪れたとき、クレメンティはクラーマー、モシェレスら著名な音楽家の饗応を受けた。食事が終わると、クレメンティは80歳の高齢であるにもかかわらず演奏することを申し出て、即興演奏で聴衆を驚かせた。そこに息づく若々しい着想、ヴィルトゥオーゾの大胆さ、彼の様式の色彩と力強さは、なおも彼が成功の絶頂にある頃と変わらないことをはっきりと示していた。
このエピソードは、絶えず向上を目指し活動を展開し続けたクレメンティの精神的な若さをよく示している。だが、1832年1月2日に遺書をしたためてからほどなくして彼の天命は尽きた。クレメンティは3月10日にイヴシャムに没した。
解説 : 実方 康介
(325 文字)
更新日:2007年4月1日
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解説 : 実方 康介 (325 文字)
古典期の作曲家・鍵盤演奏者。ローマの細工師の家に生まれた。少年期にロンドンに渡り、以後活動の拠点とした。交響曲、協奏曲、室内楽など各ジャンルに作品を残しているが特に鍵盤楽器の作品が多い。ソナチネはピアノ学習者の初級教材として広く知られている。モーツァルトと演奏技巧を競い、「無趣味で機械的」と評されたエピソードで有名。ただし、このときのクレメンティはチェンバロ奏者として名を成していたものの、ピアノにはまだ慣れていなかったという。クレメンティはその後楽器製造を始める。ジョン・フィールドやクレンゲルのような有能な弟子をデモンストレーターとして(人遣いが荒かったとも伝わっている)ピアノの販売を行い、楽譜出版も手がけるなど、実業家としても成功を収めた。
作品(110)
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