
解説:野原 泰子 (775文字)
更新日:2007年5月1日
解説:野原 泰子 (775文字)
ロシアの作曲家。ニジニイ-ノヴゴロドに生まれる。幼少から楽才を示し、貴族学校に通いながらピアノを学ぶ。1855年にペテルブルクへ渡り、グリンカやダルゴムィシスキーと出会う。バラキレフのもとにキュイ(55年)やムソルグスキー(56年)、それからリムスキー=コルサコフとボロディン(61年)が集結し、いわゆるバラキレフ・グループ(「力強い一団」)が誕生する。同時期に活動していたアントン・ルビンシテインらの「西欧派」に対して、彼らは「新ロシア楽派」を名乗り、ロシアの現実と民族の志向を表現する国民芸術を目指して、ペテルブルグを拠点に活動を展開した。バラキレフを除くメンバーは、当初は他に本職をもつ貴族のディレッタントで、バラキレフは仲間の音楽教育に力を注ぎ、その才能を開花させた。1862年にはバラキレフの発案により、「西欧派」の拠点であるペテルブルグ音楽院に対抗する形で、無料音楽学校が開設された(バラキレフは68年に校長に着任)。バラキレフは同校主催の演奏会で指揮台に立ち、バラキレフ・グループの新作や、彼らの信奉するグリンカやダルゴムィシスキー、そして初期ロマン派(ベルリオーズ、シューマン、リストら)の作品を精力的に取り上げた。またヴォルガ河沿岸(60年)やカフカース地方(62年から)で採取した民謡は、楽曲の素材として用いれられ、同地での経験はオリエンタリズムの濃厚な代表作《イスラメイ》や交響詩《タマーラ》を生みだす契機となった。69年にパトロンとの軋轢から音楽学校を辞し、70年代には心身の危機に陥る。仲間たちもそれぞれの道を歩みだし、70年代半ばに「一団」は実質上解消した。81年には校長に復職し、指揮活動も再開。宮廷合唱団の楽長(1882~94年)なども務めるが、晩年には彼の影響力は薄れ、引きこもった生活のなかで旧作の改編に専念した。
作品(54)
ピアノ協奏曲(管弦楽とピアノ) (1)
ピアノ独奏曲 (20)
スケルツォ (3)
幻想曲 (4)
マズルカ (7)
ワルツ (5)
ノクターン (4)
性格小品 (4)
★ 種々の作品 ★ (3)
ピアノ合奏曲 (2)
その他 (2)