テデスコ, イグナーツ 1817-1882 Tedesco, Ignace
解説:上田 泰史 (1855文字)
更新日:2018年3月12日
解説:上田 泰史 (1855文字)
イグナーツ・アマデウス・テデスコ Ignaz Amadeus Tedesco
1817.3.1. プラハ生、1882.11.13 オデッサ没
ボヘミアのピアノ奏者、作曲家。父の下でピアノを始め、次いで当時プラハのオペラ座で楽長を務めていた作曲家ヨーゼフ・トリーベンゼーJosef Triebensee(1772-1846)に師事(この師はオーボエ奏者でもあり、1791年にモーツァルトの指揮で上演された『魔笛』の初演にも参加した、著名な音楽家だった)。テデスコは12歳の時に早くも公開演奏会で演奏し、13歳のときにヴィーンの演奏会で成功を収めた。プラハに戻ると、彼はボヘミア音楽界の重鎮トマーシェクの門下に入り、ピアノと作曲を学ぶ。1835年にはヴィーンで再び演奏会を開き、翌年にはドイツへ演奏旅行、ライプツィヒではゲヴァントハウスの演奏会に登場した。彼は19歳で既にボヘミアの音楽学校で教鞭を執っていたとい云う。この時の彼の弟子には名手ユリウス・シュルホフJulius Schulhoff(1825~1898)、カール・ヴェーレCarl Wehle(1825~1883)がいる。
40年に一旦プラハに戻り、続いて南ロシアに旅行。リヴィウ、チェルニウツィー(いずれも現ウクライナ領)、ヤシ(現ルーマニア領)で演奏会を行い、最終的にオデッサに定住、47年までピアノ教育に身を捧げた。翌年、テデスコはパリを訪れ、エラール社のサロン、次いでサル・エルツにて演奏会を開いた(この時の肩書きは、オルデンブルク大公付きピアニストとして紹介されている)。
以下は、1858年1月29日にエラール社のサロンで行われた演奏会の演目。
ベートーヴェン:《ピアノ・ソナタ》 作品22
[以下、オリジナル作品]
《想い出――ノクターン》 作品81
《さらば、ヴィーンよ――即興曲》作品26
《夏の夜――6つの性格的小品》作品86より3曲抜粋
《カーニバルの情景》作品82
《ボヘミア万歳――国民唄》作品83
《ヤシの想い出――華麗なマズルカ》作品85
この年から翌年にかけてパリの聴衆を惹き付けたテデスコは、出版社ブランデュと契約し、年内に《大ギャロップ》作品75、上の演奏会で弾いた作品81~83を出版、作品82をA.-F. マルモンテルに、作品83をF. ル・クーペ(いずれもパリ音楽院教授)に献呈。同年、パリを離れたテデスコは、ハンブルク、ロンドンに滞在。以後の足取りは、更なる調査を要するが、82年にオデッサで没していることから、再びこの地に戻り暮らしたものと思われる。
テデスコの作品は、作品番号にして118作品が確認されており、全てがピアノ独奏用の作品である。ジャンルは多岐に亘るが、トマーシェクの伝統を汲むピアノ小品、中規模作品が多い。ノクターン〔作品44、47、63、88、90〕、即興曲〔作品9、17、26、70、71〕、カプリース〔作品6、24、48〕、ラプソディ〔作品52〕、《ドイツの旋律》〔作品49、76、80、108〕と題された連作。また、舞曲ではマズルカ(作品27、32、53、76bis、85)が最も多く、次いでワルツ(作品40、62、89、104)、ギャロップ(作品)、ポルカ(作品35、70〔即興曲を兼ねる〕)、レドヴァ(作品71〔同前〕)、種々の舞曲を含む《サロン・アルバム》作品75など。演奏会用の華麗な作品では、オペラの主題に基づく幻想曲(作品6、18、50、93、99)、練習曲(作品46、65)がある。編曲作品にも作品番号をつけており、作品56、112は過去の大家の作品のピアノ独奏用編曲である。また、ロンドンでピアノ協奏曲を発表したとされるが、出版はされなかったとみられる。
参考文献
Henri Blanchard, « Audition musicale », Revue et gazette musicale de Paris, 24e année, no 5, 1er février 1857, p. 34-35.
Karl Gollmick, Handlexicon der Tonkunst, Offenbach, Johann André, 1857, p. 141.
Anonyme, « Nouvelles », Revue et gazette musicale de Paris, 24e année, no 2, 11 janvier 1857, p. 14.
作品(7)
ピアノ独奏曲 (6)
練習曲 (2)
動画0
解説0
楽譜0
編曲0
幻想曲 (1)